第四話 試験
さらに翌朝。
キリオンは、静かだった。
「……平和だ」
家の前で湯気の立つ茶をすすりながら、しみじみと呟く。
誰も扉を叩かない。
朝一番から「先生」と呼ぶ声もない。
王都行きの話を持ち出す教え子もいない。
ただ、いつもの町の朝がある。
家々の煙突から薄い煙が上がり、通りの向こうを荷車がゆっくりと進んでいる。
少し離れたところでは、昨日の勉強会に来ていた子供が母親に手を引かれて歩いていた。
「先生ー!」
「おう」
子供が大きく手を振る。
キリオンも片手を上げて返した。
母親が軽く頭を下げてくる。
「昨日もありがとうございました」
「いやいや。ちゃんと宿題やらせてくださいよ」
「聞いた?」
「聞いてない!」
「今聞いただろ」
母親に頭を小突かれ、少年がむくれる。
キリオンは笑いながら見送った。
本来なら、これが日常だった。
起きて。
朝飯を食べて。
薬の在庫を見る。
必要なら調合する。
町を歩けば誰かに声を掛けられ、困りごとがあれば相談に乗る。
昼を過ぎれば治療院を開ける日もある。
夕方には子供たちを集めて勉強を教える日もある。
派手さなどない。
けれど。
キリオンは、この生活を気に入っていた。
学院を離れて。
各地を旅して。
最後に故郷へ戻って。
気づけば十年。
自分なりに、落ち着く場所を見つけたのだと思っている。
「先生!」
「今日は誰だ?」
聞き慣れた声ではあったが、セレスではない。
通りの向こうから走ってきたのは、昨日腹を打って治療に来た大工の男だった。
「走るな!」
「あ」
「腹打ってる奴が全力で走ってくるな!」
男が急停止する。
「いや、先生に早く言おうと思って」
「まず歩け。で、どうした」
「全然痛くねえ」
男は腹を軽く叩こうとして、キリオンに手首を掴まれた。
「叩くな」
「はい」
「吐き気は?」
「ない」
「飯は食えた?」
「朝から二杯」
「多いな」
「いつもだ」
「息苦しさは?」
「大丈夫」
キリオンは男の顔色を確認する。
昨日より明らかにいい。
「ちょっと見せて」
「ここで?」
「嫌なら中入れ」
「別にいいけど」
服を少し上げさせ、痣の状態を見る。
色はまだ残っている。
だが腫れは強くなっていない。
軽く触れる。
「ここは?」
「少し痛い」
「昨日より?」
「全然マシ」
「こっち」
「平気」
キリオンはしばらく確認してから、頷いた。
「まあ、大丈夫そうだ」
「だろ?」
「ただし今日も仕事は禁止」
「ええ?」
「言ったよな。二日は休めって」
「もう動けるぞ」
「動けるのと動いていいのは別だ」
「先生、厳しすぎない?」
「今度無茶したら、薬代倍取るぞ」
「分かった分かった!」
男が両手を上げた。
「じゃあ今日は家で大人しくしてるよ」
「そうしてくれ」
「嫁に何か手伝えって言われたら?」
「軽いことならな」
「じゃあ薪割りは?」
「それを軽いと思ってるなら、一日寝てろ」
「はい」
男は苦笑しながら帰っていった。
その背中を見送り、キリオンは茶を飲み切る。
「まったく」
病人や怪我人ほど、治りかけに無茶をする。
昔から変わらない。
そんなことを考えながら家へ戻る。
午前中は、薬棚の整理をした。
昨日使った薬の補充。
乾燥させていた薬草の確認。
傷薬の軟膏も少なくなっている。
「こっちも作っとくか」
棚からいくつかの材料を取り出す。
乾燥させた薬草を乳鉢へ入れ、細かく砕く。
別の容器では、油脂を弱火で温める。
薬草そのものをただ混ぜればいいわけではない。
必要な成分をどの程度引き出すか。
熱を加える時間。
混ぜる順番。
保存した時に分離しないよう、粘度も合わせる必要がある。
キリオンは眼鏡の位置を直し、容器を覗き込んだ。
「……少し弱いな」
香りを確かめる。
指先にほんの少し取り、馴染み方を見る。
別の小瓶を手に取った。
一滴、二滴。そしてそれらを混ぜる。
そこへ、キリオンは指先を軽く翳した。
淡い光が灯る。
容器の中で、薬液の表面が僅かに揺れた。
魔力を通す。
ただ流し込むのではない。
素材同士が持つ性質を崩しすぎないよう、必要なところだけを繋ぐ。
錬金術。
キリオンにとって、それは特別な儀式ではなかった。
薬を作るための、一つの手段。
火を使う。
薬草を刻む。
液体を混ぜる。
その延長線上にある技術。
やがて、淡い緑色の軟膏が完成する。
「うん」
蓋を閉め、日付を書いた紙を貼る。
出来上がった薬を棚へ戻したところで、外から声がした。
「先生ー!」
「今度は何だ?」
戸を開けると、昨日農地を見た農家の男が立っている。
両手には籠。
また野菜だ。
「昨日渡しただろ」
「今日のは別だ」
「何が違うんだ」
「こっちは朝採れた」
「昨日のも朝だっただろ」
「昨日の朝と今日の朝は違う」
「屁理屈だなあ」
籠を覗く。
新鮮な野菜がたっぷり入っている。
「こんなに食えんぞ」
「余ったら誰かにやれ」
「それなら最初からそっちにやれよ」
「先生に渡したいんだ」
「なんでだよ」
「昨日見てもらったところな」
「うん」
「言われた通り、分けてやってみた」
「早いな」
「忘れんうちにな」
男は嬉しそうに笑った。
「これでまた結果が出たら見てくれ」
「もちろん」
「じゃ、野菜は礼だ」
「だから多いんだって」
「食え食え。先生細いからな」
「四十の男に言うことじゃないだろ」
「四十だからだ」
「どういう意味だよ」
結局押し切られた。
籠を抱え、キリオンは家の中へ戻る。
こんな調子で午前中が過ぎた。
昼食を摂る。
午後も何人かが顔を出す。
薬を買いに来た者。
手紙の書き方を聞きに来た老人。
町外れの井戸について相談したいと言う男。
特別なことは何もない。
いつもの一日。
昨日とは違い。
セレスはいない。
「……静かだな」
思わず、また同じ言葉が出た。
静かでいい。
いいはずなのだ。
なのに。
夕方近くになると、何度か通りの方を見ている自分に気づいた。
「いやいや」
キリオンは首を振った。
別に待っているわけではない。
昨日、本人が来ないと言ったのだから。
今日くらいは平和でいい。
そう思った直後だった。
こん、こん。
扉が叩かれた。
「…………」
嫌な予感がする。
「先生」
「…………」
「いらっしゃいますよね?」
やっぱりだ。
キリオンは額を押さえた。
「来ないって言っただろ!」
「『明日は伺わないと思います』と申し上げました」
「来てるじゃないか!」
「用事が早く終わりましたので」
扉越しから、実に澄ました声が返ってくる。
キリオンは諦めて扉を開けた。
「こんにちは、先生」
「もう夕方だ」
「では、こんばんはには少し早いですね」
「そういう話じゃない」
セレスは昨日までと変わらない格好だった。
ただし。
今日は一つ違う。
脇に革製の書類鞄を抱えている。
「何だ、それ」
「先生にお見せしたいものがあります」
「嫌な予感しかしない」
「奇遇ですね」
「お前も?」
「いいえ。私は良い予感しかしていません」
「帰れ」
「まだ何もしていません」
「する前に帰れ」
「そうはいきません」
セレスが玄関の横を見る。
「今日は勉強会はありませんよね?」
「…………」
キリオンが固まった。
「何で知ってる」
「昨日、子供たちに聞きました」
「いつ」
「先生が他の子の問題を見ている時に」
「何話してるんだお前」
「本日はお休みだと教えていただきました」
セレスは平然としている。
「それから、今日は治療院も早めに終わると」
「誰に聞いた」
「町のお爺様方に」
「何やってたんだ昨日一日……」
「先生のことを色々と」
「聞き回ってたのか?」
「誤解を招く言い方をしないでください。ただお話を伺っただけです」
「同じだろ」
どうやら昨日。
自分が患者や子供を相手にしている間に、随分町へ馴染んでいたらしい。
恐ろしい教え子だ。
「ともかく」
セレスは書類鞄を軽く持ち上げた。
「今日は、先生ときちんとお話をしに参りました」
「昨日までのは何だったんだ」
「お願いです」
「今日は?」
「交渉です」
「嫌な言葉になったな」
「どうぞ中へ」
「俺の家だぞ」
「では先生がお先に」
「……お前、王都で絶対偉くなっただろ」
「それは褒め言葉として受け取っておきます」
二人で中へ入る。
キリオンは椅子へ座り、セレスは向かいに腰掛けた。
机の上には、昼間使った紙が残っている。
セレスが視線を向けた。
「片付けは」
「今その話は止めよう」
「分かりました」
珍しく素直だ。
それが逆に怖い。
セレスは書類鞄を開いた。
「まず、こちらを」
一通の封書を取り出す。
上質な紙。
赤い封蝋。
紋章。
キリオンにも覚えがある。
「……王宮?」
「はい」
昨日馬車に刻まれていたものと同じだ。
「王都錬金術学院への、特別講師としての招聘状です」
王都錬金術学院。
この国で最高峰の錬金術の教育機関であり、研究機関。
そしておよそ15年前、キリオンがいた場所でもある。
「正式な?」
「正式なものです」
「最初から持ってたのか?」
「はい」
「なんで昨日出さなかった」
「出せば先生はどうされました?」
「断った」
「ですので」
「……なるほどな」
妙なところだけよく分かっている。
キリオンは封書を受け取った。
封を開ける。
中には、きちんとした文面が並んでいた。
王都錬金術学院において、一定期間、講師として教鞭を執ることを要請する。
期間。
待遇。
移動に関する費用。
滞在場所。
講義内容については本人と協議の上で定める。
そして。
「……ん?」
キリオンの目が止まった。
眼鏡を直す。
もう一度読む。
「セレス」
「はい」
「これ、断れるって書いてあるな」
「はい」
「はい、じゃないよ」
文書の下部に、明確に記載されている。
『本招聘は強制を伴う王命ではなく、本人の意思を尊重する』
『事情により辞退する場合、一切の不利益を科さない』
「宮廷からの命令なんだろ?」
「正確には、宮廷から正式に発行された招聘要請です」
「要請じゃないか」
「王宮の印があります」
「でも断れる」
「断れます」
「なら断る」
キリオンは書類を机に置いた。
セレスは平然としている。
「想定内です」
「だろうな」
「ですので、もう一つ」
「まだあるのか」
嫌な予感が当たりすぎている。
セレスが今度は、小さな木箱を机へ置いた。
「何だ?」
「試験です」
「…………」
「先生に受けていただきます」
「嫌だ」
「まだ内容をご説明していません」
「だから嫌だ」
「先生」
「何だ」
「これは私からのお願いではありません」
「じゃあ誰からだ」
「私からの挑戦です」
「もっと面倒になったな!」
セレスが木箱を開く。
中には、小瓶が三つ。
それぞれ透明な液体が入っている。
他に、乾燥させた植物。
小さな鉱石。
粉末。
何種類かの素材が整然と収められていた。
「先生には、この材料から一つ、薬を作っていただきます」
「なんで」
「講師として適任かどうか確認するためです」
「講師を断ってる本人に適任試験させるなよ」
「先生は昨日、『もっと若い者』『有名な者』『現役の研究者』の方が講師にふさわしいと仰いました」
「言ったな」
「つまり」
セレスが微笑む。
「ご自身が講師として不足しているとお考えなのですよね?」
「不足っていうか、俺はもう中央を離れて十年以上――」
「では証明してください」
「…………」
「先生より現在の錬金術師の方が、講師にふさわしいと」
キリオンが黙る。
セレスは畳みかけない。ただ、待っている。
昔からそうだった。
この娘は、妙なところで真っ直ぐだ。
「……何を作ればいい」
「解毒薬を」
「毒は?」
セレスが別の小瓶を置く。
「こちらです」
キリオンは瓶を手に取った。
「飲むのか?」
「まさか」
「良かった」
「先生がそこまで無茶をされる方ではないと信じています」
「本当、昔の俺を何だと思ってたんだよ」
セレスが視線を逸らした。
「おい」
「試験を始めましょう」
「今なんで目を逸らした」
「始めましょう」
強引に進められた。
キリオンはため息を吐き、毒液の瓶を光へ翳した。
色。
濁り。
液体の粘度。
蓋を開ける。
匂いを直接嗅がず、手で軽く仰いで確認する。
「植物性が中心か」
セレスは答えない。
試験だからなのだろう。
「少し面倒な混ぜ方してるな」
瓶を置く。
用意された素材を見て、一つずつ手に取る。
「これと……これ」
二種類を脇へ。
粉末も少し。
残った素材を見て、首を傾げる。
「これ、要らないだろ」
セレスの眉が僅かに動いた。
キリオンは気づいたが、何も言わない。
「先生」
「何」
「使わないのですか?」
「使わない」
「なぜ?」
「こっちの作用とぶつかる」
「ですが毒性を中和する作用があります」
「単体ならな」
キリオンは毒液を指差す。
「この毒、二種類混ざってるだろ」
セレスが黙った。
「片方には効くけど、もう片方の吸収を早める。入れない方がいい」
「…………」
「違う?」
「続けてください」
「試験官みたいだな」
「試験官です」
「そうだった」
キリオンは立ち上がる。
自宅だから、必要な道具は揃っている。
乳鉢。
小鍋。
濾過布。
計量用の小匙。
素材を砕く。
水へ入れる。
加熱する。
抽出した液を濾す。
そこへ鉱物由来の粉末を、ごく少量。
セレスは一言も発さない。
ただ目だけが、忙しく動いていた。
「先生」
「ん?」
「加熱はそこまでですか?」
「ああ」
「通常なら、もう少し必要では」
「この葉、乾燥させすぎてる」
「……はい」
「長くやると欲しい成分より先に、余計なのが出る」
「…………」
「これ乾燥させたの、お前か?」
「学院の者です」
「保存方法変えた方がいいって伝えとけ」
「……はい」
なぜ試験を受けている側から、素材管理を指摘されているのだろう。
セレスは一瞬だけ複雑な顔をした。
キリオンは気づかない。
抽出液が冷えるのを待つ。
その間に、別の材料を細かく砕いた。
そして。
キリオンの指先に、淡い光が灯った。
セレスの表情が変わる。
昨日までは、人の目がある場所だった。
だからキリオンも、必要以上に目立つ真似はしなかった。
ここは自宅。
今いるのは、自分と。
昔、錬金術を教えた教え子だけ。
「久しぶりにちゃんとやるな」
キリオンが呟く。
「ちゃんと……」
「最近は町で使う薬ばっかりだからな」
魔力が流れる。
液体に。
素材に。
混ざり合う性質の境目へ。
光が一度強くなり。
次の瞬間には消える。
液体の色が僅かに変化していた。
「こんなもんか」
キリオンは瓶へ移す。
「完成」
セレスは何も言わない。
「セレス?」
「…………」
「おい」
「……失礼しました」
我に返ったように瞬きをする。
「確認します」
「どうぞ」
セレスが完成した薬を手に取った。
色を見る。
香り。
ごく少量を専用の試薬へ垂らす。
反応を見る。
次に、用意していた毒液を別の器へ移し、そこにキリオンの薬を落とした。
僅かな泡。
色が変わる。
やがて、反応が止まった。
セレスは黙ったまま、その結果を見る。
「どうだ?」
「……完全に中和されています」
「そう」
「想定していた毒性反応が、ほぼ残っていません」
「良かった」
「良かった、ではありません」
「なんで怒られるんだよ」
セレスが顔を上げる。
「先生」
「はい」
「この試験」
「うん」
「現在、王都錬金術学院の錬金薬学部、その上級課程で使われているものです」
「へえ」
「合格率は、三割ほどです」
「低いな」
「制限時間は二時間」
「…………」
キリオンが壁を見る。
時間を正確に測っていたわけではない。
だが。
「俺、どのくらいだった?」
「二十分ほどです。しかもそのほとんどが、実際に解毒薬を作っていた時間です」
「…………」
「しかも途中で、使用を想定していた素材の一つを外しました」
「あれ入れたら駄目だろ」
「一般的な模範解答には、入っています」
「……え?」
「ただし、先生の指摘通り、毒の混合比によっては問題が起きます」
セレスは静かに続ける。
「そこまで見抜くことは、現在の試験では求められていません」
「…………」
「先生」
「いや」
「先生」
「待て」
キリオンは片手を上げる。
何となく。
何を言われるか分かった。
「これ、一回で講師向きとか決めるものじゃないだろ」
「もちろんです」
「だよな」
「ですから、もう一つあります」
「まだあるのか!」
セレスが別の紙を出した。
「筆記です」
「嫌だ!」
「安心してください。先ほどより簡単です」
「そういう問題じゃない!」
「先生が現在の錬金術についていけない可能性も考慮しましたので」
「言い方!」
「こちらを」
押し付けられる。
キリオンは眉間に皺を寄せながら目を通した。
「……これ」
「はい」
「問題おかしくないか?」
「どちらがです?」
「三問目」
「どこが?」
「前提条件が足りない」
セレスが固まる。
「温度書いてないだろ。あと溶媒の濃度。これだけじゃ答え一つにならない」
「…………」
「四問目も、この書き方だと素材の産地で変わる」
「先生」
「なんだ」
「それは、現在も学院で議論されています」
「じゃあ試験に出すなよ」
「正答は一応あります」
「一応で学生採点するのか?」
キリオンの顔が険しくなった。
「駄目だろ、それ」
セレスの口元が、ほんの少し上がった。
キリオンが気づく。
「……何笑ってる」
「いえ」
「絶対何か企んでるだろ」
「先生」
セレスは紙を机へ置いた。
「今、何を考えました?」
「何って?」
「この問題について」
「だから条件足りないだろ。学生が可哀想だなって」
「他には?」
「出題者が意図してる答えに合わせる練習なら意味あるかもしれないけど、それならそういう問題だって教えないと駄目だろ」
「…………」
「何だよ」
セレスは。
今度こそ、はっきり笑った。
「合格です」
「試験として?」
「講師としてです」
「勝手に決めるな!」
「今の反応が、一番の試験でした」
「…………」
「先生は問題を見て、ご自身が解けるかではなく、教わる学生側のことを考えました」
キリオンは口を閉じる。
「昨日、子供たちに教えている先生を見て分かりました」
セレスの声は穏やかだった。
「先生は、研究者である以上に」
一拍。
「教師です」
「…………」
「少なくとも私は、そう思っています」
キリオンは返事をしなかった。
子供たちの顔が浮かぶ。
字が書けた時。
計算が解けた時。
分からないと言っていたものが、分かったと言えた時。
確かに。
嫌いではない。
むしろ。
好きなのだろう。
人に教えることが。
昔から。
「でもな」
キリオンはゆっくり口を開く。
「だからって、王都に行く理由にはならない」
「はい」
「ここにも教える子供がいる」
「はい」
「患者もいる。畑のこともある。鍛冶屋だって」
「はい」
妙に素直に頷く。
キリオンが怪訝な顔をする。
「だから俺は――」
「そちらについても、昨日確認しました」
「何を?」
「先生が一か月ほど町を離れても、大きな問題はないそうです」
「…………」
キリオンの動きが止まった。
「誰に聞いた」
「町長さんを中心に、何人かの方へ」
「…………」
「治療については、近隣の町から週に二度、薬師の方に来ていただけるよう手配可能です」
「待て」
「軽い薬については先生の在庫で十分。緊急の場合は隣町へ馬車を出す」
「待てって」
「勉強会についても、読み書きと基礎計算なら代わりをしてくださる方が」
「セレス」
「はい」
「昨日の用事って」
「こちらの確認です」
さらりと言った。
キリオンは額を押さえた。
「お前……」
「もちろん、勝手に決定はしていません」
「当たり前だ」
「先生が承諾された場合に限り、という条件です」
「…………」
「農家の方にも伺いました」
「何て?」
「『一か月くらいなら自分たちでやれる。先生もたまには外に出ろ』と」
「……あのおっさん」
「鍛冶屋の方は」
「もういい」
「『先生が王都で面白い金属を見つけてくるなら歓迎だ』と」
「あのおやじ……!」
完全に包囲されている。
「子供たちは?」
「少し残念そうでした」
「ほら」
「ですが」
「ですが?」
「王都から帰ってきたら、王都の話をしてください、と」
「…………」
「先生」
セレスが姿勢を正した。
「この町の方々は、先生が思っているほど、先生を縛ろうとはしていません」
その言葉だけは。
少し胸に刺さった。
「むしろ」
セレスは続ける。
「皆さん、先生が町のために十年働いてきたことを知っています」
「…………」
「だから一か月くらい、自分のために外へ出てもいいのではないかと」
「自分のためじゃないだろ。講師だろ」
「先生の教えを必要としている人たちに会いに行くためです」
「言い方が上手くなったな」
「誰に教わったと思っているのです?」
「またそれか」
キリオンは背もたれへ体を預けた。
天井を見る。
王都。
久しく行っていない。
人が多い。
騒がしい。
物価も高い。
何より。
中央の錬金術界に戻る気などなかった。
学院を去った時。
自分の理論は通らなかった。
それでいいと思った。
向こうには向こうの考えがあり。
自分には自分のやり方がある。
だから旅をした。
そして今。
故郷で暮らしている。
十分だ。
そう思っている。
ただ。
昨日見た子供たちの顔。
今見た試験問題。
条件が足りない問い。
それを、何も疑問に思わず暗記している学生がいるのだろうか。
もし。
自分が少し話すことで。
誰かが違う考え方を覚えられるなら。
「……期間は」
セレスの目が僅かに見開かれた。
「はい?」
「だから。招聘期間」
「まずは一か月を予定しています」
「延長は?」
「先生の同意なしには行いません」
「講義は?」
「週に三度程度を想定しています」
「それ以外の日は」
「原則自由です」
「本当だろうな」
「文書にも記載されています」
キリオンはもう一度招聘状を見る。
本当に書いてある。
「町との往復は?」
「必要であれば馬車を出します」
「そんな頻繁に戻るつもりはないよ」
「では?」
セレスが身を乗り出す。
キリオンは黙った。
長い沈黙。
セレスは待つ。
急かさない。
ここまで外堀を埋めた人間とは思えないほど、静かに。
やがて。
キリオンは大きく息を吐いた。
「……一か月だけだぞ」
セレスの顔が変わった。
「先生」
「一か月だけ」
「はい!」
「講義も週三回」
「はい!」
「町で何かあったら帰る」
「もちろんです!」
「それと」
「はい!」
「嬉しそうだな、お前」
「はい!」
「隠せよ」
「無理です!」
満面の笑みだった。
王都から来た時の、落ち着いた女性はどこへ行ったのか。
昔。
まだ少女だった頃。
難しい調合に成功した時。
こんな顔をしていた気がする。
「先生」
「何だ」
「では」
セレスが立ち上がる。
「王都へ行ってくださるのですね?」
「……行くよ」
言ってしまった。
言葉にした瞬間。
妙な感覚があった。
不安。
面倒。
少しの後悔。
それから。
ほんの僅かな、懐かしさ。
「何年ぶりだろうな」
「王都がですか?」
「ああ」
「随分変わっていますよ」
「だろうな」
「学院も」
「期待するなよ」
「しています」
「するなって」
「無理です」
即答だった。
キリオンは苦笑する。
「それで、いつ出る」
「三日後を予定しています」
「早くない?」
「先生が気を変える前に」
「お前なあ」
「冗談です」
「絶対半分本気だろ」
セレスは答えなかった。
代わりに、机の上の薬を見る。
先ほどキリオンが作った解毒薬。
「先生」
「今度は何」
「これ、いただいても?」
「いいけど」
「ありがとうございます」
「何に使うんだ?」
「試験結果として持ち帰ります」
「誰に?」
「学院の方々に」
「やめてくれない?」
「先生を推薦した者として必要です」
「……目立たないようにしてくれよ」
セレスはにこりと笑った。
「努力します」
「しない顔だな」
嫌な予感がした。
だが。
もう遅い。
三日後。
キリオンは十年暮らした故郷を、一時離れることになった。
向かう先は王都。
そして。
かつて自分が離れた世界へ。
◇ ◇ ◇
「本当に承諾されたのですか?」
その夜。
町の宿屋。
一階の食堂の隅で、若い男が驚いた声を上げた。
向かいに座るセレスティアが、静かに頷く。
「はい」
「……」
「三日後に出発します」
男は手元の書類を見る。
王都からセレスティアに同行してきた事務官の一人だった。
彼自身、今回の招聘について詳細を知っているわけではない。
ただ、妙な点はいくつもあった。
王都錬金術学院。
そこから田舎の薬師一人を招聘するためだけに。
なぜ、王宮が正式な文書を発行する必要があるのか。
そして何より、目の前にいる女性。
若くして中央の錬金術界で頂点の一角を担う、セレスティア・レインベルが。
どうして、自らこんな辺境まで迎えに来たのか。
「一つ、伺っても?」
「何でしょう」
「キリオン先生、という方は」
先生。
自分までそう呼んでしまった。
男は少し気まずそうに咳払いする。
「いったい、どのような錬金術師なのですか?」
セレスティアは少し考えた。
「それを説明するのは、難しいですね」
「難しい?」
「はい」
セレスティアは窓の外を見る。
夜の町。
静かな通り。
その先のどこかに。
キリオンの家がある。
「ただ」
セレスティアが微笑んだ。
「私が先生から教わったのは、錬金術の基礎です」
「基礎」
「ええ」
「それほど昔に?」
「はい」
男は首を傾げた。
基礎を教わった。
それだけなら。
ここまで敬う理由としては、少し弱い気がする。
だが。
男には一つ。
妙な噂を思い出した。
中央で名を馳せる、若き錬金術師たち。
王宮。
冒険者協会。
市井の発明家。
所属も。
研究分野も。
考え方さえ違う彼女たちに。
なぜか、一つだけ共通点がある。
若い頃、誰かに錬金術を教わったことがある。
そして、その相手について尋ねると、皆が同じ呼び方をするという。
――先生。
男は、目の前のセレスティアを見る。
それから。
もう一度。
書類に記された名前へ視線を落とした。
キリオン・ハルフェン。
ただの地方の薬師。
そのはずだった。
けれど。
「……もしかして」
男が呟く。
セレスティアは何も答えなかった。
ただ。
ほんの少しだけ。
誇らしそうに笑っていた。




