第十九話 主席錬金術師の悩み
「じゃあ、今日はここまで」
キリオンが教本を閉じると、少し遅れて講義終了を告げる鐘が鳴った。
最初の頃なら、この音を聞くたびにどこか安心していた。
時間内に終わった。
大きな失敗もしなかった。
学生たちにも、一応は伝わったらしい。
そんなふうに胸を撫で下ろしていたものだ。
だが最近は、少し違う。
「先生、最後の反応なんですけど」
「うん?」
「触媒を変えた場合でも、同じ考え方でいいんですか?」
「基本はね。ただ、何を触媒にするかで途中の反応が変わるから、全く同じとは考えない方がいいかな」
「じゃあ、もし教本に載っていない触媒なら?」
「俺ならまず少量で試す。いきなり完成品を作ろうとしない。それから色とか温度とか、見られる変化は全部記録する」
「魔力の流れもですか?」
「できるなら。むしろそこが一番面白い」
質問した学生が急いで紙へ書き込む。
その横から、別の学生が手を上げた。
「先生、次回それやりませんか?」
「何を?」
「教本に載ってない触媒」
「俺に実験させる気?」
「先生がやってくれるなら見たいです」
「また俺の宿題が増えるじゃん」
笑い声が起こった。
結局、その場で簡単な候補だけいくつか話し、続きは次回ということになった。
学生たちはまだ何人か残っていたが、次の講義もある。キリオンは質問を切り上げ、教本や紙束を鞄へしまい始めた。
「次か」
小さく呟く。
王都学院へ来た当初は、任期が終われば故郷へ帰る。それだけのつもりだった。
もちろん今も、そのつもりではいる。
治療院や教育の場がある。
町の人間がいる。
子供たちもいる。
自分には、帰る場所がある。
だが、予定されていた講師としての任期は、いつの間にか半分を過ぎていた。
「早いなあ」
まだ数日前まで、教壇に立つたびに緊張していた気がする。
教本の言葉が分からず、事前に調べ。
今の教え方と自分の考え方が違うことに戸惑い。
本当に自分が教えていいのかと何度も考えた。
それが今は。
次は何を見せよう。
どんな質問なら学生たちが考えてくれるだろう。
今日出た疑問を、次の講義で試してみても面白い。
そんなことを自然に考えている。
「……慣れると惜しくなるもんだな」
鞄を肩へ掛けながら、キリオンは誰に聞かせるでもなく呟いた。
教師という役割自体は、故郷でもしていた。
読み書きや計算を教える。
薬草の見分け方を教える。
それらは生活の一部だった。
だが、こうして錬金術そのものを学びたい人間へ、錬金術だけを教える。
それは思っていた以上に、楽しかったらしい。
「もう半分か」
少し残念だと思っている自分に気づき、キリオンは苦笑した。
「俺、結構気に入ってるんだな」
王都の暮らしではない。
豪華な学院でもない。
教壇に立つことを、だ。
十年以上前、自分はこの場所を去った。
当時の自分が今の姿を見たら、どう思うだろう。
そんなことを考えながら講義室を出たところで、別の予定を思い出した。
「あ、まずい」
今日は寄り道をしている場合ではない。
人と会う約束があった。
◇
約束そのものは、一週間ほど前に決まっていた。
正確には、レオナとの模擬戦の翌日である。
キリオンが筋肉痛に顔をしかめながら朝食を取っていたところへセレスがやってきて、妙に改まった口調で言ったのだ。
『先生』
『何?』
『私とも食事をしてください』
『いいよ』
『……即答ですか?』
『食事だろ?』
『はい』
『何で断ると思ったの?』
そこでセレスはしばらく黙り。
『では、来週』
それだけ言って帰っていった。
キリオンにはよく分からなかった。
ただ、レオナと食事をしたことを妙に気にしていたので、そういうことなのだろう。
幸い、今日の午後は講義がない。
指定された店も学院からそれほど遠くなかった。
「ここか」
王都の中心部に近い通り。
以前レオナに連れていかれた店より、明らかに格式が高い。
入口には飾り気こそ少ないが、建物そのものが立派だった。窓越しに見える店内も落ち着いていて、客の服装もどこか上品に見える。
「……高そう」
キリオンは自分の財布を思い浮かべる。
一応、講師としての報酬は出ている。
だが。
「セレスの普通も信用できないんだよなあ」
「何が信用できないのですか?」
「うわっ」
横から声を掛けられ、キリオンは振り向いた。
セレスが立っていた。
仕事用の服装ではあるが、宮廷で会う時ほど堅苦しくはない。それでも姿勢や身なりは整っていて、いかにも彼女らしい。
「びっくりした」
「先ほどから何を見ていたのです?」
「店」
「店?」
「高そうだなって」
「……先生」
「何?」
「今日は私がお誘いしました」
「うん」
「当然、私が持ちます」
「いや、それは悪いだろ」
「悪くありません」
「でも」
「先生」
「はい」
「私が持ちます」
「……はい」
有無を言わせない声だった。
ただ、その直後。
セレスの表情が少し柔らかくなる。
「では、入りましょう」
「嬉しそうだな」
「当然です」
「飯だけだぞ?」
「分かっています」
そう答えたセレスは、確かに嬉しそうだった。
昨日の夜にでも楽しみにしていたのではないかと思うくらい、ほんの少しだけ足取りも軽い。
けれど。
「……ん?」
店へ入る彼女の背中を見ながら、キリオンは小さく首を傾げた。
何となく、それだけではない気がした。
◇
案内されたのは、やはり個室だった。
「みんな個室が好きだな」
「誰と比べているのですか?」
「いや」
「レオナですか?」
「何で分かった?」
「…………」
「ごめん」
「別に怒っていません」
「怒ってるじゃん」
「怒っていません」
料理を選ぶ時にはいつものセレスだった。
キリオンが値段を見て固まれば「気にしないでください」と言い、量が分からず迷っていれば適当に見繕って注文する。
酒については互いに控えめにした。
「先生、先日の模擬戦でまだ身体が痛いのでは?」
「何で知ってるんだ?」
「レオナから聞きました」
「お前ら連絡取るんだ?」
「必要があれば」
「仲が悪いのに?」
「仲が悪いことと、情報共有は別です」
「大人だなあ」
「先生よりは」
「俺四十だぞ」
「そういう意味ではありません」
最初の料理が届く。
焼いた白身魚に、薄く切った野菜。
それを口へ運びながら、キリオンはセレスの話を聞いていた。
宮廷での仕事。
学院との打ち合わせ。
最近採用された魔法薬。
王都周辺で新しく建設される施設。
話題は尽きない。
セレスはもともと話し上手だ。
必要な情報を整理して説明するのも上手い。
だから余計に、気になった。
「セレス」
「はい」
「セレス」
「はい……?」
「疲れてる?」
「……どうしてです?」
「何となく」
「仕事は普段通りです」
「寝てる?」
「寝ています」
「何時間?」
「先生」
「何?」
「保護者のような聞き方をしないでください」
「すまん、昔の癖で」
セレスは少しだけ笑った。その反応を見る限り、少なくとも体調が悪いわけではなさそうだった。
「問題ありません」
「そう?」
「はい」
そう答えて、また料理へ手を伸ばす。けれど、キリオンはすぐに違和感を覚えた。
やはり、どこかおかしい。
セレス自身は楽しそうにしている。自分から誘った食事なのだから、それは本当なのだろう。
それでも、会話の途中で何度か意識が別の場所へ飛んでいる。
キリオンが話している最中に視線が少し下がり、そのまま数秒止まる。聞いていないわけではないらしく、声を掛ければすぐに戻ってくる。
料理を取ろうとした手が止まることもあった。
飲み物もほとんど減っていない。
昔から、セレスは考え込むと食事が遅くなる子だった。
十五、六の頃。
調合で上手くいかないことがあると、パンを手に持ったまま十分近く固まっていたこともある。
「セレス」
「はい?」
「今、仕事のこと考えてた?」
「……」
返事が少し遅れた。
それだけで十分だった。
「やっぱり」
「先生」
「何かあった?」
「いえ」
「あるだろ」
「ありません」
「じゃあ、さっきから何回も食事止まってるのは?」
セレスが目を瞬く。
「見ていたのですか?」
「見てたっていうか、目についた」
キリオンはテーブルの上へ視線を落とした。
「最初に魚を少し食べてから、ほとんど減ってない。それに飲み物も最初の一口からほとんど手をつけてない」
セレスも自分の杯を見る。
確かにほとんど減っていなかった。
「別に、体調が悪いわけでは」
「それは分かる」
「分かるのですか?」
「顔色は悪くないし、受け答えも普通だし」
セレスは何も言わない。
キリオンは続けた。
「でも、何か考えてる。昔と同じだね」
その一言で、セレスの表情が少しだけ緩んだ。
「……先生は、そういうところ本当に変わりませんね」
「何が?」
「人が隠していることを、妙なところから見つけるところです」
「隠してたの?」
「少し」
「じゃあ当たってた」
「嬉しそうにしないでください」
「いや、体調悪いよりはいいだろ」
キリオンは水を一口飲んでから、改めてセレスを見る。
「で、何があった?」
セレスはしばらく答えなかった。
視線を落とし、指先で杯の縁をなぞる。
「先生」
「うん」
「これは、私自身が解決すべき問題です」
「ふむ」
「国の技術に関わります」
「うん」
「ですから、本来なら先生にお話しするようなことではありません」
「なら無理に聞かないよ」
キリオンはあっさり引いた。
セレスが顔を上げる。
「……聞かないのですか?」
「言えないんだろ?」
「そうですが」
「じゃあ仕方ない」
少しだけ間を置いてから、キリオンは続けた。
「ただ、困ってるなら、話せる範囲で話せばいい。俺に解決できるかどうかは知らないけど」
「先生」
「何?」
「それを言われると、話したくなります」
「なら話してもいいんじゃないか?」
「簡単に言いますね」
「昔からそうだったろ」
「……そうでした」
セレスが深く息を吐く。
そして、ようやく口を開いた。
「大規模金属製錬技術」
「うん?」
「ご存じですか?」
「……うーん、名前だけなら」
「私が中心となって確立した技術です」
「ああ」
昨夜。
レオナと口喧嘩をしていた時にも聞いた。
「国を挙げてやったやつだろ?」
「はい」
セレスが頷く。
「従来、一部の特殊金属は小規模な炉でしか安定して精錬できませんでした。設備を大きくすると温度差や魔力密度の偏りが生じ、品質を一定に保てなかったからです」
「それを大型化した?」
「はい。炉の内部を複数の反応区画に分け、それぞれの温度、触媒、魔力供給を独立して調整することで、大量の鉱石を同一品質まで精錬できるようにしました」
「すごいな」
「さらに工程を簡略化した方式も作り、王国内の複数施設へ導入しています」
「それが汎用化?」
「そうです」
キリオンは素直に感心した。
小規模でしかできなかったものを大規模化する。
言葉にすれば簡単だが、実際には反応量が増えれば、熱も魔力も素材の状態も大きく変わる。
「相当大変だっただろう」
「三年かかりました」
「三年」
「正式稼働してからも、さらに改良を続けています」
「へえ」
「今では軍用装備だけではなく、建築資材、魔法工学用の部品、農具などにも使われています」
「じゃあかなり重要なものだね」
「重要です」
そこで、セレスの声が少しだけ重くなった。
キリオンもすぐにそれに気づく。
「……そこ?」
「はい?」
「悩んでるの、その大規模金属製錬のことだろ」
セレスが黙った。
「何かあった?」
しばらく沈黙が続く。
個室の外から、遠く誰かの話し声だけが聞こえていた。
やがてセレスが、ようやく口を開く。
「品質が維持できなくなりました」
キリオンの表情が変わった。
「いつから?」
「最初に異常が確認されたのは六日前です」
「最近だな」
「はい」
「一つの施設?」
「いいえ」
「複数?」
「……はい」
キリオンの目が少し細くなる。
「同じ症状?」
「完全に同じではありません。ですが、最終製品の品質低下という点では共通しています」
「どのくらい?」
「現時点では、規格を外れるものが急激に増えています」
「急に?」
「はい」
「それまで問題なく?」
「少なくとも、直前までは通常値でした」
セレスは言葉を選んでいる。
話せる範囲と、話せない範囲を見極めながら説明しているのが分かった。
「原因は?」
「調査中です」
「炉は?」
「確認済みです」
「原料は?」
「調査しています」
「触媒は?」
「同じく」
「魔力供給は?」
「異常は確認されていません」
「術師や技術者は?」
「品質の低下は、複数施設で同時期です」
「……なるほど」
キリオンは少し考えた。
そして、セレスを見る。
「それで食事中も考えてた?」
「……はい」
「責任者がセレスなの?」
「はい、そうです」
「そりゃ考えるな」
「私が作った技術です」
その声には、いつもの自信がなかった。
「私が国へ導入を進めました。安全だと、安定していると、そう判断したのも私です」
セレスの指が、膝の上で強く握られる。
「もし、この技術そのものに問題があるのなら」
「セレス」
「私は」
「セレス」
もう一度呼ぶと、セレスが止まる。
「まだ分からないんだろう?」
「……はい」
「じゃあ、自分のせいって決めるのは早い」
「ですが」
「原因も調べている途中だ」
「はい」
「なら、そこからだよ」
キリオンはいつものように言った。
「失敗した時は、失敗を見る」
セレスが目を開く。
「先生」
「何?」
「……それ、講義でも言っているのですか?」
「言ってるな」
「そうですか」
セレスが少しだけ笑った。
「変わりませんね」
「そう?」
「はい」
ただ、その表情はすぐに戻る。
「ですが今回は、規模が違います」
「だろうな」
「設備も、工程も、関わる人間も多い。そして、先生が今まで見てきたような小規模な錬成とは違います」
「そうだろうな」
「ですから」
セレスは少し言いにくそうに言葉を止めた。
「お話ししても、先生には」
「分からないかも?」
「……」
「いいよ」
「先生」
「実際、見てないし」
キリオンは気にした様子もなく笑った。
「話だけじゃ、俺も何とも言えない」
セレスが顔を上げる。
「実際に見れば?」
「どうだろうなあ」
「先生」
「何?」
「じゃあもし」
セレスは少しだけ身を乗り出した。
「じゃあもし、その実地を見ていただけるとしたら、どうでしょうか」




