第五話 十年ぶりの王都
以降は連載版からのお話となります!
王都の正門をくぐった瞬間、キリオンは思わず馬車の窓から身を乗り出した。
「うわ……」
口から漏れた声は、我ながら少し情けない。だが、それも仕方ないと思う。
十年ぶりだった。
いや、正確には王都を離れてから十年以上経っている。旅の途中、一度くらい近くまで来たことはあったかもしれない。それでも、こうして正門をくぐり、中へ入るのは本当に久しぶりだ。
「……こんなだったか?」
キリオンは目を細める。
記憶にある王都と、目の前に広がる王都。同じ場所のはずなのに、どこか違う。
「変わったでしょう?」
向かいに座るセレスティアが、少し得意そうに言った。
「ああ。随分変わった」
キリオンは素直に頷いた。
まず、道が広い。
昔から王都の大通りは広かった。荷馬車がすれ違っても余裕があり、地方から初めて来た時には、それだけで驚いたものだ。
だが今は、さらに広く感じる。舗装も綺麗で、石畳の隙間が少なく、馬車が走っても揺れが小さい。
「道、直したのか?」
「かなり大規模に整備されています。数年前から、主要街路を順次改修しています」
「随分金掛かっただろ」
「掛かっています」
「即答だな」
「国庫を預かる方々は、今でも頭を抱えていると思います」
セレスティアが少し笑った。その隣では、同行している事務官の男も苦笑している。
「ですが、物流はかなり改善されました。以前より荷車の往来も増えています」
「なるほど」
言われてみれば、確かに商人らしい馬車が多い。大通りには旅装の者もいれば、職人らしい者、制服を着た役人、学生らしい若者まで歩いている。
十年前より、ずっと人が多い。
「建物も増えたな。あそこ、昔なんだったっけ」
キリオンが指差す。
大きな三階建ての建物だった。一階部分には店らしき看板が並び、上階には窓がずらりと並んでいる。
「以前は倉庫街だった場所ですね」
「そうだ。思い出した」
キリオンは懐かしそうに目を細めた。
「汚かったんだよな、あの辺」
「先生」
「本当だろ?」
「否定はしませんが」
「夜になると近づくなって言われてた」
「現在は商業地区として再開発されています」
「すごいなあ」
キリオンは素直に感心した。
昔の景色が残っている場所もある。古い時計塔。遠くに見える大聖堂。広場の噴水。
そういうものを見ると、胸の奥に妙な懐かしさが込み上げる。
「まだあるんだな」
「何がです?」
「あの時計塔」
「ああ」
セレスティアも窓の外を見る。
「ありますよ」
「昔、あれ見ながら時間確認してたんだ」
「先生、時計をお持ちではなかったのですか?」
「買う金なかったからな」
「…………」
「なんだその顔」
「いえ」
「研究者なんてそんなもんだぞ」
「少なくとも現在の先生なら、時計くらい買えます」
「別に今は必要ない」
「町には時計塔もありませんよね?」
「太陽見れば大体分かる」
「先生」
「便利だぞ」
「原始的です」
「酷いな」
キリオンは苦笑した。
だが、そんなやり取りさえどこか楽しい。
窓の外へ目を向けると、王都の街並みが次々に流れていく。昔ここへ来た時、自分はもっと若かった。
何も知らなくて、それでも何でも知りたくて、とにかく色々なものを見た。
王都錬金術学院へ通い、研究室に籠もり、図書館で本を読み、時には寝る場所すら惜しんで机に突っ伏した。
懐かしい。
だが、不思議と戻りたいとは思わない。
あの頃はあの頃。今は今。
「先生?」
「ん?」
「随分楽しそうですね」
「そう見える?」
「はい」
「まあ……懐かしいからな」
セレスティアは、その言葉を聞いて少しだけ嬉しそうに笑った。
◇
「こちらが中央市場です」
「広くなったな」
「以前より区画が増えています」
「何売ってるんだ?」
「何でもです」
「雑だな」
「本当に何でもありますので」
王宮へ向かう途中、セレスティアは馬車を少し遠回りさせていた。
本人曰く、せっかく十年ぶりに戻ったのだから、少しくらい王都を見た方がいい、とのことだった。
「こちらは魔道具商区です」
「こんなの昔なかったぞ」
「十年前は、まだ数軒しかありませんでしたから」
「今は?」
「通り一つ分あります」
「そんなに?」
キリオンは目を丸くした。
店先には、魔力灯、湯を沸かす道具、保温用の箱、魔力を利用した測定器具らしきものが並んでいる。
どれも、キリオンの記憶にはない。
「これ何だ?」
「沸かす君3号です」
「…………」
キリオンが固まる。
「何?」
「沸かす君3号です」
「え? なにそのふざけている……名前?」
「商品名です」
「何するの?」
「魔力を一定量流すことで、内部の触媒を反応させて熱へ変換します」
「……湯沸かす道具?」
「簡単に言えば」
「最初からそう言ってくれ」
「先生が聞いたのは名称です」
「難しいな都会」
事務官が思わず吹き出した。
「失礼しました」
「いや、いいよ」
キリオンも笑う。
「本当に分からんからな」
そう言ってから、キリオンは店先の道具へもう一度視線を向けた。
「触媒って何使ってるんだろうな」
「え?」
「いや、熱に変えるなら、安定させる方が面倒そうだなって」
「…………」
セレスティアが何か言いかける。
だが、その前にキリオンは別の店へ目を移した。
「お。あれ何だ」
「書け子ちゃん2号です」
「何?」
「書け子ちゃん2号です」
「また知らん名前が出てきた」
「先生……」
「十年だぞ?」
キリオンは笑った。
「そりゃ知らないものも増えるだろ」
それは本心だった。
十年、中央から離れていた。
錬金術も、魔法も、魔法工学も進歩している。当たり前のことだし、むしろ何も変わっていない方がおかしい。
「学院の教科書とかも、相当変わったんだろうな」
「ええ」
「俺、講師やって大丈夫か?」
「大丈夫です」
「即答だな」
「はい」
「根拠は?」
「あります」
「教えてくれ」
「そのうち」
「不安になるな」
セレスティアは笑う。
キリオンも苦笑した。
だが、心の中では少し本気で不安だった。
町で見せられた試験は解けた。
しかし、それと現在の錬金術を知っていることは別だ。名称が変わっているもの、新しく整理された理論、自分が知らない分類。そういうものは当然ある。
「やっぱり勉強し直した方がいいかもな」
「何をです?」
「今の体系」
「先生が?」
「当然だろ」
セレスティアが妙な顔をした。
「なんだ」
「いえ」
「また確認してる顔だな」
「していません」
「絶対してる」
「していません」
そんな話をしているうちに、馬車は再び大通りへ戻った。
そして、しばらくして王都の中心――王宮が見えてきた。
「……でかいな」
キリオンが呟く。
「変わっていませんよ」
「知ってる」
「ではなぜ」
「久しぶりに見ると、やっぱりでかい」
白い石造りの城壁。
高く伸びる塔。
幾重にも続く建物群。
王都のどこからでも見える、この国の中心。
「セレス」
「はい」
「お前、ここで働いてるんだよな?」
「はい」
「すごいな」
「…………」
「本当に偉くなったんだな」
セレスティアが少しだけ固まった。
「どうした?」
「いえ」
「照れてる?」
「照れていません」
「顔赤いぞ」
「馬車の中が暑いだけです」
「そうか?」
「そうです」
キリオンはそれ以上追及しなかった。
だが、少し嬉しかった。
かつて、まだ小さかった少女。自分の後ろをついて回り、何でも聞いてきた。
そんな子が、今では宮廷主席錬金術師として王宮に仕えている。
「先生」
「ん?」
「今、何を考えていました?」
「別に」
「気になります」
「偉くなったなって」
「…………」
「だから何で黙るんだよ」
「先生」
「はい」
「そういうことを急に言うのはやめてください」
「なんで?」
「困ります」
「褒めただけなのに」
「余計に困ります」
やはり昔より難しくなった。
◇
王宮へ入ると、キリオンはさらに居心地が悪くなった。
「……やっぱり俺、場違いじゃない?」
「何度目ですか?」
「三回目くらい」
「少なくとも七回目です」
「数えてたの?」
「はい」
「暇だな」
「先生が何度も言うからです」
広い廊下。磨かれた床。高い天井。壁には絵画。窓にも細かな装飾が施されている。
町の自宅とは、何もかも違う。
何より、すれ違う人間が皆きっちりしている。
役人。騎士。侍従。宮廷魔術師らしい者。
そして、その多くがセレスティアへ頭を下げていく。
「主席」
「お疲れ様です」
「お戻りでしたか」
「はい。先ほど」
そのたびに、キリオンは何となく一歩後ろへ下がった。
「先生」
「何」
「離れないでください」
「いや」
「迷いますよ」
「分かってる」
「ではこちらへ」
「お前、本当に偉いんだな」
「先ほども聞きました」
「いや、改めて」
やはり違う。
町にいた時のセレスティアとは。
周囲の見る目が違う。
何人もの人間が彼女のために足を止め、敬意を払う。
少し離れた場所では、若い役人が「あれが……」と囁いていた。
何と言ったかまでは聞こえない。
だが、きっと自分が知らない呼び名もあるのだろう。
「鼻が高いなあ」
小さく呟く。
「先生?」
「何でもない」
しばらく歩き、ある一室へ通された。
「こちらで少々お待ちください」
事務官が頭を下げる。
「招聘受諾の報告と、その後の手続きを進めます」
「はい」
「セレスティア様は?」
「私も少し確認がありますので」
「承知しました」
キリオンは部屋の中を見渡した。
応接室らしい。
長椅子。机。壁には本棚。
町の自宅とは比べ物にならないくらい立派だ。
「……落ち着かん」
「慣れてください」
「無理だろ」
そう言いながら椅子へ座る。
柔らかい。
「沈む」
「良い椅子ですので」
「立ちづらそうだな」
「そこを気にします?」
「歳取ると重要だぞ」
「先生は四十です」
「もう四十だ」
「まだ四十です」
そこだけは、ずっと意見が合わない。
少し待っていると、扉が開いた。
入ってきたのは、白衣に近い研究服を着た男だった。
その後ろに、同じく研究者らしい女性がいる。
二人ともキリオンより若い。三十前後だろう。
「主席」
男がセレスティアへ頭を下げる。
「お戻りだったのですね」
「ええ」
「そちらが?」
視線がキリオンへ向く。
「はい」
セレスティアは立ち上がった。
「キリオン先生です」
「……先生?」
男の眉が僅かに動く。
女性も一瞬、キリオンの全身を見た。
眼鏡。
地方の仕立屋で作った上着。
使い込まれた靴。
研究者らしい豪華な装飾も、宮廷所属を示す徽章もない。
「初めまして」
キリオンは立ち上がった。
「キリオンです」
「どうも」
男は軽く頭を下げる。
女性もそれに倣う。
だが、明らかに歓迎している空気ではない。
「先生」
男が言う。
「主席が地方まで迎えに行かれたと伺っていましたが」
「ええ」
セレスティアが答える。
「こちらの方だったのですね」
「何か?」
「いえ」
男がキリオンを見る。
「失礼ですが、現在はどちらに所属を?」
「どこにも」
「……どこにも?」
「故郷で薬師してます」
「薬師」
女の方が少し驚いたように言う。
「研究機関には?」
「十年以上いないな」
「論文発表は?」
「してない」
「学会活動も?」
「ないなあ」
二人が一瞬視線を合わせた。
キリオンには、それだけで何となく意味が分かった。
ああ。
やっぱり。
そうなるよな。
「主席」
女性が言う。
「この方を、本当に学院へ?」
「はい」
「講師として?」
「はい」
「失礼ながら」
女性は今度ははっきり疑問を表情に出した。
「現在の錬金理論には、どの程度精通しておられるのでしょうか」
「……あ」
キリオンが困った顔になる。
「それは」
「先生」
セレスティアが口を挟もうとする。
だが、キリオンは手を上げた。
「いや」
止める。
そして、少し考えた。
「正直、疎いと思う」
二人の宮廷錬金術師が眉を動かす。
「疎い」
「十年以上中央を離れてるからな」
「では」
男が少し身を乗り出す。
「現行の魔力媒介式については?」
「……何式?」
「魔力媒介式です」
「名前は知らない」
沈黙が落ちた。
「では、複合触媒理論は?」
「それも」
「反応層分離法」
「……初耳だな」
女の表情が少しずつ険しくなる。
「先生」
セレスティアがまた何か言おうとした。
だが、男の方が先だった。
「主席」
声はまだ丁寧だった。
しかし、疑念は隠していない。
「この方を王都学院の講師として招聘された理由を、お伺いしても?」
「私が適任と判断したからです」
「ですが」
女性が言う。
「現行の基礎体系すらご存じないのでは」
「それは――」
「いや」
今度はキリオンがセレスティアを止めた。
「二人の言う通りだよ」
「先生」
「俺、本当に知らないからな」
苦笑する。
「さっき王都を歩いてても、知らない言葉ばっかりだった」
「…………」
「講師なんて言われても、そりゃ不安になるよ」
自分でもそう思っている。
だが、男は少し安心したように「ご理解いただけるのであれば」と言った。
「王都学院は、この国最高の学府です」
「知ってる」
「現在、最先端の技術が研究されています」
「うん」
「地方で薬師として経験を積まれていることを否定するつもりはありません」
その言い方で、否定している。
セレスティアの眉が僅かに寄った。
「しかし、現代錬金術の体系を知らない方が教壇に立つとなれば、学生に混乱を与える可能性もあります」
「そうだな」
キリオンは頷く。
「先生!」
「いや、本当だろ」
「ですが」
「セレス」
キリオンは少し笑った。
「俺だって不安なんだよ」
そして、二人の宮廷錬金術師を見る。
「ちなみに、さっきの魔力媒介式って」
「ええ」
「どういうものなんだ?」
男が一瞬戸惑う。
「錬成対象へ魔力を直接流し込むのではなく、一度媒介物を通すことで反応安定性を向上させる技術体系です」
「……ああ」
キリオンが少しだけ目を細めた。
「なるほど」
「ご理解いただけましたか?」
「うん」
「では、近年では媒介物の性質ごとに魔力変性率を分類し――」
「ああ。分類したんだ」
「……はい?」
「いや、何でもない」
キリオンは首を振った。
「複合触媒理論ってのは?」
今度は女性を見る。
「複数の触媒を組み合わせることで、単一触媒では不可能な反応を成立させる理論です」
「組み合わせ方に順序は?」
「当然あります」
「反発する場合は?」
「現在は相性表が整備されています」
「へえ」
キリオンが素直に感心する。
「便利になったな」
女性の眉が動いた。
「便利?」
「いや」
キリオンは笑う。
「昔は、いちいち試してたから」
「……昔?」
「こっちの話」
セレスティアだけが、その横顔を見ている。
何も言わない。
だが、キリオンには分からなかった。
なぜ、そんな顔をしているのか。
「とにかく」
男が言う。
「主席のご判断に異を唱えるつもりはありません」
どう聞いても唱えている。
「ただ」
「ええ」
「王都学院の教授方からは、当然厳しい目で見られると思います」
「承知しています」
セレスティアの声が少し冷たくなる。
「その責任は、招聘を進言した私が取ります」
「主席がそこまで」
「はい」
二人とも少し黙った。
「分かりました」
男が最後にキリオンを見る。
「失礼いたしました」
「いや」
キリオンは笑う。
「当然の疑問だと思うよ」
その言葉に、男は軽く頭を下げた。
女性もそれに続き、二人は部屋を出ていく。
扉が閉まる。
静かになった室内で、キリオンは一度息を吐いた。
「セレス」
「はい」
「怒ってる?」
「怒っていません」
「怒ってるな」
「怒っていません」
「顔怖いぞ」
セレスティアはゆっくり息を吐いた。
「先生。なぜ、何も言い返さないのですか」
「だって」
キリオンは困ったように笑う。
「知らないのは本当だし」
「名称が違うだけです」
「そうか?」
「そうです」
「いや、でも」
「先生」
少し強い。
「はい」
「先ほどの魔力媒介式について」
「うん」
「説明を聞いて、すぐ理解されましたよね」
「そりゃ説明聞いたから」
「複合触媒理論も」
「似たような考え方はあったからな」
「…………」
「何だよ」
セレスティアは何か言いたそうに口を開いた。
だが、結局閉じた。
「……いえ」
「またそれか」
「今は、何も申しません」
「怖いな」
キリオンは椅子へ座り直した。
少し疲れた。
やはり中央は、自分には向いていないのかもしれない。
知らない言葉。知らない技術。知らない体系。
セレスティアは自分を買ってくれている。
それは嬉しい。
正直、かなり嬉しい。
だが、それと実際に役に立てるかどうかは別の話だ。
「セレス」
「はい」
「俺、本当に大丈夫かな」
「大丈夫です」
即答。
「また即答だな」
「はい」
「一応さ」
「はい」
「学院行く前に、今の教科書とか見せてくれ」
「……分かりました」
「知らない言葉だらけで講義とか怖いし」
「先生」
「ん?」
「多分、先生が思っているようなことにはならないと思います」
「何が?」
「いえ」
「また隠す」
「今は」
「さっきも聞いた」
「では」
セレスティアは話を切るように立ち上がった。
「そろそろ参りましょう」
「どこへ?」
「次の予定です」
「まだあるの?」
「はい」
キリオンも仕方なく立ち上がる。
「招聘の報告終わったんだろ?」
「終わりました」
「じゃあ今日は宿?」
「いいえ」
「学院?」
「それは明日です」
「じゃあ何だ」
セレスティアが、実に平然と言った。
「この後、謁見がありますので」
「…………」
キリオンが止まる。
「大変失礼しました、先生」
セレスティアは、ほんの少しだけ申し訳なさそうに言った。
「先にお伝えしておくべきでした。この後、謁見がありますので、貸衣装部屋へ参りましょう」
「…………」
「先生?」
キリオンは数秒、完全に固まった。
そして、眼鏡の奥で目を見開く。
「え? マジで?」
その声が、妙に立派な応接室へ、間抜けなくらいよく響いた。




