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3/20

第三話 薬師、教師としてのキリオン

 昼食を終えると、キリオンは食器を流しに置き、そのまま玄関へ向かった。


「さて」


 戸を開ける。


 昼前まで明るかった日差しは少し傾いていたが、まだ十分暖かい。


 通りには人影も多い。


 キリオンは店先に掛けていた小さな木札を裏返した。


 そこには、簡素な文字でこう書かれている。


『診ます』


「……それだけですか?」


 後ろからセレスの声がした。


「何が?」


「看板です」


「分かりやすいだろ」


「もう少し、こう……診療時間ですとか、受付内容ですとか」


「この町でそんなもの書いても誰も守らないよ」


 キリオンは肩をすくめた。


「朝だろうが夜だろうが、困ったら来るしな」


「それは診療時間を設定している意味がありませんね」


「だろ?」


「先生がそれを受け入れてしまうからでは?」


「十年前に諦めた」


 そう言いながら、家の中へ戻る。


 キリオンの家は、そのまま薬屋と簡易的な治療所を兼ねている。


 入口近くには患者を座らせる椅子。


 壁際には薬棚。


 奥には調合用の机と、小さな寝台が一つ。


 大掛かりな設備などはない。


 それでも軽い怪我や病気なら、町の人間はまずここへ来る。


 少しすると、早速扉が開いた。


「先生、やっとるか?」


「木札見ただろ」


「見た見た」


 入ってきたのは、白髪の老人だった。


 腰を少し曲げ、杖代わりの棒をついている。


 その後ろにも、もう一人。


 こちらも歳は似たようなものだ。


「今日は二人か」


「俺は腰」


「俺は足だ」


「聞く前に言うな。順番に診るから座れ」


「相変わらず愛想がないなあ」


「愛想で腰痛は治らん」


「そりゃそうだ」


 老人たちが笑う。


 セレスは邪魔にならないよう、壁際の椅子へ腰掛けた。


 朝と同じく、口を出すつもりはないらしい。


 ただ、よく見ている。


「で。腰はいつから?」


「三日くらい前だな」


「何した?」


「薪を運んだ」


「一人で?」


「孫に格好いいところ見せようと思ってな」


「年寄りが張り切るからだ」


「先生だってもう若くないだろ」


「俺はまだ四十だ」


「昨日はもう歳だって言っとらんかったか?」


「……誰から聞いた」


「町中知っとるぞ」


 キリオンが眉間を押さえる。


 向かいの八百屋あたりが広めたに違いない。


「とにかく、少し前屈して」


「こうか?」


「痛む?」


「少しな」


「じゃあ反対」


「こっちの方が痛い」


 キリオンは腰の辺りへ手を添え、軽く押していく。


「ここ」


「おお、そこだ」


「こっちは?」


「それほどでもない」


「分かった」


 大げさなものではない。


 筋肉を痛めただけだろう。


「今日は重いもの持つな。風呂で温めすぎるのもやめとけ」


「薬は?」


「湿布出す」


「酒は?」


「聞くな」


「駄目か」


「少しくらいならいいけど、飲んで痛み忘れてまた動くなよ」


「それは難しいな」


「じゃあ飲むな」


 老人は不満そうな顔をした。


「先生は厳しい」


「治りたければ言うこと聞け」


 次の老人は、足首を軽く捻っていた。


 こちらも大きな問題はない。


 冷やして固定し、数日は無理をしないよう言い渡す。


「畑は?」


「休め」


「明日やらんと」


「息子にやらせろ」


「あいつ、やり方が雑なんだよ」


「教えるのも親の仕事だ」


「先生は何でも言うなあ」


「お前らが何でも俺に聞くからだよ」


 老人二人は薬を受け取ると、しばらく世間話をしてから帰っていった。


 最近生まれた孫の話。


 隣家の犬の話。


 今年の雨の話。


 最後には診察より雑談の方が長かった。


 扉が閉まる。


 キリオンは使った布を片付けながら、壁際を見る。


「退屈か?」


「いいえ」


 セレスは首を振った。


「むしろ、とても興味深いです」


「腰痛と捻挫が?」


「先生と皆さんの距離感が、です」


「十年も住んでりゃあんなもんだ」


「それだけでしょうか」


「それだけだよ」


 セレスは何も言わない。


 昨日から、こういう沈黙が増えた。


 何か言いたそうなのに、敢えて言わない。


 それが少し気になる。


 だが尋ねても、どうせ「確認しているだけです」と返されるだろう。


 キリオンが次の薬を棚へ戻していると、また扉が開いた。


「先生、いるか?」


「いるぞ」


 入ってきたのは、三十前後の男だった。


 町の大工の一人だ。


 普段からよく顔を合わせる。


「どうした」


「いや、ちょっと腹ぶつけてさ」


 男は苦笑しながら、自分の脇腹を押さえた。


「家建ててる途中に、角材にごつんと」


「ごつん?」


「まあ、そこそこ勢いはあったけど」


「見せて」


「大したことないぞ?」


「診てから決める」


 キリオンは椅子を引いた。


 男が座る。


「服、少し上げて」


「ここら辺」


 腹部には、青黒い痣が広がっていた。


 思っていたよりも大きい。


 キリオンの目が細くなる。


 いつもの、少し気の抜けた表情が消えた。


 セレスが、それに気づいた。


「いつぶつけた?」


「昼前」


「吐き気は?」


「ちょっとだけ」


「飯は食った?」


「食ったけど、あんまり入らなかったな」


「息苦しさは」


「少しあるかも」


「立って歩いた?」


「ここまで歩いてきた」


 キリオンは痣の周辺を、慎重に触る。


「痛かったら言え」


「分かった」


「ここ」


「ん……」


「こっちは?」


「そこ、結構痛い」


「もっと奥は?」


「押されると嫌な感じするな」


 キリオンは何も言わなかった。


 表情だけが、少し硬くなる。


 外から見える怪我より、中の方が問題だ。


 腹部に強い衝撃を受けている。


 痣の位置。


 痛み方。


 呼吸。


 顔色。


 食欲の低下。


 単なる打撲と片付けるには、少し嫌な材料が揃っている。


 だが。


「先生?」


 男が不安そうに聞いた。


 キリオンはすぐに表情を戻した。


「大丈夫。ちょっと強く打ってるだけだ」


「だよな?」


「ああ。ただ、今日は仕事に戻るな」


「え」


「家帰って寝てろ」


「でも午後も――」


「駄目」


 声は優しい。


 だが、有無を言わせない。


「明日も休め」


「二日も?」


「腹の中は外から見えない。痛みが引いても無理すると悪くなる」


「そんなにか?」


「念のためだよ」


 キリオンは棚へ向かった。


 いくつかの瓶を取り出し、内容を確認する。


 その動作を、セレスがじっと見ていた。


 キリオンは彼女の視線に気づいていない。


 いや。


 気づいていても、今は気にしている余裕がない。


「これを飲んで」


「薬?」


「一日三回。食後」


「苦い?」


「少し」


「先生の少しは信用できねえんだよなあ」


「じゃあ蜂蜜混ぜてもいい」


「なら何とか」


「あと酒は禁止」


「そこまで?」


「そこまで」


 男が露骨に嫌そうな顔をした。


 キリオンは薬包を渡す。


「それと」


「まだある?」


「夜になって痛みが強くなったら、すぐ来い」


「分かった」


「吐いたり、急に息苦しくなったり、立てないくらい痛くなったら我慢するなよ」


「先生、急に怖いこと言うなよ」


「怖がらせたくないから先に言ってるんだ」


 キリオンは笑った。


「大抵は何もない。でも、もし何かあった時に我慢される方が困る」


「……分かったよ」


「家まで一人で帰れるか?」


「それくらいは」


「本当に?」


「本当だって」


「ならゆっくり帰れ。寄り道するな」


「子供扱いかよ」


「言うこと聞かない奴はみんな子供だ」


 男はぶつぶつ言いながらも、薬を懐へ入れた。


「じゃ、ありがとな先生」


「明日様子見に行くよ」


「そこまでしなくていいって」


「俺が気になるから行くんだ」


「なら止めても無駄か」


「よく分かってるな」


 男は苦笑し、店を出ていった。


 扉が閉まる。


 静かになった室内で。


「先生」


 セレスが呼んだ。


「ん?」


「今の方」


「ああ」


「かなり危険でしたね」


 キリオンの手が止まる。


 数秒、何も答えなかった。


「……分かったか」


「はい」


「さすがだな」


「先生こそ」


 セレスは男が出ていった扉を見る。


「あの方には、ほとんど不安を与えませんでした」


「怖がらせても仕方ないだろ」


「ですが、安静は強く言い渡した」


「そりゃ必要だからな」


「処方した薬も」


 そこで言葉を切る。


 キリオンが、僅かに視線を向けた。


 セレスはそれ以上深くは言わなかった。


 ここは町の中だ。


 誰が入ってくるか分からない。


 キリオンも、それを分かっている。


「今夜、何もなければいいけどな」


「先生は、何が起きる可能性を?」


「そこまではまだ分からない」


「ですが、可能性は考えている」


「ああ」


 キリオンは小さく息を吐いた。


「腹の怪我は嫌なんだよ。外から見えないから」


「……昔もそう仰っていましたね」


「言ったっけ?」


「何度も」


「覚えてないなあ」


「先生は昔のことを覚えていなさすぎです」


「最近のことも怪しいぞ」


「それは少し心配です」


「冗談だよ」


 セレスは笑わなかった。


「冗談だって」


「分かっています」


「じゃあ笑えよ」


「面白くありませんでした」


「厳しいな」


 そうこうしているうちに、また患者が一人。


 その次にも一人。


 風邪気味の女性。


 指を切った商人。


 膝を痛めた老人。


 どれも大きな怪我ではなかった。


 キリオンは一人ずつ話を聞き、必要なら薬を渡し、不要なら生活上の注意だけを伝える。


 セレスは、ずっと見ていた。


 薬を選ぶ手。


 顔色を見る目。


 相手によって変わる言葉遣い。


 老人には少し強く。


 子供には分かりやすく。


 心配性な者には安心させるように。


 無茶をする者には逃げ道を与えず。


 キリオン本人は、特別なことをしているつもりなどない。


 この町で十年続けてきた。


 ただそれだけのことだった。


 日が傾き始めた頃。


「今日はここまでだな」


 最後の患者を見送って、キリオンが木札を裏返す。


「次は勉強会ですね」


「そう」


「どちらで?」


「すぐ近くだよ」


 キリオンは必要な紙と炭筆を抱え、家を出た。


 セレスも当然のようについてくる。


 向かった先は、町の共同施設だった。


 元々は集会所として使われていた建物だ。


 広めの一室に長机と椅子が並べられている。


 中へ入ると、すでに子供たちが何人か来ていた。


「先生遅い!」


「まだ始まる時間じゃない」


「今日は何するの?」


「計算」


「ええーっ!」


「嫌なら帰っていいぞ」


「帰らない!」


「じゃあ座れ」


 昨日怪我をしていた少年もいる。


 肘に巻いた布を自慢げに見せてきた。


「先生、見て!」


「見えてる」


「もう痛くない!」


「だからって今日は転ぶなよ」


「分かった!」


「絶対分かってない返事だな」


 子供たちが笑う。


 セレスは後ろの方の席へ座った。


 今度も見学するつもりらしい。


 時間になる頃には、十人ほど集まっていた。


 年齢はばらばら。


 六歳くらいの子もいれば、十二、三歳の子もいる。


 学んでいる内容も違う。


「じゃあ始めるぞ」


 キリオンが前に立つ。


 まず小さい子たちには文字。


 少し上の子には簡単な足し算と引き算。


 さらに上の子には掛け算や割り算。


 一度に全員へ同じ内容を教えるわけではない。


「先生、これ!」


「どこまで分かる?」


「ここまで」


「じゃあ、その次だけ一緒にやるぞ」


 答えそのものは言わない。


 少し手前まで戻る。


「三個の林檎が四皿あります」


「十二個!」


「そう。じゃあ十二個を三人で同じ数ずつ分けたら?」


「四個!」


「それが今の問題と同じ」


「あ!」


「分かったら、自分で書いてみな」


 別の席では、少女が文字を書いていた。


「先生、できた」


「見せて」


「はい」


「ここ、逆」


「え?」


「この線。右からじゃなくて左から書いた方が綺麗になる」


「どうして?」


「やってみるか」


 キリオンが隣に座り、ゆっくり書く。


 少女も真似する。


「あ、ほんとだ」


「だろ」


「先生の字、綺麗」


「昔たくさん怒られたからな」


「誰に?」


「俺の先生」


「先生にも先生いたの?」


「いるよ。俺だって最初から何でも知ってたわけじゃない」


 子供たちが少し驚いた顔をした。


「じゃあ先生も間違えた?」


「山ほど」


「勉強嫌だった?」


「嫌な時もあったな」


「じゃあ今日休んでもいい?」


「それとこれとは別だ」


「ずるい!」


「大人だからな」


 また笑い声が広がった。


 教える間、キリオンは一度も怒鳴らなかった。


 騒いだら注意する。


 ふざけすぎれば止める。


 だが、答えを間違えたことでは怒らない。


「違う」


「ええっ」


「でも途中までは合ってる」


 間違えた場所を一緒に探す。


「どこだと思う?」


「……ここ?」


「正解。じゃあ直せるな」


「うん」


「よし」


 できたら、褒める。


 難しければ、問題を少し簡単にする。


 文字が苦手な子には声に出して読ませる。


 計算が苦手な子には、豆や石を使わせる。


 理解の早い子には、一つ先の問題を渡す。


 同じ教え方を、全員にはしない。


 その様子を。


 セレスは、朝から今までで一番静かに見つめていた。


 畑を見ていた時より。


 鍛冶場で金属を見ていた時より。


 治療をしていた時より。


 長く。


 じっと。


 キリオンは子供たちに囲まれていた。


「先生! できた!」


「見せて」


「全部!」


「お。今日は早いな」


「すごい?」


「すごいすごい」


「適当!」


「じゃあもう一問やるか?」


「やだ!」


「なら座って他の子待ってろ」


 子供が笑う。


 キリオンも笑う。


 その姿を見ながら。


 セレスは、ゆっくり息を吐いた。


 ――やっぱり。


 胸の中で、そう思う。


 この人は。


 何も変わっていない。


 知識を渡す時。


 何かを教える時。


 相手が理解した瞬間。


 昔から、先生は少しだけ楽しそうに笑った。


 研究をしている時よりも。


 難しい議論をしている時よりも。


 誰かが「分かった」と言った時の方が。


 ずっと嬉しそうだった。


「……先生」


 小さく呟く。


 当然、キリオンには届かない。


 子供たちの声に囲まれている。


 セレスの口元に、少しだけ笑みが浮かんだ。


 同時に。


 頭の中では別のことを考えていた。


 どうすれば。


 この人を王都へ連れていけるか。


 力づくでは駄目だ。


 頼んでも断る。


 地位を提示しても興味を示さない。


 金でも動かないだろう。


 町の人々を放っておけと言えば、なおさら拒む。


 なら。


 別の方法が必要だ。


「セレス?」


 突然呼ばれ、顔を上げる。


「はい?」


「ぼーっとしてるぞ」


「失礼しました」


「疲れたなら先に宿戻ってもいいからな」


「いいえ。大丈夫です」


「そうか」


 キリオンはそれ以上気にしなかった。


 また子供に呼ばれて、そちらへ向かう。


 セレスは、その背中を見送る。


 そして。


 ほんの少し目を細めた。


 何かを思いついた時の顔だった。


 勉強会が終わる頃には、外はすっかり夕方になっていた。


「気をつけて帰れよー」


「はーい!」


「走るな!」


「はーい!」


「もう走ってるだろ!」


 子供たちが一斉に外へ飛び出していく。


 静かになった教室で、キリオンは机を片付け始めた。


「手伝います」


「いいよ。これくらい」


「でしたら、こちらを」


「……好きにしろ」


 二人で紙を集め、椅子を戻す。


 片付けを終えて外へ出る。


 空は茜色に染まっていた。


「今日は一日中いたな」


「はい」


「どうだった?」


「とても有意義でした」


「何の参考になるのか知らないけど」


「なりましたよ。色々と」


「嫌な言い方するな」


 キリオンは伸びをした。


 朝から随分歩いた。


 午後は診療。


 夕方は勉強会。


 いつもと変わらない一日だったはずなのに、今日は隣にセレスがいたせいか妙に疲れた気がする。


「セレス」


「はい」


「明日も来るのか?」


 半分諦めながら聞く。


 ところが。


「いえ」


「え?」


 思わず聞き返した。


「少し用事ができましたので、明日は伺わないと思います」


「……本当に?」


「はい」


 あまりにも素直な返事。


 逆に不安になる。


「何の用事だ?」


「少々」


「俺に関係ある?」


 セレスは微笑んだ。


「どうでしょう」


「あるんだな?」


「では先生」


「誤魔化したな」


「私は宿屋におりますので」


 セレスは綺麗に一礼した。


「快いお返事を、お待ちしております」


「まだ諦めてないのか?」


「もちろんです」


「俺は行かないぞ」


「では、またそのうちお聞きします」


「そのうちって何だよ」


「失礼します、先生」


 セレスは楽しそうに背を向ける。


 キリオンは、その後ろ姿を見送った。


 明日は来ない。


 それ自体は、喜ぶべきことのはずなのに。


「……嫌な予感するなあ」


 何故だろう。


 昨日より、今朝より、ずっと。


 そう思えてならなかった。

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