拠点の話
その日は、曇っていた。
探偵事務所の中は静かで、依頼の電話も鳴っていない。
早瀬ゆいは、机に頬杖をついた。
「暇だね」
クロは窓際の椅子で丸くなったまま答える。
「平和って言え」
「言い換えても暇は暇でしょ」
そのとき、ドアベルが鳴った。
カラン。
「失礼します」
入ってきたのは、喫茶店を営む相馬だった。
いつも通り丁寧に一礼する。
ゆいはぱっと顔を上げた。
「相馬さん!」
クロもゆっくり目を開ける。
「珍しいな」
相馬は軽く微笑んだ。
「少し、お願いがありまして」
その右手には、包帯が巻かれていた。
ゆいが目を丸くする。
「その手、どうしたんですか?」
「少しひびを入れてしまいましてね」
相馬は穏やかに答えた。
「しばらく右手が使えなくなりました」
クロが短く言う。
「不便だな」
「ええ。店の方も、思った以上に回らなくなってしまって」
相馬は一度言葉を切ってから続けた。
「もし可能であれば、しばらく店を手伝っていただけないでしょうか」
静かな頼み方だった。
押しつける感じはない。
ゆいはクロを見る。
「手伝いって、喫茶店の?」
相馬はうなずいた。
「相談事なら、今まで通り店で受けてもらって構いません」
「皆さんが来てくだされば、店としても助かります」
ゆいは少し考える。
「つまり、仕事場も兼ねるってこと?」
「結果的には、そうなりますね」
クロは目を細めた。
「悪くない話だ」
その一言で決まった。
それから数日後。
探偵事務所の荷物は、少しずつ喫茶店へ運ばれていった。
カウンターの横に資料が置かれ、相談は店の中で受けるようになる。
ゆいは店内を見回しながら言った。
「なんだか、ずっと前からここが事務所だったみたい」
クロは短く返す。
「最初からそうだ」
「そうだっけ?」
ゆいが首をかしげる。
相馬は静かにカップを拭きながら微笑んだ。
「場所というのは、案外そういうものですよ」
榊がふらりと現れたのは、その少し後だった。
「いい場所に落ち着きましたね」
クロがすぐに言う。
「お前は関係ない」
榊は軽く肩をすくめる。
「ええ。ただの通りすがりです」
誰も強く否定しなかった。
相馬の喫茶店は、いつの間にか彼らの仕事場になっていた。
外は曇ったままだった。
けれど、その店の中だけは、不思議と落ち着いていた。
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