雨の日の仔猫
その日は朝から雨だった。
傘をさしている人がまばらだったのは、
その日の天気予報が晴れだったせいだ。
「降水0%だったのに、こんなに外れることある?」
ゆいは窓の外を見ながら言った。
クロは窓際で目を閉じたまま答える。
「よくあることだろ」
「すごく、ちゃんと降ってる」
「それが雨だろ」
クロとゆいのやり取りを、榊は少し離れたところで見ていた。
「……二人とも、雨に厳しいですね」
軽く、どうでもいいような口調で言う。
ゆいが振り返る。
「榊さん、いたんだ」
その瞬間、クロが一度だけ榊を見る。
「いたのか、おまえ」
榊は小さく肩をすくめた。
「いますよ、ちゃんと」
「今日は、そういう日かもしれませんね」
相馬はカップを片手で拭きながら静かに言う。
ゆいはその言葉の意味を飲み込めないまま、首をかしげた。
そのとき、スマホが短く鳴った。
ゆいは慌てて画面を見る。
『助けてほしい』
短いメッセージ。
続けてSNSの投稿が開かれる。
『川で仔猫が流されそう』
映像には、増水した川と揺れる小さな影が映っていた。
『え、待って、流されそう』
『マジじゃん』
『ネッコ!助けて!』
ゆいは眉をひそめる。
「これ……ほんとに猫なの?」
映像はやけに低い位置からで、左右に大きく揺れていた。
不安定な画面の向こうで、増水した濁流と小さな影が見え隠れする。
クロが画面を見つめ、短く言った。
「場所は?」
榊がすぐに地図を開く。
住所はない。
川沿いの一点にピンだけが立っている。
わずかに揺れていた。
「遠くない。行きましょうか」
相馬が言う。
「ええ」
榊も頷く。
ゆいは慌てて言った。
「相馬さんは店にいて!」
クロはすでに立ち上がっていた。
「行くぞ」
相馬は閉まるドアを見つめながら小さくつぶやいた。
「すみません…気を付けてくださいね」
外に出ると、雨の音が少し違っていた。
地面に落ちる音が、わずかに遅れて聞こえる。
ゆいは走りながら傘を握りしめる。
「なんか……変じゃない?」
榊は前を見たまま答える。
「いつも通りですよ」
クロは何も言わない。
川へ向かう道に、人だかりができていた。
傘の群れ。
スマホの光。
ざわめき。
「そこ!」
「動くな!」
「見えたぞ!」
ゆいは足を止める。
「何これ……」
榊が小さく言う。
「始まってますね」
川の縁では救助が動いていた。
ロープが張られ、人が指示を出している。
だが、どこか噛み合っていない。
「黒い仔猫だ!」
「いや白だ!」
「見失うな!」
「あれ?どこだ?」
言葉だけが揃っていて、対象が安定していない。
ゆいは呟く。
「あれ、本当に猫?」
榊は短く答える。
「そう思われているようです」
クロは川を見下ろす。
そのとき、誰かが叫んだ。
「商店街の洋菓子屋の仔猫だ!」
別の誰かも同じ言葉を繰り返す。
「洋菓子屋の仔猫!」
空気がわずかに変わる。
曖昧だったものが、少しだけ“ひとつの形”になる。
ゆいは息をのむ。
クロが短く言った。
「揃った」
榊は軽く笑う。
「そう見えるだけかもしれませんけどね」
川の中央に、それはいた。
白い、小さな影。
もう誰も迷っていない。
ロープが投げられ、救助が始まる。
ゆいが一歩前に出る。
クロは静かに言った。
「もう大丈夫そうだ」
引き上げられた“それ”は、小さかった。
誰かが言う。
「仔猫、よかったね……」
別の誰かも頷く。
「もう大丈夫だね」
その場にいる全員が、同じものを見ていた。
ゆいは小さく呟く。
「あれ……ほんとに仔猫?」
クロは川から目を離さずに言う。
「わかるさ。雨が止めば、な」
ゆいはそれ以上何も言わなかった。
スマホを見ると、さっきまで存在していたSNSの投稿は、いつの間にか消えていた。
雨だけが、変わらず降り続いていた。




