↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
12/20

第十二話 なぜ?

 講義開始まで、まだ三十分ほどあった。


 誰もいない講義室の教壇に立ち、キリオンは一人で学生席を見渡していた。


「……思ったより遠いな」


 昨日は緊張と、後方の席から眺めていたから頭になかったが、教壇に立ってみると最後列までかなり距離がある。

 町の勉強会で使っていた部屋とは比べものにならない広さだと、改めて思う。


 今日、その全員が自分を見る。そう考えた瞬間、妙に喉が乾いた。


「最初に挨拶して……いや、挨拶は昨日したか」


 キリオンは教卓に置いた紙へ視線を落とした。昨夜まとめた、簡単な講義の流れだ。


 本来なら今日から担当する範囲へそのまま入ればいい。マグヌス教授とも内容は調整済みで、教本のどこからどこまでを扱うかも決まっている。


 ただ、その前に少しだけ時間を使いたかった。


「昨日のあれを先にやって……それから本題」


 声に出して確認する。誰もいない教室なら、多少間違えても恥ずかしくない。


「じゃあ皆さん、教本の……」


 そこで止まる。


「……皆さん?」


 なんとなく固い。


「今日は……」


 これも違う気がする。


 町の子供たち相手なら、こんなことは考えない。席につかせて、その日の内容を始めるだけだ。


 だが、相手は王都学院の学生である。年齢は十八歳前後が中心で、少なくとも読み書きを覚え始めた子供たちではない。


「普通でいいか」


 結局、それしか思いつかなかった。


 昨日セレスにも言われた。いつも通り教えればいい、と。


 もっとも、町で教えている子供たちと同じように扱ったら、それはそれで怒られそうではある。


「今頃、何してるかな」


 何気なく窓の外を見る。


 王都の朝。校舎の間を学生たちが歩いている。


 故郷では、そろそろ畑へ出ている頃だろうか。

 農家のおじさんは、この前話した畑の様子を見ているかもしれない。

 鍛冶屋のおやっさんは、朝から炉を焚いているだろう。


 そして子供たちは――。


「……今日、勉強会の日じゃないか」


 キリオンは少しだけ眉を下げた。


 もちろん、代わりに教えてくれる者がいることは聞いている。一か月くらいなら問題ないと、町の人たちにも言われた。


 だが、十年間続けてきたものを急に休むと、やはり妙な気分になる。


「帰ったら王都の話しろって言ってたな」


 何を話せば喜ぶだろう。


 王宮。学院。大きな市場。それに、見たこともない魔道具。


 きっと全部聞きたがる。


「先生、何笑ってるんですか」


「うわっ」


 突然後ろから声がして、キリオンは肩を跳ねさせた。


 振り返ると、若い男が立っていた。二十歳を少し過ぎた程度だろうか。

 学院の研究者がよく着ている白い上着を身につけ、両手には紙の束を抱えている。


「すみません。驚かせましたか?」


「いや、大丈夫」


 キリオンは眼鏡を直した。


「君は?」


「マグヌス教授の研究室に所属しております。今日は先生の講義内容を記録し、後ほど教授へ報告するよう言われています」


「ああ」


 監視、という言葉が一瞬浮かんだが、さすがに口には出さない。


「よろしく」


「こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 若い研究者は丁寧に頭を下げると、講義室の端に用意された席へ移動した。机の上には紙と筆記具が並べられ、かなり本気で記録するつもりらしい。


「……緊張するな」


「何か?」


「いや、何でもない」


 そうこうしているうちに、学生たちがぽつぽつと入り始めた。


 最初に来た数人は、教壇にキリオンがいることに気づくと少し驚いた顔をした。


「おはよう」


「お、おはようございます」


「今日は早いな」


「いつもこのくらいです」


「そうか」


 それだけのやり取りをして、学生は少し戸惑いながら席へ向かう。


 さらに一人、また一人と入ってきて、人数が増えるにつれ教室も少しずつ賑やかになっていった。


「今日からあの人だよな」


「主席の先生」


「どんな授業するんだろ」


「最新技術知らないって言ってなかった?」


「でもセレスティア主席が推薦したんだぞ」


 小声ではあるが、教壇にいると意外と聞こえる。


(……聞こえてるんだよなあ)


 キリオンは小さく呟いた。


 ただ、疑問を持たれるのは当然だと思う。自分自身、まだここで何を教えられるのか、完全には分かっていない。


 開始時間が近づく頃には、ほぼ全ての席が埋まっていた。


「……来ないな」


 キリオンが教室の入口を見る。


 誰を探しているのかは、自分でも分かっている。


「先生」


 後ろから、記録係の研究者が声を掛ける。


「そろそろ時間です」


「ああ」


 キリオンはもう一度だけ入口を見た。

 ……セレスはいない。


「仕事か」


 考えてみれば当たり前だ。宮廷主席錬金術師なのだから、暇なわけがない。


 昨日は必ず見に来ると言っていたが、何か急な用事でも入ったのだろう。少し残念な気持ちはあるものの、その方が緊張せずに済むかもしれない。


 そう自分に言い聞かせ、キリオンは教卓の前へ立った。


     ◇


「じゃあ、始めようか」


 鐘が鳴り終わると、教室はすぐに静かになった。五十人ほどの学生が一斉にこちらを見る。


「昨日も挨拶したから、今日は長い自己紹介はなしで」


 学生の何人かが少しだけ笑った。


「本来なら、今日から俺の担当範囲を始める予定なんだけど」


 キリオンは教卓の上に、いくつかの小瓶を並べた。昨日、セレスに買ってもらった材料だ。


「その前に、少しだけ時間をくれ。昨日の授業について話したい」


 学生たちの目が瓶へ向き、教室の空気が少し変わる。


「マグヌス教授の授業、俺も後ろで聞いてたから」


 黒板へ向かい、昨日の内容を簡単に書いていく。


『月白草』

『紅根草』

『灰晶粉』

『翠葉草』


「この手順、覚えてる?」


 前列の学生が頷く。


「はい」


「じゃあ、この順序で錬金すると、どうなる?」


 キリオンは紅根草の位置を先頭へ移した。


「失敗します」


 すぐに声が返ってくる。


「うん。なんで?」


 教室が静かになった。


 誰も答えない。


 キリオンは急かさず、少し待った。


「薬効成分が十分に抽出されないためです」


 一人が答えた。


「うん」


「規定品質を下回ります」


「それも正しい。で、なんで薬効成分が十分に抽出されない?」


 学生たちの顔が少し変わる。


 一人が教本を開こうとした。


「別に教本を見てもいいよ」


「え?」


「テストではないし、駄目って言ってないからね」


 ページをめくる音があちこちから聞こえた。何人もの学生が該当箇所を見るが、そこに今の問いへの答えは書かれていない。


「……月白草を先に入れないから」


「うん」


「その……月白草を先に入れないと、反応が……」


「どうなる?」


「不安定に」


「昨日の失敗例は、灰晶粉を先に入れた場合が反応不安定だったな」


「あ」


「じゃあ、紅根草だけを先にした場合は?」


 再び沈黙が落ちる。


 キリオンは責めるつもりなどなかった。むしろ、この反応を昨日から想像していた。


「分からないなら、分からないでいいよ。俺も昨日まで分からなかったから」


「……先生も?」


「うん」


「でも、教本には」


「失敗するって書いてある」


「はい」


「だから昨日、試した」


 教室がざわめいた。


「試した?」


「実際に?」


「うん」


 キリオンは机の下から、昨日作った瓶を数本取り出した。


「これが、昨日実際に作ったやつだよ」


 成功品。教本通りの失敗品。そして、温度を変えたもの。それぞれの液体は僅かに色が違っている。


「まず、これが教本通り。次が紅根草を先にした失敗品。それから三つ目が、紅根草を先にしたけど温度を下げたもの」


 学生たちが前のめりになる。


 キリオンは三つ目の瓶を光へ翳した。


「これは規定品質にかなり近いところまで戻った」


 ざわめきが大きくなる。


「え?」


「失敗するはずじゃ」


「順番違うのに?」


 後方では、記録係の研究者の手まで止まっていた。


「先生」


「はい」


「教本では、その順番では品質が低下すると」


「書いてあるな」


「では……」


「間違い?」


 キリオンがその言葉を先に口にした。


 学生たちが黙る。


「多分、違うよな。教本は間違ってない」


 それを聞いて、少しだけ空気が落ち着いた。


「教本通りの条件なら、紅根草を先に入れれば確かに失敗する」


 黒板へ『温度』と書き、その隣に『順番』と記す。


「でも、順番だけが原因じゃなかった」


 その二つを線で繋ぐ。


「じゃあ、何でだと思う?」


 また問いを投げる。


 だが今度は、先ほどとは少し違った。


 学生たちが考えている。


 教本を見る者。黒板を見る者。隣と小声で相談する者。


「温度が高すぎる?」


 一人が答えた。


「うん。じゃあ、何に対して?」


「紅根草」


「どうなる?」


「成分が……壊れる?」


「多分」


 キリオンは笑った。


「俺もまだ、多分ってところだけどな」


 学生が驚いた顔をする。


「確定していないのですか?」


「してないよ。昨日一日試しただけだぞ」


「でも……」


「分からないものを、分かったって言う方が駄目だろ」


 教室の後ろで、筆記具が再び動き始めた。


「今のところ分かってるのは、紅根草だけが先に入った状態で教本通りの温度まで上げると、欲しい成分の一部が減る。でも温度を下げると、その減り方が小さい」


「ということは」


 学生の一人が声を出す。


「先に月白草が入っている時は、紅根草の成分が高温でも残りやすくなる?」


「その可能性はある」


「月白草が保護している?」


「それも考えられる」


「じゃあ灰晶粉も?」


「いいね」


 キリオンの表情が少し明るくなる。


「じゃあ、そこも見てみよう」


     ◇


 本来、学生に実技をさせる予定はなかった。


 というより、させられない。


 外部講師としての初日で、しかも授業計画にはない実験だ。学生五十人にいきなり材料を扱わせるなど、さすがにマグヌス教授に怒られるだろう。


「だから今日は俺がやる」


 キリオンは実験用の机へ移り、学生たちへ向き直った。


「危険なものは使わないけど、勝手に真似しないように」


「はい」


「あと、結果が教本と違っても教本燃やしたりしないように」


 笑い声が起きる。


「燃やしません」


「ならよし」


 昨日と同じ材料を机へ並べた。月白草、紅根草、翠葉草、灰晶粉、水。


「誰か、教本通りの順番を言って」


「月白草を抽出」


「うん」


「紅根草を加える」


「次」


「温度を維持しながら灰晶粉を加える」


「最後に翠葉草を加え、魔力を一定量流します」


「正解」


 キリオンは実際にその手順で進めていく。薬草を取り、水を加え、火にかける。


「先生」


 学生の声が飛んだ。


「はい、どうしました?」


「計量器、使わないのですか?」


 学生が困ったように指差した。


「紅根草、ですよね?」


「……ああ」


 キリオンはすでに、指先で必要量を取っていた。


「量りました?」


「量った」


「いつ?」


「今」


 教室が少しざわつく。


 キリオンは自分の手を見た。


「あ、これダメなやつ?」


「先生」


 後ろから、記録係の研究者が声を掛ける。


「規定量を目測で?」


「いや、うーん……」


 キリオンは少し困った。


「学生君たちは仕方ないけど、君なら分かるだろ?」


 沈黙。


「……分からない?」


 学生たちが顔を見合わせる。

 そこでようやくキリオンも気づいた。


「そうか。じゃあ、これは真似しないで。俺が慣れてるだけだ」


 今度はきちんと計量器へ乗せる。


 示された数値は、規定量とほとんど変わらなかった。


「ほら」


「合ってる……」


「ほぼ規定量」


「今ので?」


「静かに。俺まで緊張する」


 キリオンは笑いながら作業を続けた。


 まずは教本通りの成功品を作る。


 最後に魔力を流すと、指先に淡い光が灯り、液体へと染み込んでいった。


 そこで、教室の空気が少し変わった。


 先ほどまで学生たちは材料と手順を見ていた。


 今は、キリオンの手を見ている。


「……あれ」


「魔力、一定じゃない?」


「でも……動いてる?」


 後方の研究者見習いも、いつの間にか身を乗り出していた。

 彼は学生より少し多く錬金術を知っている。だからこそ、キリオンの魔力操作が教本通りではないことに気づく。


 一定量を一定時間、全体へ均等に流す方法ではない。


 強くしたかと思えば弱め、流す位置も僅かに変えている。


「先生」


 学生の一人が尋ねる。


「魔力量は一定では?」


「ん?」


 キリオンは作業を止めないまま答えた。


「規定だとそうだな」


「今は?」


「ああ。ちょっと反応強かったから減らした」


「……反応?」


「ビンの底から出ている泡。あと色」


 容器の一部を示す。


「今度出た時に見てみて」


 学生たちが一斉に容器を覗く。


「分からない」


「俺にも」


「どこ?」


「もう消えた」


「先生、もう一回!」


「無茶言うな」


 笑いが起きた。


 その間にも調合は進み、やがて完成した液体を瓶へ移す。


「はい、成功品」


 次は紅根草を先に入れる。


 同じ材料、同じ分量、同じ温度。

 変えるのは順番だけだ。


「どうなると思う?」


「失敗します」


「教本通りならな」


 実際に、完成した液体は濁った。


「はい、失敗。じゃあ次は温度を下げる」


 学生たちの目が変わっていた。


 今度は結果を知っているからこそ、その途中を見る。


 何が違うのかを、自分の目で探し始めている。


「……色が違う?」


「さっきより薄い?」


「泡も少なくない?」


「お」


 キリオンが反応する。


「今の誰?」


 一人の学生が恐る恐る手を上げた。


「泡が、先ほどより少ないように見えます」


「そう。その通りだね」


 キリオンは嬉しそうに頷いた。


 教室の空気がまた変わる。


 正解を当てたからではない。


 自分で違いを見つけたからだ。


「じゃあ、泡が少ないと何が違う?」


「反応が弱い?」


「何の?」


「紅根草の?」


「どうして?」


「温度が低いから」


「それで?」


 学生が言葉に詰まる。


「考えて。正解じゃなくていい」


 急かさない。


 学生たちは自分のノートへ何かを書き、隣同士で小さく話し始めた。


「分解が少ない?」


「別の成分に変わりにくい?」


「月白草がない状態だと、紅根草は熱に弱い?」


 色々な意見が出てくる。


 キリオンは一つずつ聞きながら、「あるかも」「それは試せる」「面白い」と返していった。


「じゃあ、どうやったら確認できる?」


 答えを否定しない。


 だが、簡単に正解とも言わない。


「先生」


 一人が手を上げた。


「結局、どれが正しいのですか?」


 キリオンは少し考えた。


「どうだろうね?」


「……はい?」


「分からないよ、今はね」


 教室が静かになる。


「でも、調べられる」


 キリオンは学生たちを見渡した。


「ここが大事だと思う」


 黒板へ向かい、大きく一文字を書く。


『なぜ』


「失敗する。だから、この方法は使わない。それでも薬は作れる」


 キリオンはそこで一度学生たちを見る。


「でも、なんで失敗した?」


 黒板を軽く叩く。


「それが分かれば、違う材料だったら、違う温度だったら、教本に載ってない組み合わせだったら――そういう時にも考えられる」


 教室の後ろで、研究者見習いの筆が止まらない。


「昨日のマグヌス教授の授業が間違ってたって言いたいわけじゃないからな。むしろ、すごく分かりやすかった」


 学生たちが少し笑う。


「正しいやり方を覚えるのは大事だ。まず成功させられるようになる。それは絶対必要」


 今度は真面目な表情で、黒板の『なぜ』を見る。


「その上で、たまにこれを考えてみてほしい」


 学生たちは何も言わない。


 ただ、先ほどよりも真剣な目でキリオンを見ていた。


「失敗した時、失敗だから捨てるんじゃなくて、なんで失敗したんだろうって」


 自分自身、町で何度もそうしてきた。


 薬草。畑。金属。薬。それに、人。


 思った通りにならないものばかりだった。だから見る。考える。そして試す。


「失敗って、結構色々教えてくれるから」


 キリオンは少しだけ笑った。


 誰かが、その言葉をノートへ書き留めた。


     ◇


 講義室の扉が静かに開いた。


 キリオンは気づいていない。学生たちも、ほとんど気づかなかった。


 後方にいた記録係の研究者見習いだけが、一瞬そちらへ視線を向ける。


 淡い金髪。宮廷の正装。


 セレスティアだった。


 彼女は研究者見習いと目が合うと、人差し指を口元へ当てて声を出さないよう示し、そのまま最後列の空いている席へそっと腰を下ろした。


 キリオンはまだ学生たちと話している。


「じゃあ、紅根草の成分が熱で変わるって仮定したら、どう確認する?」


「紅根草だけで加熱します」


「いいね」


「温度を段階的に変えて、試薬反応を見る」


「できる。他は?」


「月白草を先に入れた場合との比較」


「そう」


 セレスティアは何も言わず、その様子を見ていた。


 自然と口元が緩む。


 昨日、自室で先生がやっていたことと同じだった。


 どうして失敗する。

 何が違う。

 だったら試そう。


 その姿勢を、今度は学生たちへ渡している。


 答えそのものではない。


 考え方を。


「……先生」


 聞こえないほど小さな声で呟く。


 本当に、連れて来て良かった。

 そう思った。


 学生たちの表情は昨日とは明らかに違っている。

 マグヌス教授の講義では、正しい答えを必死に覚えていた。


 今日は、自分から答えを探そうとしている。


 どちらが優れている、という話ではない。


 マグヌス教授が正解を渡す。

 キリオンは疑問を渡す。

 その両方があっていい。


「セレスティア主席」


 横から記録係が小さく声を掛けた。


「お疲れ様です。いつからこちらに?」


「今来たところです」


「先生には?」


「まだです。そのままで」


「はい」


 研究者見習いは少しだけ緊張した顔で、再び記録へ戻った。


 セレスティアは黒板を見る。


『なぜ』


 大きく書かれた、その一文字。


 思わず笑ってしまう。


 先生らしい。


 あまりにも、先生らしい。


     ◇


「よし」


 キリオンは時計を確認した。


「そろそろ終わろうか」


 学生たちが一瞬、残念そうな顔をした。


 それを見て、キリオンもすぐに気づく。


「あ、違う違う。授業が終わるんじゃない」


「え?」


「今の話が終わり」


 学生たちが固まる。


「今までのは本来の講義じゃない。最初に少し時間くれって言っただろ?」


 教室の何人かが時計を見る。


 かなり時間が経っていた。


「先生」


 前列の学生が口を開く。


「少し、ですか?」


「……予定より長かったな」


 笑いが起きる。


「ごめん。気になってたから」


「先生が一番楽しんでませんでした?」


「そうかも」


 また笑いが広がった。


 その時、後ろから小さな拍手が聞こえた。


 キリオンが顔を上げる。


「……あ」


 最後列に、セレスティアがいる。


「いつ来たの?」


「少し前です」


「来れないのかと思ってた」


「仕事を早めに片付けて参りました」


「……聞いてた?」


「もちろんです」


 セレスは立ち上がった。


「とても先生らしい講義でした」


「まだ本題入ってないぞ」


「分かっています」


「じゃあ褒めるの早くない?」


「いいえ」


 迷いなく首を振る。


「先生をお招きして良かったと、改めて思っています」


「大げさだな」


「大げさではありません」


「またそれ?」


「何度でも言います」


 学生たちがキリオンとセレスティアを交互に見る。


 昨日よりも、少し違う目で。


 後ろでは、研究者見習いも自分が書いた紙へ視線を落としていた。


 教本には載っていない内容ばかりだ。


 これをマグヌス教授へ、どのように報告すればいいのか。


 少しだけ迷う。


「さて」


 キリオンは黒板を一度綺麗にした。


『なぜ』


 その文字も消えていく。


 教卓へ戻り、今度は本来使う予定だった教本を開いた。


「寄り道が長くなったけど、本来の講義を始めよう」


 学生たちも教本へ手を伸ばす。


 キリオンは指定されたページを確認し、全員が席へ着くのを待った。


「教本、百二十七ページ」


 紙をめくる音が、講義室いっぱいに広がっていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。