第七話 講師生活ゼロ日目
王宮を出た後。
再び馬車へ乗り込んだキリオンは、今度こそ大きく伸びをした。
「脱いでいい?」
「何をです?」
「これ」
礼装を指す。
「まだです」
「もう謁見終わっただろ」
「学院へご挨拶に向かいます」
「聞いてない」
「正式なご挨拶は明日ですが、本日は宿舎へのご案内がありますので」
「この格好で?」
「せっかくですから」
「何がせっかくなんだ」
結局、そのまま。
馬車は王宮から離れていった。
しばらくすると、キリオンにも道に見覚えが出てくる。
「……あれ?」
「気づきました?」
「この道」
「はい」
「学院に行く道だ」
「覚えていたのですね」
「そりゃな」
十年以上経っていても。
身体が覚えている。
あの角を曲がる。
次に大きな通りへ出る。
そこから少し坂を上る。
「……懐かしいな」
キリオンが窓の外を見る。
建物は変わっている。
店も。
通りを歩く人も。
だが。
道そのものは、大きく変わっていない。
「この辺、昔は本屋多かったんだよ」
「今もあります」
「本当?」
「先生が通っていたという店も、一軒残っていますよ」
「まだあるのか!」
思わず声が弾んだ。
「今度行ってみようかな」
「ぜひ」
「店主はさすがに変わったかな」
「二代目の方だと思います」
「そりゃそうか」
また一つ、懐かしいものが増えた。
そして。
坂を上りきったところで、それが見えた。
「……ああ」
キリオンは。
自然と背筋を伸ばしていた。
王都錬金術学院。
この国最高の学府。
錬金術、魔法工学、錬金薬。
その他にも。
様々な分野を学ぶ学生たちと、研究する者たちが集まる場所。
正門の向こうにには、いくつもの校舎と研究棟。
それらを取り込めるほど、広大な敷地が続いている。
「……変わってないな」
キリオンが呟く。
「そうですか?」
「いや」
よく見れば。
新しい建物は増えている。
昔なかった研究棟もある。
正門も改修されているらしい。
学生の服装も、昔とは少し違う。
それでも。
「雰囲気が」
キリオンは笑った。
「全然変わってない」
正門を行き交う学生。
紙の束を抱えて走る者。
数人で議論しながら歩く者。
……何かに失敗したのか。
遠くから、ぼん、と妙な音がした。
「…………」
「…………」
「今の何?」
「おそらく研究棟ですね」
「昔もよく聞いたなあ」
「現在もよくあります」
「そこは改善しろよ」
セレスティアが苦笑する。
キリオンは、しばらく学院を見ていた。
胸の奥に、懐かしい感覚が戻ってくる。
楽しいこともあった。
上手くいかないことも。
認められなかったことも。
ここを去ることになった理由も。
色々ある。
それでも。
「嫌いじゃなかったんだよな」
「……先生?」
「なんでもない」
キリオンは小さく笑う。
「行こうか」
「はい」
ただし。
学院へ入るのは明日。
今日向かうのは。
講師用の宿舎だった。
◇
「立派だな」
「講師の方々が使用する宿舎ですので」
「一人でここ?」
「一室ですよ」
「さすがに建物全部とは思ってない」
「先生なら言いかねませんので」
「俺を何だと思ってるんだ」
学院からほど近い場所。
案内されたのは、三階建ての落ち着いた建物だった。
学生寮ほど大きくはない。
だが。
地方から来た講師や研究者が滞在するには十分すぎる。
キリオンに割り当てられたのは二階の一室だった。
「広い」
「そうですか?」
「俺の家より綺麗」
「それは先生が片付けないからです」
「まだ言う?」
中には寝室と小さな居間。
机。
本棚。
湯を沸かすための設備。
最低限の調理道具まである。
窓を開ければ、少し離れたところに学院の塔が見える。
「……いい部屋だな」
「お気に召しました?」
「一か月なら十分すぎる」
「では」
セレスティアが楽しそうに言う。
「明日からですね」
「何が」
「先生の講師生活が」
「…………」
改めて言われると、急に不安になってきた。
「セレス」
「はい」
「やっぱり今から辞退」
「できません」
「文書には断れるって」
「もう承諾されました」
「撤回」
「却下です」
「お前に却下する権限ないだろ」
「では、私が全力で止めます」
「怖いな!」
セレスティアは楽しそうだった。
本当に。
心の底から。
楽しそうだった。
自分がこの学院で何をするのか。
それを誰よりも期待している顔だった。
「先生」
「ん?」
「明日は、学院の案内と講義内容の打ち合わせがあります」
「分かった」
「それから、現在使われている教科書もご用意します」
「それ助かる」
「ですが」
「何?」
「読みすぎて徹夜はしないでくださいね」
「……しないよ」
「本当に?」
「俺もう四十だぞ」
「そういう時だけ年齢を使わないでください」
「便利なんだよ」
「駄目です」
キリオンは笑った。
「じゃあ今日は?」
「ごゆっくりお休みください」
「お前は?」
「私は王宮へ戻ります。仕事が残っていますので」
「大変だな」
「慣れています」
「無理するなよ」
「はい」
セレスティアは一礼して……部屋を出ようとして足を止めた。
「先生」
「何?」
振り返る。
表情は、いつもの落ち着いたもの。
だが目だけは。少し子供の頃に戻っているように見えた。
「明日、楽しみにしています」
「俺は緊張してるよ」
「大丈夫です」
「根拠は?」
「私が知っていますから」
「何を?」
セレスティアは、少し考えて微笑んだ。
「先生が、良い先生だということを」
それだけ言って。
今度こそ部屋を出ていった。
「…………」
扉が閉まる。
キリオンは、しばらくその扉を見ていた。
「……参ったなあ」
頭を掻く。
期待されるというのは、意外と悪い気がしない。
だがその分だけ、応えなければならない。
「変わってない、か」
今は見えない、王都学院の方角を眺めて呟く。
本当に、そうなのか。
建物ではなく、中身……研究する者たちが。
あの頃と何が変わって、何が変わっていないのか。
それを知るのは明日からだ。
キリオンは眼鏡を外し、目元を軽く揉んだ。
「……とりあえず」
今日はもう寝よう。
そう思ったところで。
机の上に、分厚い本が三冊置かれていることに気づいた。
「…………」
表紙を見る。
『現代錬金術基礎体系・新版』
『王都学院標準錬金術教本』
『魔力媒介と触媒反応・基礎編』
「セレス……」
いつ置いた。
まったく気づかなかった。
キリオンは一冊目を手に取る。
厚い。それもかなり。
「…………」
もう一度、窓の外を見る。
「……ちょっとだけ読むか」
結局。
キリオンが床に入ったのは、本人が予定していた時間より。
少しだけ、遅くなった。




