第十七話 先生、一戦お願いします
講義室の扉の向こうから、教授の声が聞こえていた。
どうやら前の講義は、まだ終わっていないらしい。
キリオンは廊下の壁へ背を預け、手にしていた教本をぱらぱらとめくった。
今日扱う箇所には昨夜のうちに目を通してあるし、補足したい部分も紙にまとめてある。
だからといって、他にやることがあるわけでもない。
「早く来すぎたな……」
昨日も似たようなことをした気がする。
遅れるよりはいいと思って早めに宿舎を出たのだが、さすがに二十分近く前から講義室の前にいる必要はなかった。
仕方なく教本を閉じる。
その途端、別のことが頭へ浮かんだ。
「……なんだったんだろう、あれ」
昨夜の光景である。
セレスとレオナ。
会った瞬間は、今にも喧嘩を始めそうな空気だった。実際、言葉だけならかなり喧嘩に近かったと思う。
それなのに最後には、二人して自分のことを褒め始めた。
しかも、なぜか笑っていた。
「仲悪いんだよな?」
本人たちは揃ってそう言っていた。
ならば、あの妙な一体感は何だったのか。
キリオンにはよく分からない。
「女同士って難しいな……」
「何が難しいんですか?」
「うわっ」
すぐ横から声を掛けられ、キリオンは肩を跳ねさせた。
見ると、学院の制服を着た男子学生が立っている。
「すみません。驚かせました?」
「いや、大丈夫。ちょっと考え事してただけ」
「今日も先生の講義ですよね?」
「そうだけど」
顔を見る。
どこかで見た気がする。
少し考えてから、ようやく思い出した。
「たしか君は、前回の講義にもいたよね?」
「はい!」
学生の顔が明るくなる。
「覚えてたんですか?」
「顔だけな。名前はまだごめん」
「十分です」
「そう?」
「五十人くらいいたのに」
「まあ、前の方にいたから」
確か、途中で何度か質問してきた学生だった。
今日は別の学生が中心になると聞いていたが、彼はわざわざもう一度受けに来たらしい。
「同じ内容になるところもあるぞ?」
「それでも聞きたかったので」
「物好きだな」
「面白かったですから」
思いがけない言葉だった。
「面白かった?」
「はい」
「俺の講義?」
「先生のです」
聞き間違いではなかった。
キリオンは少しだけ照れ臭くなり、眼鏡の位置を直す。
「そう言ってもらえるなら嬉しいけど」
「前の講義の後、結構話題になってましたよ」
「……何が?」
「先生が」
「嫌な予感しかしない」
学生が笑う。
「『答えを教えてくれない講師が来た』って」
「悪口?」
「違いますよ」
「本当に?」
「そのあとに、『でも考えさせられる』って続きます」
「ならいいけど」
キリオンとしては、別に奇抜な講義をしたつもりはない。
ただ、正しい手順を覚えるだけでなく、その理由も考えてほしいと思っただけだ。
それが学生たちには、珍しく映ったらしい。
話しているうちに、さらに何人かの学生が廊下へやってきた。
見覚えのない顔が多い。
今回初めて受講する者たちだろう。
「……あの人?」
「そう」
「セレスティア主席の先生って」
聞こえている。
キリオンは何となく視線を逸らした。
すでに、その情報はかなり広がっているらしい。
王都へ来る前は、自分がセレスの師であることなど、せいぜい一部の人間しか知らないと思っていた。
ところが本人が堂々と口にした。
しかも宮廷主席錬金術師という肩書きが大きすぎる。
結果として。
「思ったより有名になってない?」
「今更ですか?」
さっきの学生が笑う。
「今更って」
「昨日から結構噂ですよ」
「昨日?」
「あと」
学生が少し声を落とす。
「レオナ・ヴァルグレイブ先生の師匠でもあるって、本当ですか?」
「……それも広がってるの?」
「一部だけですけど」
「早いなあ」
昨日、体育館に残っていた学生や講習生はそれなりにいた。
口止めなどしていない以上、広まるのは当然かもしれない。
「本当なんですか?」
「まあ、昔少し教えた」
「少し?」
「基礎だけ」
「セレスティア主席にも同じこと言ってるって聞きました」
「誰から?」
「噂です」
「怖いな、学院」
学生たちが笑う。
ちょうどその時、講義室の扉が開いた。
前の講義を受けていた学生たちが一斉に出てくる。
「じゃあ、そろそろ入るか」
「はい」
キリオンも教本を持ち直し、講義室へ入った。
◇
講義が終わった頃には、キリオンの喉はすっかり乾いていた。
今回の学生は前回とかなり入れ替わっていたため、最初は少し固い空気だった。それでも講義を進め、途中から問いを投げるようになると、次第に自分から手を上げる者が増えていった。
前回の講義を受けた学生も数人混じっていたからか、考えて答えるという流れにも馴染むのが早かった。
「じゃあ今日はここまで」
鐘が鳴り、キリオンが教本を閉じる。
「次回までに教本の続きは読んでおいて。全部覚えなくていいけど、疑問に思ったところがあったら印つけといてくれ」
「質問するためですか?」
「そう。俺が答えられなかったら、一緒に調べよう」
「また先生に宿題出せる?」
「それはやめて」
笑い声が起こる。
前回より。
少しだけ。
やりやすい。
そんな感覚があった。
学生たちが帰り支度を始める。
「面白かったね」
「聞いてた通りだった」
「なんで、って言われると意外と答えられない」
「次も受けようかな」
そんな声も聞こえてきた。
キリオンは聞こえないふりをしながら教本を鞄へしまった。
口元が少し緩んでいたのは、自分でも分かっていた。
◇
講義を終えたキリオンが向かったのは、昨日と同じ体育館だった。
本当なら、レオナの講習が終わったら声を掛けて、そのまま昼食でも一緒に取るつもりだった。
昨日の続きを聞きたい。
武装錬金についても興味がある。
何より、十年以上離れていたのだから、まだ話していないことはいくらでもある。
「……いるな」
体育館へ入ると、ちょうど実技講習の最中だった。
キリオンは昨日よりも後ろの席を選び、目立たないよう静かに腰掛けた。
レオナに先に見つかると、講習中でもこちらへ来かねない。
さすがに邪魔はしたくなかった。
演習場では、数人の学生が実戦形式の訓練を行っている。
昨日より基礎的な内容らしい。
「そこで止まるな!」
レオナの声が飛ぶ。
「錬成して満足するな! 相手見ろ!」
「はい!」
「壁作ったなら次考えろ! 壁は作って終わりじゃない、相手の進路を制限するために使え!」
厳しい。
昨日、酒を飲みながら泣いていた人間と同一人物とは思えない。
「……切り替えすごいな」
キリオンは感心しながら眺めていた。
技術だけではない。
教え方も悪くない。
指摘は厳しいが、何が悪かったのかを明確に伝えている。
学生がもう一度同じ動きをする。
今度は壁の位置を変え、相手の逃げ道を狭めた。
「そう! 今のはいい!」
褒める時は素直に褒める。
その一言で、学生の顔が明るくなる。
「先生やってるなあ」
何となく。
嬉しくなった。
しばらくして講習終了の鐘が鳴る。
「今日はここまで! 使った錬成具は必ず自分で点検してから返却! 異常あったらそのまま戻すなよ!」
「はい!」
「解散!」
学生たちが一斉に動き始めた。
キリオンはまだ立たない。
レオナも忙しそうだった。
学生から質問を受け、器材の確認をし、講習の補助をしていた職員とも話している。
邪魔する必要はない。
そのうち体育館に残る人数は少しずつ減っていった。
学生。
外部参加者。
職員。
一人、また一人と出ていく。
「そろそろかな」
キリオンが立ち上がろうとした時だった。
「先生」
「うわっ」
すぐ下から声がした。
見る。
レオナがいる。
「いつ気づいた?」
「結構前」
「じゃあ何で声掛けなかったんだよ」
「先生、隠れてたから」
「隠れてない。静かに見てただけ」
「同じじゃん」
「違うだろ」
レオナは笑いながら階段を上がってくる。
「今日も見てた?」
「見てたよ」
「どうだった?」
「教え方うまいな」
「そっち!?」
「何期待してた?」
「技術!」
「それも見た」
「で?」
「上手かった」
「先生、昨日から感想雑じゃない?」
「じゃあもっと細かく言う?」
「言って!」
「飯食いながらでいいだろ」
「あ」
レオナの顔が明るくなる。
「行く?」
「そのつもりで来た」
「じゃあ」
言いかけて。
レオナが止まった。
「その前に」
「何?」
「先生」
笑顔が変わった。
キリオンはなんとなく、嫌な予感がした。
「一戦やろ」
「……何で?」
「アタシの成長、ちゃんと見てほしい」
「今見たじゃん」
「講習じゃなくて!」
「昨日模擬戦も見た」
「先生相手にやりたい!」
「嫌だよ」
即答した。
「何で!」
「疲れるから」
「まだ昼じゃん!」
「俺、この前まで田舎で薬作ってた四十歳だぞ?」
「関係ない!」
「あるだろ」
「先生は先生!」
「便利に使うな、その言葉」
レオナは引かない。
「お願い!」
「嫌」
「一回だけ!」
「嫌」
「胸貸して!」
「飯の約束だけじゃ」
「その前!」
「腹減って力が出ないかも」
「終わったら奢る!」
「昨日も食っただろ」
「今日も!」
「金の問題じゃないんだよ」
しばらく押し問答が続いた。
そしてキリオンは、結局折れた。
「……本当に一回だけだからな」
「やった!」
「元気だなあ」
「先生と戦えるんだよ!? そりゃ元気になる!」
「俺は元気なくなってきた」
レオナはすぐに演習場へ降りていく。
その背中を見ながら。
キリオンは。
小さくため息をついた。
「飯食いの約束を確認しに来ただけだったんだけどな……」
どうしてこうなった。
◇
「ここ使えるの?」
「講習後は次の予約が入ってないから大丈夫」
体育館の中央。
先ほどまで学生たちが訓練していた試合会場に、二人は立っていた。
すでに観客席には誰もいない。
いるのは体育館のメンテナンス担当と思しき数名の大人だけ。
「でもなあ」
キリオンは周囲を見る。
「何?」
「やるなら、もう少し野生に近いところがいいな」
「駄目」
「即答?」
「それじゃアタシが勝てない」
「……はい?」
「先生、周りのもの全部使うじゃん」
「それ、武装錬金の祖が言う?」
「先生から教わったんだから分かるよ!」
「でもここだって床とか壁あるぞ」
「外よりマシ!」
「不公平じゃない?」
「胸借りる側なんだから、このくらい許して!」
「理屈が分からん」
レオナとしては本気らしい。
野外、森、街道、岩場。
自然環境になればなるほど、キリオンが何をするか分からない。
少なくともレオナは、そう思っているらしい。
「俺、そんな大したことしないぞ」
「先生がそう言う時は信用できない」
「酷くない?」
「昔から見てるから」
「昔の話だろ」
「だからブランク込みで胸借りるの!」
「ブランクって認めるんだな」
「十年以上でしょ?」
「まあ」
実戦らしい実戦から離れてかなり経つ。
故郷へ戻ってからも、魔物対応が全くなかったわけではない。
ただ、旅をしていた頃とは明らかに違う。
「あと」
キリオンはレオナを見る。
「何?」
「近接戦はなしな」
「ええ!?」
「何で不満そうなんだよ」
「先生とやるなら全部やりたい!」
「昨日見たけど、お前今かなり近接強いだろ」
「うん」
「俺は四十歳」
「また歳!」
「重要だって」
「先生も昔は普通に――」
「昔の話」
キリオンが遮る。
「肉弾戦とか武術戦まで今のお前に付き合ったら、普通に身体壊す」
「…………」
「そこは分かるだろ?」
レオナは少し考える。
そして昨日。
キリオンの肩を軽く叩いただけで、痛いと言われたことを思い出した。
「……それは確かにしょうがないな」
「納得した?」
「うん」
「ならよし」
「じゃあ錬金術だけ」
「それなら」
「武装錬金対、先生の錬金術!」
「勝手に名前つけるな」
レオナは楽しそうに演習場の反対側へ歩いていく。
腰の装備を確認する。
触媒。
錬成具。
精錬済みの金属素材。
一つずつ。
丁寧に。
いつもの彼女なら、細かい確認はあまり好きではない。
だが今日は、別だ。
「先生」
「何?」
「手加減しないでね」
「いや、模擬戦だからな?」
「分かってる」
「怪我なし」
「努力する」
「努力じゃなくて」
「先生もね」
「俺?」
「怪我したくなかったら、本気でやって」
「怖いこと言うなあ」
キリオンは苦笑しながらも、レオナが準備を始めると自然に演習場へ視線を巡らせた。
床は石材。ただし通常の石床よりかなり硬く、武装錬金の実技に耐えられるよう強化処理が施されている。壁も同様で、柱には金属による補強が入り、天井は十分に高い。観客席までは距離があり、出入口は正面と左右にいくつか。
そこまで確認したところで、キリオンはふと気づいた。
「……懐かしいな」
自分でも意識していなかった。
戦う前に周囲を見る癖。
旅をしていた頃は、どこへ行ってもまずそれをやっていた。
森なら木の位置を見る。岩場なら足元と斜面を見る。町なら建物と路地の幅を確認する。街道なら、逃げる方向と隠れられる場所を探しておく。
そして、そこに何があるかを見る。
土。
石。
木。
金属。
水。
何かあった時、自分が使えるものはどれか。
逆に、相手に使われれば厄介なものは何か。
キリオンはゆっくり歩き、靴底で床を二度ほど軽く叩いた。
「硬いな」
当然だ。
武装錬金の訓練場なのだから、簡単に壊れてもらっては困る。
次に壁へ近づき、手のひらを当てる。表面の材質を確かめ、指先で軽く叩いてから、その奥に入っている補強材へ意識を向けた。
「先生?」
「ん?」
「何してんの?」
「会場見てる」
「それは見れば分かるけど」
レオナは装備を確認する手を止め、嫌そうにキリオンを見る。
「……やっぱ外じゃなくて良かった」
「何で?」
「何でもない!」
キリオンは首を傾げた。
何もおかしなことはしていない。
戦うなら、まず場所を見る。
それだけだ。
だが、そう思ったところで、もう一つ妙な感覚に気づいた。
「……ああ」
少しだけ。
本当に少しだけ、頭が切り替わっている。
さっきまでは、昼飯のことを考えていた。レオナと何を食べようか、昨日とは違う店にするか、その程度だった。
それが今は、目の前の床を見れば壊せる場所と壊しにくい場所を考え、柱を見ればどちらへ倒れるかを考えている。レオナとの距離を測り、彼女が腰につけた錬成具へ何度となく視線を向けている自分がいた。
右に三つ。
左に二つ。
腕にも一つ。
昨日の講習で見たものと同じなら、全部が同じ用途ではない。
「……癖って残るもんだな」
小さく呟く。
十年以上、こんなふうに誰かと向かい合ってはいない。
故郷でも魔物を追い払う程度のことはあったが、わざわざ戦う必要のある相手などほとんどいなかった。薬を作り、怪我人を診て、畑を見て、子供に勉強を教える。それが今のキリオンの日常だ。
だから、自分でもどれくらい動けるのかは分からない。
足は昔より遅いだろう。
体力も落ちている。
反応だって、若い頃と同じとは思わない方がいい。
「無理はしないようにしないとな」
そう呟きながら、今度は演習場の中央からレオナの立つ位置を見る。
距離。
十数歩。
レオナなら、詰めようと思えばすぐに詰められる。
今回は近接戦なしという約束だから、その心配は必要ない。代わりに警戒するべきなのは、彼女が最初に何を錬成するか。
床か。
武器か。
それとも、こちらの動きを制限する何かか。
考えたところで、キリオンは少し笑った。
「いやいや」
まだ始まってもいない。
それなのに、勝手に相手の初手を考えている。
昔なら当たり前だったことが、今となってはひどく懐かしい。
怖くないわけではない。
身体がどこまでついてくるか分からない以上、不安もある。
それでも。
「……ちょっとだけ、楽しみになってきたな」
昔の自分が、まだどのくらい残っているのか。
それを確かめてみたい気持ちはあった。
キリオンはもう一度だけ床を見て、壁と柱、それからレオナまでの距離を確かめる。
最後に左右の出入口へ視線を送り、ようやく演習場の中央へ戻った。
「よし。こんなもんか」
「準備できた?」
「一応」
「錬成具は?」
「持ってないよ。武装錬金を知ったのは昨日のことだしね」
「じゃあ、戦闘用の素材は?」
「ない」
レオナは数秒黙ってから、露骨に嫌そうな顔をした。
「先生」
「何」
「そういうところだよ」
「何が?」
「何でもない!」
キリオンとしては、本当に何のことか分からなかった。
そんなキリオンの困惑をよそに、レオナは深く息を吸った。
目つきが変わる。
先ほどまで、先生先生と慕っていた顔から、笑顔が消える。
武装錬金の祖、超一流の冒険者、レオナ・ヴァルグレイブ。
その顔になる。
「先生」
「うん」
「ブランクがあっても」
構える。
「先生は先生だから」
「重いなあ」
「胸を借りるつもりで行く」
「……そうか、じゃあ」
キリオンも少しだけ、姿勢を変えた。
構えと呼べるほど大げさなものではなく、両手を自然に下げたままだ。
「いつでも」
レオナが笑う。
「言ったね」
訓練用の装置が作動し、二人の周りに不可視の防護膜が展開されていく。
防護膜が二人を包んで直後、試合開始の合図が響いた。




