第六話 王都学院
貸衣装部屋の姿見に映った自分を見て、キリオンは何とも言えない顔になった。
「……誰だ、これ」
「先生です」
「いや、そうなんだけど」
鏡の中にいるのは、間違いなくキリオン本人だった。
眼鏡も同じ。顔も同じ。四十年付き合ってきた自分の顔を見間違えるはずもない。
ただし、首から下がまるで馴染まない。
濃紺を基調とした礼装は、生地からして普段着ている服とは違う。
襟には控えめながら銀糸の刺繍が施され、上着の形も身体に合わせて綺麗に整えられている。
ズボンまで皺ひとつなく、靴に至っては自分のものとは比べものにならないほど光沢があった。
仕立て自体は申し分ない。
だからこそ、余計に落ち着かない。
「肩凝りそうだな」
「まだ着てから十分も経っていませんよ」
「もう凝ってる気がする」
「気のせいです」
「首も苦しい」
「先生が普段、襟元を緩めすぎなのです」
「動きづらい」
「謁見の間で走り回る予定でも?」
「ないけどさ」
キリオンは襟元へ指を入れようとして、セレスティアに手を叩かれた。
「触らないでください」
「苦しいんだって」
「今、綺麗に整えていただいたばかりでしょう」
「だからって」
「我慢してください」
「厳しいなあ」
ぶつぶつ言いながら、もう一度鏡を見る。
少なくとも、田舎町の薬師には見えなくなったと思う。どこかの商会主か、地方貴族の使用人か、それくらいには見えるだろうか。
ただ、自分ではどうしてもしっくりこない。
「セレスはいいよな」
「何がです?」
「服そのままだろ」
「私は宮廷で勤務しておりますので」
「ずるい」
「何がずるいのですか」
そう言われて、キリオンはセレスティアへ視線を向けた。
確かに服装自体は先ほどまでと大きく変わっていない。濃紺を基調とした宮廷勤務用の正装で、胸元には宮廷主席錬金術師としての徽章が留められている。
だが、よく見ると雰囲気が違った。
「……髪、変えた?」
「はい」
普段は背中まで伸びた淡い金髪を後ろで緩やかにまとめているが、今はより丁寧に結い上げられている。顔周りの髪も綺麗に整えられ、装飾品も控えめながら品がいい。
化粧も少し変わっていた。
派手ではない。
けれど、王宮で働く高官としての格式を感じさせる。
「化粧も?」
「少しだけ」
「へえ」
「何ですか」
「いや」
キリオンは素直に感心した。
「立派なもんだなと思って」
「…………」
「また黙った」
「先生」
「はい」
「今から陛下にお会いするのですから、ご自身の心配をしてください」
「してるよ。すごくしてる」
「なら結構です」
そう言いながら、セレスティアは僅かに視線を逸らした。
よく見ると、耳が少し赤い。
キリオンは気づいたものの、それ以上は言わなかった。今それを指摘して機嫌を損ねると、本当に襟をさらに締められそうな気がしたからだ。
「ところで」
「はい」
「今からでも謁見なしにならない?」
「なりません」
「体調不良とか」
「先ほどまで元気でしたね」
「急に緊張で腹が」
「治療しましょうか?」
「自分でやるよ」
「では問題ありませんね」
「逃げ道ないなあ」
セレスティアは満足そうに微笑んだ。
◇
謁見の間へ向かう廊下を歩きながら、キリオンはいつもの倍ほど自分の足音が大きく聞こえる気がしていた。
実際には、床がよく磨かれているだけなのだろう。
だが、緊張している時というのは、普段なら気にならないものまで気になる。
「先生」
「ん?」
「右手と右足が同時に出ています」
「嘘だろ」
「嘘です」
「お前な」
「少しは緊張がほぐれましたか?」
キリオンはセレスティアを見る。
いつもの落ち着いた顔だ。
「……もしかして気を遣った?」
「さて」
「昔はそんなことしなかったのに」
「昔の私は子供でしたから」
「大人になったなあ」
「だからそういうことを急に言わないでください」
小声で叱られた。
とはいえ、確かに少し楽になった。
深く息を吸う。
「謁見の作法、もう一回だけ確認していい?」
「もちろんです」
「入ったら」
「指定された位置まで進みます」
「で、礼」
「はい」
「跪く?」
「最初にお伝えした通りです。今回は正式な臣下としての拝謁ではありませんので、指示に従って一礼していただければ問題ありません」
「喋っていいのは?」
「陛下からお声を掛けられてから」
「分かった」
「多少間違えても、私が隣におります」
「それ一番安心する」
素直にそう言うと、セレスティアは少し目を丸くした。
「どうした?」
「……いいえ」
「今日はそれ多いな」
「先生が妙なことばかり仰るからです」
「普通のことしか言ってないぞ」
やがて前方に大きな扉が見えてきた。
その前には衛兵が立っている。
さすがに、ここまで来るとキリオンも口を閉じた。
緊張で逃げ出したい気持ちはある。
だが、ここまで来てしまった以上、さすがに恥をかくわけにはいかない。
自分一人ならともかく。
セレスティアが連れてきた相手なのだ。
彼女の顔に泥を塗るようなことはしたくない。
「先生」
扉の前で、セレスティアが小さな声で呼ぶ。
「何?」
「大丈夫です」
「……そうだな」
「普段通りで」
「それが一番難しい場所なんだが」
「では、少しだけ普段より丁寧に」
「頑張るよ」
扉が開いた。
キリオンは一度だけ息を吐き、セレスティアと共に中へ入った。
◇
謁見そのものは。
キリオンが想像していたより、ずっと穏やかなものだった。
もちろん、緊張しなかったわけではない。
謁見の間は広く、天井は恐ろしく高い。壁には王国旗が掲げられ、奥には玉座がある。
その玉座に座っているのが、この国の王。
レオニクス四世だった。
年齢は五十代の半ばのはずだ。
王冠こそ身につけているものの、キリオンが想像していたような威圧感を前面に押し出す人物ではなかった。
むしろ、目に知性を感じる。
こちらを品定めするようではあるが、嫌な見方ではない。
「キリオン・ハルフェン君」
名を呼ばれ。
キリオンは教えられた通りに礼をする。
「お初にお目にかかります、陛下」
噛まなかった。
それだけで自分を褒めたい。
「うむ」
レオニクス四世は頷いた。
「楽にせよ。今回は堅苦しい叙任の場ではない」
「ありがとうございます」
少しだけ肩から力が抜ける。
隣にいるセレスティアは、さすがに慣れている。
姿勢も。
礼も。
何もかも自然だ。
そういう姿を見ると、やはりこの娘は本当に別世界の人間になったのだと思う。
「セレスティア」
「はい、陛下」
「この者が、例の師か」
「はい」
例の。
その言葉が少し気になった。
キリオンが視線だけを横へ向ける。
セレスティアは平然としている。
嫌な予感がした。
「キリオン」
「はい」
「そなたのことは、セレスティアより聞いている」
「……はい」
何を。
そう聞きたい。
だが、さすがに陛下の前でそんなことは言えない。
「この者は、そなたを大層高く評価している」
「もったいないことです」
「本人の前で言うのも何だが」
レオニクス四世が僅かに笑う。
「余も、セレスティアの評価は信頼している」
キリオンは少し驚いた。
「彼女が宮廷主席錬金術師の任に就いて、今年で三年になる」
「三年……」
思わず小さく呟く。
つまり二十代前半で主席になったことになる。
いや。
今の年齢を考えるなら。
「ちなみに」
王が続ける。
「宮廷主席錬金術師としては、役職ができて以降最年少だ」
「…………」
キリオンは隣を見た。
セレスティアは真っ直ぐ前を向いている。
「初耳なんだけど」
思わず小声が漏れた。
「先生」
セレスティアが、それ以上言うなという顔をする。
だが、レオニクス四世は気を悪くした様子もなく笑った。
「知らなかったのか?」
「……恥ずかしながら」
「先生は、私からの手紙を八か月分ほど溜めておられましたので」
「セレス」
「事実です」
「陛下の前で言う?」
「事実ですので」
レオニクス四世が喉を鳴らして笑った。
周囲に控えている者たちは表情を崩さないが、少なくとも怒られる雰囲気ではないらしい。
「なるほど。それでは知らぬのも仕方あるまい」
「申し訳ありません」
「いや。余に謝ることではない」
王は一度セレスティアを見る。
「この者が主席に就いた時も、反対がなかったわけではない」
セレスティアは何も言わない。
「若すぎる。経験が足りぬ。才覚だけで要職を任せるべきではない。そういう声は当然あった」
キリオンには、その感覚も分かる。
宮廷主席錬金術師。
自分には具体的な仕事すべてまでは分からない。
だが、ただ薬を作るだけの役職ではないことくらいは理解できる。
王国の錬金術に関する成果を見極め、国としてどれを採用するか判断する。
王都学院をはじめとする研究機関から上がってくる成果を確認し、実用に耐えるものを選別する。
場合によっては王国全体に関わる仕事だ。
若いからという理由で反発が出てもおかしくない。
「だが」
レオニクス四世が続ける。
「今、その人選が誤りだったと言う者はほとんどおらぬ」
キリオンの口元が、自然と緩んだ。
自分が褒められているわけではない。
それでも。
嬉しいものは嬉しい。
「そうですか」
「ああ」
「それは……良かったです」
「嬉しそうだな」
「そりゃあ」
そこまで口にして、少し迷う。
だが。
「昔、少し教えていた子ですから」
「少し」
隣から声がした。
「ん?」
「いえ」
セレスティアは前を向いたままだ。
ただ。
口元が僅かに不満そうに見える。
王はそれを見逃さなかったようで、また笑った。
「そなたらは随分親しいらしい」
「先生ですので」
セレスが即答する。
「なるほど」
レオニクス四世は、改めてキリオンへ目を向けた。
「余は錬金術師ではない」
「はい」
「ゆえに、そなたがどれほどの技量を持つかを、余自身が判断することはできぬ」
真っ当な言葉だった。
「だが」
一拍置く。
「セレスティアの師と聞いている」
「…………」
「彼女の師とあれば、期待が持てる」
その言葉は。
キリオンが思っていたよりも、重かった。
自分自身の実績を評価されたわけではない。
セレスティアという一人の錬金術師。
彼女が積み重ねてきた仕事。
王から得た信頼。
その先に、自分への期待がある。
嬉しい。
同時に、少しだけ怖い。
自分がその期待に応えられるのだろうか。
「陛下」
キリオンはゆっくり口を開いた。
「正直に申し上げますと、私は十年以上、王都の研究から離れておりました」
「うむ」
「今の錬金術について、知らないことも多くあります」
セレスティアが僅かにこちらを見る。
だが、止めない。
「ですので」
キリオンは言葉を選ぶ。
「ご期待に沿えるかどうかは、分かりません」
ここだけは。
変に格好をつけても仕方がないと思った。
「ただ」
続ける。
「引き受けた以上は、自分にできることは、きちんとやろうと思っています」
教える。
それが今回、自分が王都へ来た理由だ。
なら。
今の自分に教えられることを探す。
「それでよい」
レオニクス四世は、あっさりと答えた。
「分からぬことを分かると言う者より、よほど信用できる」
「ありがとうございます」
「学院の教授ではなく、わざわざ外から講師を招くのだ。同じことだけを教える必要もあるまい」
キリオンは少しだけ目を見開いた。
「そなたの知るものを、そなたなりに伝えればよい」
「……はい」
「そして」
王の視線がセレスティアへ向かう。
「そなたは、そのつもりなのであろう?」
「もちろんでございます」
返答が速い。
「先生には、先生にしか教えられないことがございます」
「俺そんな話聞いてないけど」
「先生」
「すまん」
反射的に口を挟んでしまった。
レオニクス四世がまた笑う。
「良い」
どうやら。
思っていたより寛容な王らしい。
「では、キリオン」
「はい」
「一か月という短い期間ではあるが、王都学院の学生たちを頼む」
キリオンは姿勢を正した。
「承りました」
そして。
謁見は、本当につつがなく終わった。
◇
「……生きてる」
王宮の廊下へ戻った瞬間。
キリオンは大きく息を吐いた。
「死ぬような場所ではありません」
「俺には心臓に悪い」
「失礼はありませんでしたよ」
「本当?」
「はい」
「途中、普通に喋っちゃったけど」
「陛下がお許しになっていましたので」
「ならいいか」
少し歩く。
緊張が抜けたせいか、身体が妙に重い。
「しかし」
「はい?」
「お前、史上最年少だったんだな」
「……その話ですか」
「重要だろ」
「先生にとっては、そうなのでしょうね」
「もっと早く教えろよ」
「手紙に書きました」
「…………」
「三通ほど」
「……帰ったら読む」
「王都にいる間に読んでください」
「はい」
「あと、先生」
「何」
「もう一つ」
セレスティアは少しだけ表情を引き締めた。
「先ほど陛下の前で『少し教えていた』と仰いましたよね」
「言ったな」
「少し、ではありません」
「基礎だけだろ?」
「先生」
「何だよ」
「私が何年間先生の後ろをついて回ったと思っているのですか」
「……三年くらい?」
「四年と七か月です」
「細かい!」
「覚えています」
「すごいな」
「先生が覚えていなさすぎなのです」
キリオンは苦笑する。
「でも、俺が教えたのなんて本当に基礎だぞ」
「その基礎が重要なのです」
「そうか?」
「そうです」
セレスティアは真顔だった。
「基礎をどう理解するかで、その先の伸び方は変わります」
「まあ、それはそうだけど」
「ですから先生」
少しだけ。
楽しそうに。
「王都学院でも、いつも通り教えてください」
その言葉に。
キリオンは少し考える。
いつも通り。
町の子供たちに教えるように。
分からないところを探して。
どうして分からないのかを考えて。
その子に合うやり方で説明する。
「……できるかな」
「できます」
「また即答」
「はい」
「本当に俺への評価高いな」
「低かった時期がありませんので」
「怖いなあ」
「喜んでください」
「半分は喜んでる」
「残り半分は?」
「重い」
「そのうち慣れます」
「慣れるかなあ」
セレスティアは答えなかった。
だが。
その顔は妙に楽しそうだった。




