第八話 王都学院の教授たち
翌朝。
キリオンは、約束の時間より少し早く支度を終えていた。
「よし」
姿見の前で襟元を整え、眼鏡の位置を直す。
昨日のような王宮用の礼装ではない。今日はもう少し動きやすい、講師向けに用意された落ち着いた服だ。
それでも普段の服よりはずっと上等で、どうにも自分のものではないような感覚が残る。
ただ、昨日ほど窮屈ではない。
「これならまだいいな」
独り言を漏らして、机の上を見る。
昨夜少しだけ読むつもりだった教本は、一冊目の半分近くまで読み進めてしまっていた。
寝る前に軽く目を通すだけ。
確かに、最初はそのつもりだった。
だが読んでいるうちに、知らない言葉が出てくる。
知らない言葉の説明を読めば、今度は別の新しい分類が出てくる。
そうなると気になる。
結果。
「……少しだけ、ではなかったな」
結局、日付が変わるより前には寝た。
昔なら朝まで読んでいただろう。
その意味では確かに歳を取った。
ただ、内容自体は面白かった。
十年。いや、それ以上。
自分が中央の研究から離れていた間に、錬金術は随分整理されている。
曖昧だった概念に名称がつき、経験則として扱われていた反応が分類され、学生が学びやすい形に落とし込まれていた。
「便利になったよなあ」
特に、触媒の相性表などは感心した。
昔なら実際に混ぜてみて、失敗しながら覚えるような部分だった。今では基礎的な組み合わせなら、表を見ればある程度予測できる。
学生にとってはありがたいことだろう。
一方。読んでいて、妙に引っかかる部分もあった。
「……まあ、俺が古いだけか」
キリオンは教本を閉じた。
今日の目的は、現在の理論へ文句をつけることではない。
学生に何かを教える。それだけだ。
教授たちの研究方針や、学院内部の議論にまで首を突っ込むつもりはなかった。
……面倒そうだから。
「さて、行くか」
外へ出ると、朝の空気が気持ちよかった。
王都学院までは歩いてすぐだ。
門の向こうには、すでに多くの学生が出入りしている。
若い。
当たり前だが、本当に若い。
十代後半から二十代前半くらい。
数人で固まって歩く者。
本を読みながら歩く者。
朝から何かの議論をしている者。
眠そうな顔でパンをくわえている者。
「変わってないなあ」
思わず笑う。
服装や建物は変わっている。
だが、学生という生き物自体は昔と大して変わらないらしい。
自分もあんな顔をして歩いていたのだろうか。
そう思いながら門の前に立っていると。
「先生!」
後ろから声が飛んできた。
振り返る。
セレスが、少し早足でこちらへ向かってくるところだった。
「おはよう」
「おはようございます」
「今日は朝から来るって言ってたっけ?」
「はい」
「聞いてない気がする」
「昨日、お別れする際に申し上げました」
「……そうだったか」
「先生」
「何」
「昨夜、教本を読まれましたね?」
「なんで分かる」
「目が少し眠そうです」
「ちゃんと寝たぞ」
「何時ですか?」
「…………」
「先生」
「十二時前」
「本当に?」
「本当」
セレスが疑わしそうにこちらを見る。
「昔よりは成長しましたね」
「俺の方が先生だったはずなんだけどな」
「研究中の生活管理については、私が先生役でした」
「嫌なこと覚えてるなあ」
「大切なことですから」
二人で学院の中へ入る。
正門をくぐると、昨日外から眺めた以上に懐かしい感覚があった。
石造りの建物。
中央にある広場。
木々の配置。
研究棟へ続く道。
もちろん変わっている場所も多い。
新しい棟が増えている。
昔は空き地だった場所に大きな実験施設らしき建物がある。
それでも。
「やっぱり、基本は変わってないな」
「先生がいらした頃から、中央棟はほとんどそのままです」
「そりゃそうか。あれ壊して建て直すの大変そうだしな」
「歴史的建造物でもありますので」
「俺、昔あそこの階段で寝たことある」
「…………」
「何」
「学院の歴史的価値を損なう思い出を追加しないでください」
「徹夜明けでな」
「聞いていません」
「朝日が気持ちよくて」
「聞いていません」
セレスの歩く速度が少しだけ上がる。
「待てって」
「学長がお待ちです」
「話逸らしたな」
「急ぎましょう」
どうやら、昔の話はあまり聞きたくないらしい。
◇
学長室は、中央棟の最上階にあった。
昔から場所は変わっていない。
ただし、キリオンがここへ来たことはほとんどない。
学生だった頃。
いや。
研究者だった頃も。
学長という存在は、ほとんど別世界の人間だった。
「緊張するな」
「昨日、陛下にお会いしたばかりですよ」
「種類が違う」
「どう違うのです?」
「学院の学長って、学生からすると怖いだろ」
「先生はもう学生ではありません」
「気分の問題だよ」
セレスが扉を軽く叩いた。
「どうぞ」
中から、落ち着いた男の声が返ってくる。
「失礼いたします」
扉を開ける。
部屋の中には、二人の男がいた。
一人は、六十歳を目前にした頃だろう。
白髪が混じった髪を短く整え、眼鏡を掛けている。
身体つきは細身。
机の後ろに座っている姿からも、いかにも学者という印象を受ける。
「お待ちしていました」
男が立ち上がる。
「王都錬金術学院の学長を務めております、ノートルダムです。専門は錬金薬です」
「キリオンです。本日からお世話になります」
キリオンも頭を下げる。
「こちらこそ。遠路はるばる、よくお越しくださいました」
声は柔らかい。
思っていたより話しやすそうな人物だった。
もう一人、窓際に立っていた男が、こちらへ向き直る。
五十代前半。
髪には少し白いものが混じっているが、姿勢は良く、眼差しも鋭い。
ノートルダム学長より、どこか実務家らしい印象がある。
「マグヌスです」
短く名乗る。
「王都学院、錬金理論学科を預かっています」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
握手する。
力は強くない。
だが。
キリオンを見る目には。
明らかに評価の色が混じっていた。
「どうぞ、お掛けください」
ノートルダム学長に促される。
四人で応接用の席へ移動した。
セレスティア宮廷主席錬金術師。
ノートルダム学長。
マグヌス錬金理論学科教授。
そして自分。
こうして並ぶとやはり、場違いな気がする。
「まず」
ノートルダム学長が口を開く。
「今回の招聘をお受けいただき、ありがとうございます」
「いえ」
キリオンは少し困ったように笑った。
「こちらこそ、こんな立派な場所で教える機会をいただいて」
「セレスティア主席から、強い推薦がありまして」
「……やっぱり」
思わず声が漏れる。
「先生」
「いや、分かってたけどさ」
キリオンは頭を掻いた。
「私自身の実績を見て、というより、セレスが推してくれたんですよね?」
ノートルダム学長は、少しだけ笑った。
「率直ですね」
「取り繕っても仕方ないので」
「では、私も率直に申し上げましょう」
学長は頷く。
「その通りです」
「ですよね」
「私は、あなたの最近の研究実績を存じ上げません」
「ないですから」
「論文発表も」
「してません」
「学会活動も」
「十年以上」
「そう伺っています」
こうして並べられると、本当に講師として呼ばれる理由がない。
キリオン自身、そう思う。
「しかし」
ノートルダム学長は続けた。
「私はセレスティア主席を信頼しています」
隣にいるセレスティアへ視線を向ける。
「彼女の錬金術師としての技量はもちろん、人物を見る目も」
「ありがとうございます」
セレスティアが軽く頭を下げる。
「最年少で宮廷主席錬金術師へ就任し、就任後も期待以上の成果を出し続けている人物が、自ら地方まで迎えに行く」
ノートルダム学長がキリオンを見る。
「そして、そこまでして講師として招きたいと言う」
「…………」
「それだけで、十分試してみる価値があると私は考えました」
「試してみる」
「失礼でしたかな?」
「いや」
キリオンは首を振った。
「むしろ、安心しました」
「安心?」
「最初から僕が凄いって、そう思われている方が困ります」
「なるほど」
ノートルダム学長が笑う。
「思っている者もおりますがね」
視線がセレスティアへ向く。
「はい」
本人は全く否定しなかった。
「先生は素晴らしい方です」
「ほら」
「私は事実を申し上げているだけです」
「その評価が重いんだって」
「慣れてください」
ノートルダム学長は楽しそうに二人を見る。
一方でマグヌス教授は。
ほとんど表情を変えていなかった。
そろそろ来る。キリオンは何となくそう思った。
「学長」
案の定、マグヌス教授が口を開く。
「私からも、確認してよろしいですか」
「もちろん」
マグヌスがキリオンへ視線を向ける。
「キリオン殿」
「はい」
「現在の教本には目を通されましたか?」
「昨夜、少しだけ」
「どの程度?」
「基礎体系の本を半分くらい」
「一晩で?」
「面白かったので」
マグヌスの眉が僅かに動く。
「理解できましたか?」
「知らない言葉は結構ありました」
「内容は?」
「説明を読めば、大体は」
「なるほど」
短く返す。
「では」
マグヌスは椅子に深く座り直した。
「現在の錬金術について、どのような印象を持たれました?」
「便利になったなあ、と」
「便利」
「はい」
「学問としてではなく?」
「もちろん学問としても整理されてると思います」
キリオンは考える。
「昔は経験で覚えるしかなかった部分が、随分体系化されてますよね。触媒の分類とか、相性表とか」
「ええ」
「学生には分かりやすそうだなって」
「…………」
マグヌスはしばらく黙った。
「他には?」
「他?」
「疑問点など」
「……ありますが、」
キリオンは一度口を閉じる。
言うべきか少し迷う。
だが。
「まあ、僕が昔の人間だからだと思います」
「構いません」
「……では」
キリオンは頭の中で、昨夜読んだ内容を思い出す。
「反応を分類する時に、結果から分けてるものが多い気がしました」
「結果から?」
「はい」
「それが何か?」
「いや、悪いという意味ではないです」
誤解させないように手を振る。
「学生が覚えるなら、分かりやすいと思います。ただ」
「ただ?」
「同じ結果になる反応でも、途中の変化は結構違うだろうなと」
マグヌスの目が僅かに細くなる。
「そのような差異は、現在の基礎教育では重要視していません」
「そうなんですね」
「最終的な生成物の品質と、反応の再現性。それが確保されているなら、工程は標準化した方がよい」
「はい」
キリオンは素直に頷いた。
「それは分かります」
「現在の錬金術は、個人の勘や経験に頼る時代を終えつつあります」
マグヌスの声には、明確な自信があった。
「条件を定める。材料を分類する。反応を数値化し、再現する。それによって誰が行っても一定水準以上の結果を出せるようにする」
「いいことだと思います」
キリオンは本心から答えた。
「僕も昔、それができたら楽だなって思ってました」
「……昔?」
「ああ」
口にしてから。
少し考える。
「いや、学生だった頃ですよ」
「そうですか」
「失敗した時に、何が悪かったのか分からないのが一番面倒だったから」
「それゆえ、現在は原因の特定方法も体系化されています」
「へえ」
「反応層分離法も、その一つです」
「ああ、昨日聞いたやつ」
「ご存じなかったと伺っています」
「名前は」
「名前は?」
マグヌスが聞き返す。
「いや」
キリオンは少し困る。
「説明を聞いたら、似たようなことはやっていたなと」
「…………」
「でも多分、今の方法の方が精密ですよ」
マグヌスは何も言わなかった。
代わりに。
セレスティアが、ちらりとキリオンを見る。
昨日、宮廷錬金術師たちと話した時と同じ目だった。
「先生」
「何?」
「いえ」
「またそれ?」
「今は結構です」
「何なんだよ」
キリオンには分からない。
だが。
マグヌス教授は、今のやり取りを別の意味で受け取ったらしい。
「キリオン殿」
「はい」
「現在の錬金術教育には、百年以上積み上げてきた知見があります」
「はい」
「特にこの十年は大きく進歩した」
「でしょうね」
「我々は」
マグヌスは穏やかだが。
少しだけ強い口調で続ける。
「現在の体系が、現時点で最も効率的で、最も安全なものだと考えています」
「なるほど」
「無論、改良の余地がないとは申しません」
「はい」
「ですが」
一拍。
「一度中央の研究から離れた方が、昔の経験だけで学生を混乱させることは避けたい」
はっきりした。
嫌味というより、釘を刺されたのだ。
キリオンは、その意図を正しく理解した。
「分かりました」
「……よろしいので?」
「はい?」
「反論されるかと思いましたが」
「何でです?」
逆に不思議だった。
「僕、別に研究方針などを変えに来たわけじゃないですよ」
「…………」
「講師として呼ばれただけですし」
キリオンは笑う。
「学生に何か役立つことを教えられれば、それで十分です」
教授同士、研究者同士、学院内部。
きっと色々あるのだろう。昔もそうだった。
誰の理論が正しい。
どの研究に予算をつける。
どの教授の派閥。
どの分野が主流。
そういうことにキリオンは、昔からあまり興味がなかった。
だから。
「今の方法が一番いいなら、それを教えればいいじゃないですか」
素直に言う。
「僕が違う考えを持っていたとしても、学生が困るなら押しつける気はありません」
マグヌス教授が、少しだけ目を細める。
「なるほど」
返事は悪くない。
少なくとも、反感は買わなかったらしい。
ただ隣からは、妙な視線を感じる。
「……セレス」
「はい」
「何で怒ってる?」
「怒っていません」
「絶対怒ってる」
「先生があまりにも譲りすぎるので」
「別に譲ってないよ」
「譲っています」
「波風を立てる必要ないだけだ」
「それを譲っていると言うのです」
「じゃあどうしろって」
「先生の――」
言いかけて。
止まる。
「……いえ」
「今日それ何回目?」
「数えていません」
「俺は三回目だと思う」
ノートルダム学長が。
声を上げて笑った。
「いや、失礼」
「いえ」
「面白いお二人だ」
「先生が昔からこうなのです」
「俺のせい?」
「はい」
「即答だなあ」
空気が少し軽くなる。
だが、マグヌス教授の話は終わっていなかった。
「キリオン殿」
「はい」
「誤解のないように申し上げますが」
「はい」
「私は、あなたに何も期待していないわけではありません」
「そうなんですか?」
「むしろ、講師としては期待しています」
「……講師として」
「ええ」
マグヌス教授は頷く。
「セレスティア主席がそこまで強く推す方です」
そこで、ほんの僅かにセレスを見る。
「少なくとも、人へ教える技術には何かあるのでしょう」
「何かって」
「現在、当学院の教授陣のほとんどは、研究と授業を兼務しています」
マグヌス教授が続ける。
「優秀な研究者ほど授業も多い。結果として研究時間が削られる」
「なるほど」
「外部講師の役割の一つは、その負担を軽減することだと私は考えています」
「じゃあ僕は、何をすれば?」
「すべての1年生が受講する、基礎講義を担当していただきたい」
「基礎?」
「ええ」
キリオンは、少しだけほっとする。
「それなら助かります」
「……助かる?」
「いきなり最先端の理論を教えろと言われたら、どうしようかと思っていましたので」
「さすがにそれはありません」
「ですよね」
「先生」
セレスティアは、少し不満そうな声を出す。
「何」
「基礎を軽く見ないでください」
「軽く見てないよ」
「先生はすぐ『基礎くらい』と仰います」
「だって基礎だろ」
「だから重要なのです」
「分かった分かった」
「本当に?」
「はいはい」
「返事が軽いです」
マグヌスが、このやり取りを見ながら小さく息を吐く。
「ただし」
「はい?」
「基礎だからといって、昔の知識だけで教えられるとは考えないでいただきたい」
「もちろん」
「現在は、十年前とは用語も手順も異なります」
「昨日ちょっと読んで分かりました」
「なら結構」
マグヌス教授は、少しだけ姿勢を緩めた。
「特に、魔力媒介と触媒反応については、この十年で大きく進んでいる」
「そうみたいですね」
「私が現在進めている反応制御理論も、その延長にあります」
「反応制御理論?」
「複数素材を用いた錬成時に、魔力の流入経路を制御し、反応の順序を安定させる方法です」
「…………」
キリオンは言葉をつぐんだ。




