第十話 正しい錬金術
第三講義室へ入った瞬間、キリオンは少しだけ足を止めた。
思っていたより、広い。
扇状に配置された長机が何段にも並び、その正面には教壇と大きな黒板。すでに多くの学生が席についており、教本や筆記具を机の上へ広げている。
人数は五十人ほどだろうか。
年齢は十代後半が中心に見える。
まだ入学してそれほど経っていない学生たちなのだろう。どこか緊張感が残っている者もいれば、友人同士で話し込んでいる者もいる。
キリオンが自分の学生時代を思い出しながら教室を見回していると、前を歩いていたマグヌス教授が教壇へ向かった。
キリオンも続く。
そして。
当然のようにセレスもついてきた。
「……お前も前に立つの?」
小声で聞く。
「いけませんか?」
「いや、駄目じゃないけど」
教室を見渡す。
先ほどまで少し騒がしかった学生たちの声が、目に見えて小さくなっていた。
原因は明らかに、セレスだ。
「あれ……」
「主席じゃない?」
「セレスティア様?」
「なんでここに?」
小さな囁き声があちこちから聞こえる。
キリオンは思わず横を見る。
「すごい人気だな」
「先生、今言うことではありません」
「だって」
「後でお願いします」
セレスは平然としている。慣れているのだろう。
学生の中には、彼女を見た瞬間に姿勢を正した者までいた。
史上最年少で宮廷主席錬金術師となった人物。
学院を卒業した者たちにとって、それがどれほど大きな存在なのか。
キリオンにはまだ完全には理解できない。
ただ。
少なくとも自分より、ずっと有名なのは間違いない。
「静かに」
マグヌス教授が教壇から声を掛ける。
大きな声ではない。
それでも、教室はすぐに静まり返った。
「本日の講義を始める前に、紹介があります」
学生たちの視線が前へ集まる。
その多くが、やはりセレスに向いている。
マグヌス教授もそれに気づいているらしい。
「皆が気にしているであろうセレスティア主席については、後ほど本人から話があります」
僅かに笑いが起きる。
「まずはこちらです」
マグヌス教授が、キリオンを見る。
「本日より一か月、王都学院の錬金学部に外部講師として滞在される、キリオン氏です」
視線が今度こそ、キリオンへ向く。
「…………」
五十人の視線というのは、思っていたよりかなり多い。
町の勉強会で、十人前後の子供を相手にするのとは全く違う。
「先生」
セレスが小さく呼ぶ。
「何」
「表情が固いです」
「分かってる」
「笑ってください」
「余計固くなる」
「自然に」
「無茶言うな」
前列の学生が、少し笑った。
聞こえていたらしい。
キリオンは小さく咳払いする。
マグヌス教授は何も言わず、少しだけ横へ退いた。
「えー……」
何を話すか。
昨夜一応考えた、考えたはずなのだが。
ほとんど飛んでしまったようだ。
「キリオンです」
結局、それしか出てこなかった。
学生たちはまだ待っている。
これでは短すぎる。
「ええと」
もう一度、考える。
「十年以上前まで、この学院で錬金理論の研究をしていました」
少し、学生たちの表情が変わる。
「その後は王都を離れて、各地を回ったりしていました。今は故郷の町で、薬師と」
一瞬考える。
「まあ、子供に勉強を教えたりしています」
学生の何人かが不思議そうな顔をした。
錬金学部の外部講師として紹介された人物が、地方の薬師。
しかも子供の教師。
それだけ聞けば当然の反応だろう。
「正直に言うと」
キリオンは続ける。
「今の学院で使われている言葉や、最新の技術体系については、俺もまだ勉強中です」
今度は、はっきりとざわめきが起きた。
横でマグヌス教授の眉が僅かに動く。
セレスは、特に驚いていない。
「なので」
キリオンは学生たちを見渡した。
「分からないことは、俺も分からないと言います」
何人かの学生と目が合う。
「ただ」
少しだけ笑う。
「教えること自体は好きなので。皆さんが何か一つでも、前より分かるようになったと思える授業ができればいいなと思っています」
それだけ。
「よろしくお願いします」
軽く頭を下げる。
拍手が起きた。
大きくはない。
だが思っていたより、温かい。
「……これでいい?」
キリオンがマグヌス教授を見る。
「私に聞かれても困ります」
「ですよね」
また少し、笑いが起きた。
どうやら最悪ではなかったらしい。
「それでは」
マグヌス教授が、今度はセレスを見る。
「主席からも一言」
「はい」
セレスが一歩前へ出る。
その瞬間、教室の空気が変わった。
学生たちの目が明らかに真剣になる。
「皆さん、おはようございます」
「おはようございます!」
返事が揃う。
「本日は、講義の見学のために伺いました」
学生の一人が小さく首を傾げる。
セレスティアは続けた。
「そして、先ほど紹介されたキリオン先生についてですが」
その言葉で、さらに視線が集まる。
「私から、王都学院の講師として推薦させていただきました」
「…………」
一瞬静まり返った。
次いで、ざわめきが広がる。
「主席が?」
「直接?」
「どういう人なんだ?」
「先生って呼んでたよな?」
キリオンは思わず、セレスを見た。
「そこまで言う?」
「事実ですので」
「いや、事実だけど」
「皆さんも気になるでしょうから」
「余計気になるだろ」
「それで構いません」
セレスはさらりと答えた。
学生たちが、明らかにこちらを見る目を変えている。
先ほどまでは、地方から来たよく分からない講師。
そんな印象だったのだろう。
しかし。
宮廷主席錬金術師。それも史上最年少でその地位へ上った人物。
そんなセレスティアが、直接推薦をした。
それだけで意味が違う。
「主席」
学生の一人が手を上げた。
「質問よろしいでしょうか」
「どうぞ」
「キリオン先生とは、どういうご関係なのでしょうか」
「先生です」
「…………」
「いや、それは」
教室が少し笑う。
質問した学生も困った顔をした。
「失礼しました。どういう意味での先生でしょうか」
「私が子供の頃」
セレスはほんの少しだけ、懐かしそうに目を細める。
「錬金術の基礎を教えていただきました」
ざわめきが、先ほどより大きくなる。
「主席の?」
「基礎?」
「じゃあ本当に師匠?」
キリオンは頭を掻いた。
「大げさなんだよなあ」
「大げさではありません」
「基礎だけだろ?」
「だから重要なのです」
「それ昨日も聞いた」
「今日も言います」
学生たちがますます興味深そうに見ている。
完全に、逃げ道を塞がれている気がする。
「ともかく」
セレスが学生たちへ向き直る。
「明日以降、先生が実際に講義を担当されます」
キリオンの心臓が。
少しだけ重くなる。
「私は本日、先生に現在の王都学院の錬金術教育を見ていただくため、こちらへ伺いました」
……どうやら学生たちには、少し分かりづらかったらしい。
何人かが顔を見合わせていた。
「そして」
セレスはキリオンに、少しだけ視線を向ける。
「先生が、今の錬金術をどのように感じるのか。私自身、楽しみにしています」
「やっぱりそれ言うんだ」
「はい」
「プレッシャーになるんだけど」
「率直な感想で構いません」
「それが一番怖い」
前列の学生が笑う。
マグヌス教授が、軽く咳払いした。
「そろそろ本題に入りましょう」
「失礼しました」
セレスが一礼する。
そして、キリオンと共に教室後方に用意された席へ向かった。
◇
『触媒反応における基礎的安定化』
本日の講義の概要が、黒板に書かれている。
キリオンが席についた時、思わず。
「ちょうどいいな」
と呟いた。
「何がです?」
隣に座ったセレスが聞く。
「昨日読んだところ」
「なるほど」
「実際どう教えるか、確認できる」
「そのための見学でもあります」
マグヌス教授が黒板へ文字を書き始める。
その動作は、非常に慣れていた。
学科のトップ。
教授。
そして現役の研究者。
それでいて、教えることにもかなり慣れているらしい。
「錬金術における失敗の最大要因は何か」
マグヌス教授が問いかける。
学生の何人かが手を上げる。
「素材間の反応不安定です」
「その通り」
黒板へ大きく。
『反応不安定』
と書く。
「では、その反応を安定させる方法は?」
別の学生。
「触媒を用いることです」
「正解」
マグヌス教授は、淡々と。
しかし非常に分かりやすく話を進めていく。
触媒とは何か。
何故必要なのか。
どのように分類されるのか。
現在の錬金学では、触媒をいくつかの系統に分けている。
反応を促進するもの。
抑制するもの。
魔力の流れを整えるもの。
素材同士の性質を繋ぐもの。
さらにそれぞれの組み合わせに、適性がある。
黒板には、簡単な表が書かれる。
「基礎課程では、まずこの組み合わせを覚えてもらう」
マグヌス教授が一つの列を指す。
「植物性素材に対しては、この三系統。鉱物性素材との混合では、この二系統を優先する」
学生たちが一斉に書き写す。
「もちろん例外はあります。しかし、まずは基本を覚えること」
キリオンは感心しながら見ていた。
「すごいな」
小声で言う。
セレスがその声に、すぐに反応した。
「何がです?」
「分かりやすい」
「そうですね」
「俺の時代、こんな表なかったぞ」
覚えている限り、もっと雑だった。
この材料とこの触媒は相性がいい。
それを経験で知る。
何度も失敗し、ようやく。
感覚として覚えたものだ。
それが今では、初めから整理されている。
「学生には楽だな」
「先生」
「悪い意味じゃない」
「分かっています」
本当にいいことだと思う。
学ぶ時にわざわざ、過去の人間と同じ失敗を繰り返す必要はない。
誰かが積み上げた知識を次の世代へ渡す。
そのための学問なのだから。
マグヌス教授の講義は続く。
「ここで重要なのは」
黒板へ新たに文字が書かれる。
『再現性』
「同じ材料。同じ手順。同じ魔力量。同じ触媒」
順番に書いていく。
「これらの条件を統一することで、同一の結果を得る」
学生たちが頷く。
「錬金術師個人の感覚に依存してはならない」
その言葉にキリオンは。
少しだけ、目を細めた。
「熟練者にしか作れない薬や素材。それは価値が高いように思える」
マグヌス教授は続ける。
「しかし、技術としては不完全だ」
教室が静かになる。
「一人にしか再現できないものは、その者がいなくなれば失われる。だからこそ、我々は技術を体系化する」
キリオンは、ゆっくり頷いた。
正しい。
本当に正しい。
昔、何度も見た。あの田舎町ですらそうだった。
優れた職人が死ぬ。
だが弟子が、その技術を再現できない。
そうなると、技術はそのまま失われる。
だから言語化する。
数値化する。
条件を定める。
誰でも、同じ結果を出せるようにする。
「……いいな」
キリオンが呟く。
セレスは何も言わない。
ただ、こちらを見ている。
講義は進み、より具体的な内容へ移っていく。
例として、簡単な治療薬の錬金が取り上げられていた。
キリオンも、恐らく練習で作ったことがあるだろう、単純なものだ。
三種類の薬草。
一種類の触媒。
それぞれの分量、温度、混合順。
マグヌス教授は、黒板へ手順を書いていく。
「第一段階。月白草から成分を一定量抽出」
「第二段階。紅根草を加える」
「第三段階。温度を維持したまま灰晶粉を投入」
「最後に翠葉草を加え、魔力を一定量流す」
極めて明快だ。
「この手順で行えば、基礎課程の学生でも八割以上の割合で規定品質を満たす」
学生の中から、感嘆の声が漏れる。
キリオンも素直に、
「すごいな」
と思った。
初心者で八割。
昔なら考えられない。
ただ何か、引っかかった。
「…………」
キリオンは再び黒板を見る。
手順、材料、温度、触媒、魔力量。
全て書いてある。
キリオンの感覚としても、この条件であればまず失敗しないだろうという確信がある。
だから。
「先生?」
セレスが小声で呼ぶ。
「何?」
「何か気になりますか?」
「いや」
キリオンは、少し考える。
「まだ分からんなあ」
「そうですか」
講義が続く。
マグヌス教授が学生へ問題を出した。
「では、紅根草を先に入れた場合、どうなる?」
学生が手を上げる。
「薬効成分が十分抽出されず、規定品質を下回ります」
「正解」
「では触媒である灰晶粉を先に投入した場合は?」
「反応が不安定になります」
「正解」
学生たちは、次々に答えていく。
よく勉強している。
「なぜ?」
キリオンが、小さく呟いた。
「先生?」
「いや」
前を見る。
マグヌス教授は、次の問題へ進んでいる。
「紅根草を先に入れると品質が下がる」
「はい」
「灰晶粉を先に入れると不安定になる」
「はい」
「……なんで?」
セレスは、今度は答えなかった。
ただ目を細める。
一方でキリオンは、頭の中を整理しはじめる。
結果は分かっている。自分の感覚的にも、大間違いではないだろう。
でも順序を変えると、失敗する。
では、何が起きている?
紅根草は確かに熱や魔力に反応しやすい。
何故成分が出ない?
温度?
溶媒?
月白草の成分が先に存在することで、何かが変わる?
触媒の灰晶粉を先に入れると、何故不安定になる?
触媒が何に反応している?
「…………」
黒板を見る。
そこには、正しい手順が綺麗に並んでいる。
その横に失敗例と、結果。
それも整理されている。
ただ、その間。
途中。
何がどう変わっているのか。
そこにはほとんど触れられていない。
「先生」
「うん」
「どう感じますか?」
セレスが小さな声で聞く。
多分これを待っていたのだろう。
キリオンは、すぐには答えない。
講義を聞き続ける。
マグヌス教授は、決して悪い授業をしていない。
むしろ上手い。
分かりやすい。
学生の反応もいい。
覚えるべきこと。
試験に出ること。
実際に使うこと。
それらが整理されている。
だからこそ。
違和感が少しずつ、形になっていく。
「正解を教えるんだな」
「……はい?」
「いや」
キリオンは小さく笑う。
「すごく分かりやすい」
セレスは黙っている。
「どうすれば成功するか」
黒板を見る。
「それがちゃんと分かる」
「はい」
「失敗するやり方も」
「はい」
「だから」
少しだけ、眉を寄せる。
「その間を考えなくても、作れるんだな」
セレスの目が、僅かに動いた。
「先生」
「どうした?」
「それは」
「悪いって意味じゃないぞ」
キリオンはすぐに付け加えた。
「むしろいいと思う」
「…………」
「薬なんて特にそうだろう。毎回違うものが錬金出来たら困る」
「はい」
「正しい手順を覚えて、誰でも同じものを作れる」
それは町で薬師をしているキリオンにとっても、理想の一つだ。
「でも」
続ける。
「正しいやり方だけ覚えたら」
少し考える。
「同じ材料が無い時、どうするんだろうな」
セレスが、黙る。
「同じ薬草でも、土地によって違う」
「ええ」
「乾燥具合も違う」
「はい」
「温度だって、毎回完全に同じにはならない」
キリオンは黒板から、学生たちへ目を移す。
「このやり方で成功する。それを覚えるのは大事だよ」
「ですが?」
「何で成功するのか分かってないと」
少しだけ、言葉を選ぶ。
「条件が一個変わっただけで、何もできなくならないか?」
セレスは答えなかった。
ただほんの少しだけ、笑っていた。
「……どうした?」
「いいえ」
「またそれ?」
「先生らしいなと思いまして」
「そう?」
「はい」
「俺は今の授業が、間違ってるとは思わないぞ」
「分かっています」
「本当に?」
「先生は」
セレスティアが静かに言う。
「正解を否定しているのではなく」
一拍。
「正解に至るまでの理由を知りたいのでしょう?」
キリオンは少し考える。
「……そうかもな」
改めて黒板を見る。
『正しい手順』
『正しい触媒』
『正しい結果』
学生にとってはありがたい。
教える側にとっても、非常に効率がいい。
では、もし。
そこにない状況が来たら?
表にない素材。
教本にない毒。
前提と違う温度。
そして、知らない魔物。
「…………」
キリオンは、自分の町を思い出す。
畑。
農家のおじさん。
鍛冶屋のおやじ。
腹を打った大工。
子供たち。
教本通りにいかないもの。
そんなものばかりだった。
「まあ」
小さく息を吐く。
「俺が田舎で暮らしすぎたのかもしれないけど」
「私はそうは思いません」
「お前は俺に甘いからな」
「厳しいつもりです」
「どこが」
「生活管理などは」
「そこじゃなくて」
少しだけ、二人で笑う。
講義は、終盤へ入っていた。
マグヌス教授が、今日の内容をまとめている。
「まずは正しい手順を覚えること」
学生たちが、真剣に聞いている。
「基礎を身につける前に応用へ進むな」
これはキリオンも、完全に同意する。
「定められた方法を正しく再現できるようになってから、自分の工夫を加える」
そこも理解できる。
だから今感じた違和感は、たぶんマグヌス教授個人の問題ではない。
もっと大きなものだ。
「今の錬金術自体が、そういう考え方なんだな」
「……はい」
セレスティアの返事は、静かだった。
やがて、講義終了を知らせる鐘が鳴る。
「本日はここまで」
マグヌス教授が教本を閉じる。
「次回までに、触媒分類表の第三項まで覚えておくように」
学生たちが、一斉に返事をする。
教室が少しずつ騒がしくなる。
キリオンは座ったまま、黒板を見ていた。
まず、非常によくできた講義だった。
自分なら、こんなに綺麗には教えられないかもしれない。
整理されている
効率がいい。
再現性が高い。
それでも。
「先生」
セレスが呼ぶ。
「どうでしたか?」
キリオンは少し考えて答えた。
「勉強になったよ」
「それだけですか?」
「すごく分かりやすかった」
「それだけ?」
「……しつこいなあ」
セレスは待っている。
キリオンが本当は思っていることを。
本当は言いたいことを。
「ただ」
キリオンは弟子の期待に応えるため、仕方なく続ける。
「俺なら」
そこまで言って、止まる。
「いや」
「先生?」
「明日考える」
「何をです?」
「教え方」
キリオンは立ち上がって、続けた。
「俺が同じこと教えても、意味ないだろ」
「…………」
「せっかく外から呼んでもらったんだからさ」
黒板を見る。
そして、少し笑う。
「俺なりに教えてみるよ」
セレスの顔が、ぱっと明るくなる。
「はい」
「……楽しそうだな」
「楽しみです」
「また見に来るんだろ?」
「もちろんです」
「席は後ろにしてくれよ」
「前に座ります」
「嫌だ」
「先生の講義ですので」
「理由になってない!」
教室を出ていく学生たちが、何人か振り返る。
その目には。
明らかな興味が浮かんでいた。
宮廷主席錬金術師が、これほど楽しみにしている講師。
その人物が、一体どんな授業をするのか。
学生たちの間でも少しずつ。
興味が生まれ始めていた。




