8. 呪詛師
「おはよう、若菜」
「おはよう、おねえちゃん」
夜明け前に目を覚まし身支度を終えると、今日はすぐに若菜を起こして、簡単な健康診断をする。
「うん。熱も無いし、脈拍も正常。瞳孔と呼吸音、霊力使用も異常無し。大丈夫だね」
「だいじょうぶ」
昨夜は結局、若菜は≪ほろ酔い≫の効果が薄れると共に口数が減り、効果が完全に切れると、元通りに意思表示をしなくなった。
結果、改善したのは当初の予想通り、吃音だけだ。
ただ、酔っている間の若菜の様子から、確かに彼女の自我が残っているのだと分かったのは、非常に喜ばしいことだった。
「若菜、着替えが終わったら、こっちに来てね。約束通り、髪を編んであげる」
「わかった」
若菜の黄緑色の髪に、少しだけ常葉木油を馴染ませ、櫛できれいに梳かしていく。
「痛くない?」
「いたくないよ」
髪を左右に分けて編み込んでいき、最後に後頭部にくるりとまとめて紐と竹製の簪で固定する。
「はい、出来たよ。うん、可愛い」
「かわいい。ありがとう」
笑いかけると、笑顔が返る。
その反応自体は、いつもとそう変わらないはずだけど、心なしか表情が明るく見えた。
「ふふ。今日も晴れそうだよ。畑仕事日和だね」
「はたけ、がんばる」
「うん、そろそろ板芋の植え付け準備もしなくちゃいけないし、頼りにしてるね」
板芋は、非常に栄養価の高い霊草で、霊薬の素材としても使っているけれど、同時に私達の主食の一部としても活躍している。収穫量が食糧に直結しているだけに、世話にも力が入るというものだ。
「私は防衛設備の点検をしてくるから、哲金を起こしてくれる?」
「うん。アキ、おきて」
「…………んゔぅ」
いつも通り、しかめ面で呻きながら寝ている哲金を若菜に任せて、階段を降りていく。
「うん。今日も問題無し」
日課の点検と霊力供給を終えて、隠し扉を潜り抜けて立ち上がる。直後、大きな音を立てて入り口の扉が開いた。
ゾッと肌を刺すような冷気と共に、明黎の声が響く。
「起きろ。呪詛師が来る」
慌てて哲金を叩き起こし、全員で曲輪内の見つかってはマズい物をまとめ、片付けていく。主に、若菜の生活痕や余剰分の食糧、布、霊薬などだ。
「呪詛師が来るって、どういうこと? 昨日はそんな事言ってなかったよね?」
哲金が、やや青褪めた顔で確認する。
この曲輪は、そこそこ標高の高い位置に存在しているが、山自体もさらに四方を山々に囲まれている、正真正銘の僻地だ。唯一細い街道がある北側ですら、山地を越えるには、最低でも三日はかかる。その街道も、妖魔避けの護扇樹を植えて多少土を均しただけの道だ。手入れもロクに出来ないから、休養や野営を出来る場所はごく限られる。
こちらに来るのも同じだけの日数がかかるし、その間に食事の支度などで火を焚けば煙が出る。だから、近づく人間がいれば前日には察知できる。
……本来なら。
「昨日の朝と夕方に確認した時は、街道に人影は無かった。炊煙も見てねえ。なのに、さっき見たら向かいの山の麓に煙が残ってたから、たぶん水場も無い妙な場所で野営してやがる」
「向かいの麓……もうそこまで来てるってことは、早ければ昼過ぎに着くわね」
確かに昨日の夕方は、他のことに気を取られていて偵察に注意を割いていたとは言えない。
それでも、日暮直前に櫓の上から明黎と周囲の確認はしている。その時には、見える範囲に煙は上がっていなかった。
おそらくは、日が暮れる前に野営の準備が終わらないような、無理な移動をしたのだろう。
「何なんだよ。いつもなら、あいつが来るのはあと二カ月は先のはずだろ?! クソがっ」
寝起きと不安でガラが悪くなっている哲金が吐き捨てる。
「チッ。何にせよ、ロクな事じゃないのは確かだろォよ」
元からガラの悪い明黎は殺気立って舌打ちしている。
人一倍危機意識が強いから、昨日の内に呪詛師の存在に気付けなかったことが腹立たしいのだろう。
呪詛師がわざわざ来る用事なんて、明黎や哲金に対する特殊任務の要請くらいしか思い付かないが、口に出して共有しても意味の無い予想だし、正直当たって欲しく無いので言葉には出さない。
「どうせあの人の考える事なんて理解出来ないのだから、考えても仕方ないよ。それより、これ持って隠れ家の方に若菜を連れて行って。それと、道中と帰りで、畑に設置してる幻影装置の確認もお願い」
水の樽と、食糧や霊薬、昨日作ったばかりの百薬酒などの稀少な物を出来る限り詰め込んだ、大型の行李を背負子に括り付けて哲金に渡す。
同じく、小分けにした水と保存食、生活用品に霊薬一式を入れた荷物を若菜に渡して、顔を見てしっかりと言い聞かせる。
「いい? 若菜。十日経っても、私達が迎えに行けない時は、南側に山を抜けて人里を探しなさい。そして、人里に着いたら助けを求めるの。出来るわね?」
「…………おねえちゃん」
正直、たった一人で妖魔の蔓延る山中を踏破するのも、見るからに訳ありの少女を善意で保護してくれるような人間に出逢える確率も、現実的とは言い難い。
それでも、隷属の首輪の嵌っていない若菜一人なら、いざとなれば逃げられる。
「私も、呪詛師がいなくなったらすぐに迎えにいくから。必ず、生き残るの。……約束よ」
「やくそく……うん。とおか、まってる」
「うん」
若菜の頭をひと撫でして、哲金に視線を移す。
「生活に必要な事は確認して、全部言い聞かせてあげて」
「わかってる」
隠れ家と言っても、崖の洞窟を生活出来る程度に整えただけの代物だ。
入り口に護扇樹の若木を植えた事と、幻影の錬成具で入り口を隠しているので、危険自体は少ないが、決して快適とは言えない。その上、若菜は自己判断に難がある。多少窮屈でも、一日の生活を徹底して決めてしまった方がいい。
細かい事は哲金に任せて二人を送り出す。哲金は昼までに戻って来なければならないから、時間の余裕が無い。
「私達も急ごう」
「ああ」
見つかったら困る物は、全て隠し扉の奥の地下書庫へと放り込む。地下書庫は、隠し扉から防衛設備がある地下への階段の途中の、更にややこしい隠し扉の先にあるのだが、おそらくは頭領も知らない場所だ。万が一、今回来る集団に頭領が混ざっていても見つかる心配はしなくていいが、その分、物を運び入れるのには時間がかかる。
荷物の隠蔽が終わったら、次は呪詛師がいる間はほとんど世話が出来ないだろう薬草園に、水と霊力を与えて回る。最低限、枯れないようにしておかなければいけない。
それも終えたら、要求される予定の物資の梱包と、明黎と哲金の旅支度、掃除に食事と風呂場の準備もある。
何か一つでも不足があれば、怒声と共に拳が飛んでくるだろう。…………むしろ、それで済めば良い方だが。
本当に時間が足りない。
日が登ってくるに連れて、哲金が戻らないことに危機感が募る。とはいえ、私が焦ったところでどうにもならない。
「明黎、櫓から呪詛師が何処まで来てるか見てきて。私はあの人達が使う部屋の掃除をするから」
「わかった。すぐ戻る」
掃除に関しては、あまり戦力ならない明黎に、猶予の確認に行ってもらう。
最低限の掃除は欠かしていないが、普段は使っていない部屋だ。残り時間によっては、細かい部分の手入れは諦めるべきだろう。
「皓理」
「どうだった?」
「思ったほど近くはねぇな。着くのはたぶん、青の刻(午後四時)以降だ」
無茶な移動の反動でも出たのか、想定よりもずいぶん遠い位置にいるらしい。思ったより余裕が出来た。
「わかった、ありがとう」
「哲金は近くにいたから、もうすぐ戻るだろ」
「そっか。良かった」
ひとまず、ほっと息を付く。
隠れ家のあたりは勿論、今哲金がいるだろう畑のあたりも、上からも見えないようにしているハズだから、どうやって確認したのかは分からないけど、まあ、明黎だし。
「私はこのまま掃除を続けるから、厨と風呂場の水汲みをお願い」
「ああ。薪も運んでおく」
「うん」
掃除に戻ってほどなく、明黎が言っていた通り、青くなった哲金が戻って来た。
聞けば、帰る途中で運悪く妖魔に出くわしたらしい。一人でも倒せはしたものの、思いのほか時間がかかってしまったとか。
「ひとまず、怪我も無さそうだし無事で良かったよ」
「とりあえずね。……間に合って良かったよ」
話しながら、二人で手早く掃除を進めていく。
思ったより時間があるとはいえ、休憩が出来るほどでは無い。自分達の身を守るためにも、必死で手を動かした。
時間ギリギリまで準備に奔走して、何とか想定出来る範囲の支度が整った。
今は、日も暮れ始めた青の刻の終わり(午後六時)。
曲輪の門の前に到着した、呪詛師一行を、平伏して出迎える。
現れた呪詛師一行は、紅い夕日を背景に、その異様な姿を晒していた。
先頭にいる呪詛師本人は、豪奢な着物を着て、馬に乗って悠々と進んでいるが、それに続く五人は、全員白い面を被っていて顔が分からない。着物もほぼ同じ意匠で、一見して見分けがつかなかった。
しかもその内二人は、動きがどこかぎこちなく、白面も相まって絡繰人形のようだ。
……まあ、面に関しては、今は私達も同じだけど。
頭領が曲輪に来なくなってから、呪詛師の前に出る時は、面を付けることを強制されるようになった。
目と口の位置に細い穴が空いているだけの、簡素で無個性な白面。
呪詛師は、個性というものが、更に言うなら人間そのものが、大嫌いだ。
服装についても、身綺麗にしていると機嫌を損ねるので、今は最もボロボロの服を着て、更に土で汚している。
門を潜った呪詛師が、馬を降り、建物の玄関に向かって無言で進む。絡繰風の人物の内の一人が馬を引いていき、もう一人が扉を開け、草鞋と足袋を脱がし、足を拭く、といった従者の行動を淡々と行なっていた。
その間、私達を含めたその場の全員が、土間に片膝を付いて控えている。
「おい」
「はい。戸籍庁技官様」
ようやく声を発した呪詛師に、従者として行動していた人物が返答する。声も、妙に平坦だ。
「風呂に入る。用意しろ」
「はい。すぐに」
返事をしたのは、従者だが、実際に動くのは私達、曲輪にいた三人だ。
急いで準備を終え、難癖をつけられること無く呪詛師が風呂に入ったことで、細かい湯加減を調整する哲金を残して、私と明黎は玄関へ戻る。
玄関先では、白面を外した男達がだらしなく寛いでいた。先程までは揃って畏まっていたが、呪詛師の目が届かないと判断して気を抜いているのだろう。
護衛役だろう彼らが荷車で曳いてきた荷物を見て、思わず眉を寄せる。
「…………これだけ、ですか」
「ああ。文句なら『戸籍庁技官』サマに言えよ。俺らは上の指示に従ってるだけだからなァ」
草鞋と足袋を脱ぎ散らかして座っていた男が、小馬鹿にした調子で言うと、残りの二人も口々に文句を垂れる。
「はー、まったくイヤな仕事だよなー。変な面はつけさせられるし、上司は気味が悪いわ横暴だわ」
「ホントだよ。だいたい何で『戸籍庁技官』とか呼ばされるんだってーの。あの人とっくに馘首になってんのにサァ? 惨めっつーか、無様っつーか」
「プッ、そんなコト言っちゃカワイソーじゃん?」
「可哀想なのはオレらだろー? こんな所で荷運びの真似事までさせらてサァ?」
「マ、こんな僻地で妖魔と土いじりしながら暮らすよりゃあマシじゃん?」
ギャハハ、と品の無い笑い声が響くが、それはどうでもいい。
問題は、渡された物資の方だ。
「……これは、どうするべきかな」
荷物を持って厨に移動した後、私達は今までに無い事態に困惑していた。
頭領が去ってからずっと、ここに届けられるのは食糧と霊薬の素材で、基本的に品も量も変わらない。
頭領としては、私達を生かさず殺さず、素材と霊薬の供給源にしたいのだから当然だろう。
なのに、今回与えられた物資は、米と塩のみ。しかも量が明らかに少ない。
「今回の物資を手配をしたのは、呪詛師の独断だな」
「うん。食糧もだけど、素材が無いのは、頭領の手配なら有り得ない」
当然のことだが、曲輪では採れない素材もあるし、素材が無ければ出来ない錬成もある。だから頭領は、毎回きっちり錬成させたい霊薬の素材を送ってくる。そういった判断は理性的な人だ。
だが、呪詛師は違う。
あの人は、頭領の命令には嫌々ながら従っているものの、全てを自分の都合でしか考えない。
組織に所属して報酬を受け取るために、一応頭領の指示は聞く。
だが、こんな山奥に滞在するのは嫌だから、と言って、滞在理由を無くす為に曲輪そのものを潰そうとする。
そういう考え方をする人間で、挙句それを実行して、同僚に妖魔を嗾ける人間だ。
他者の都合や命どころか、道理も物理法則すら考慮しない。
今回の食糧の供給量も、一応建前を取り繕っているだけで、私達が死ぬなら死ぬで構わない、という考えがあからさまだ。
「あのゴミ野郎が、いつもの時期でも無いのにわざわざここに来るなんざ、絶対イカれた用件だろ」
「うん……」
私達は、隷属の首輪によって『主人に対し、あらゆる害を与えてはならない』という制約を受けている。
現在主人に設定されているのは呪詛師で、直接的な危害はもちろん、経済的な損害を与えることも、情報の漏洩といった間接的な害を与える行動も、全てが禁止。
殴られようが、斬られようが、反撃ひとつ出来ない。
ただし、抜け道はある。
「明黎、急いで哲金に情報共有してきて。どうせ、料理はまともに出来ない」
「…………一人で厨を出るなよ」
言い置いて、明黎が走っていく。
私達への制約は「主人へ害を与えない」ことだ。虐げられても抵抗すらロクに出来ないが、命令への絶対服従は強制されない。
つまり、交渉の余地はある。
ただ、私もそうだが、明黎も輪をかけて会話が上手くない。交渉事の担当は、ほぼ哲金一択だ。
「……さて、結局夕食はどうするか」
私達が敷地の外に勝手に畑を作っている事は、絶対に明かせない。つまり、そこで収穫した野菜や周囲で採れる山菜は使えない。妖魔の肉も当然出せないから、敷地内で採れる物と、運ばれて来た物資で食事を作るしかない。
「まさか、魚の干物どころか乾物の一つも持って来ないとか……」
使えるのは、今回与えられた米と塩、前回の残りの味噌と雑穀、敷地内でも採種のために育ててる大根と、後は可食の霊草類か。
「……無理だね」
いや、自分達の食事と考えれば充分なのだが。
しかし、呪詛師が毎回要求するような饗応を用意するのは不可能だ。しかもあの人が求めるのは、味よりも見た目の豪華さ。使える食材が少なすぎる時点で、どうしようもない。
「絶対、無駄になるよね。はあ、勿体無い…………」
そうは言っても、作らないわけにもいかない。
諦めて、竈に火を入れた。
無駄に灯りを付けて明るくした大広間で、呪詛師が上座に座っている。
一通り稀少な霊酒を消費した後、食事を要求されたので、御膳を運んできた。
「…………なんだ? コレは?」
「お食事でございます」
予想通り、不機嫌そうに問われて、運んだ御膳の前で平伏する。
次の瞬間、頭の上から熱と衝撃がきた。どうやら、御膳ごと食事をぶちまけられたようだ。
「私にこんな粗末な物を食べろと言うのか!」
「申し訳ございません」
食べ物の残骸を被ったまま謝罪する。
まあ、正直半ば予測していた反応だ。
「作り直せ」
「はい。ですが現在、これ以上の食材はここにありません」
「口答えをするなっ! 黙れっ!!」
「…………」
口答えをしたつもりは無かったが、機嫌を損ねたようなので、言われた通りに黙る。すると、今度は舌打ちとともに酒杯が降ってきた。私が話すと、どうも呪詛師を怒られせやすい。
甘んじて打撃を受けつつ、じっと待っていると、やがて再度の舌打ちの後、横にいた従者に食事の支度を命じているのが聞こえる。
その間にさっと投げつけられた器と落ちた食材を拾い集め、従者を厨に案内するために連れ立って退室する。
少し離れて控えている護衛連中から、嗜虐と嘲笑の視線を浴びながら、横を通り過ぎる。その後ろにいた明黎と哲金に、目線で情報収集をお願いした。
絡繰人形のような従者を厨に案内し、設備の説明をする。その間、従者は一言も言葉を発しない上に、気配すらずっと平坦だった。
(これは、やっぱり呪詛師の<呪術>の影響だね)
自己主張が出来ない若菜と比べてすら、自我や生気といったものが感じられない。ただ指示されたことを遂行するだけの、まさに絡繰人形だ。
(……この人は、もう手遅れなんだろうな)
おそらくは、魂が壊れてしまっている。
<呪術>の恐ろしく、そして有用なところは、魂に直接干渉出来ること。これに尽きる。
もちろん、威力は微々たるものだし、色々と制限はあるが、今のところ他者の魂に干渉できる唯一の手段だと言われている。呪詛師が組織で重宝される所以だ。
「説明は以上ですが、何か質問はありますか」
「いいえ」
「では、私は身支度を整えて参ります。何かあれば外の井戸の方へ来てください」
「……」
本来は厨で妙なことをされないように見張るつもりだったが、どう考えても無駄な時間になるだろう。おそらく、この人が命令に関すること以外で行動することはない。
無言を了承と受け取って、厨の勝手口から外へ出て井戸へ向かう。
いくらわざと身なりを汚しているとはいえ、食べ物をぶつけられたままの格好でいたいとは思わない。特に汁物がかかった部分はべったりと身体に貼り付いていて不快な上に、体温が奪われる。
あと、器が当たった後頭部と肩口もそこそこ痛い。治癒膏があれば簡単に治る程度の打撲だが、今は胴乱を付けていない。
呪詛師が眠るまで我慢するしかないだろう。
井戸の横の洗い場で、簡単に汚れを落とす。
ただし、下手に身綺麗にしていれば余計な怒りを買うので、水分を搾ったり、濡らした手拭いで簡単に汚れを拭うことしか出来ない。それでも多少はマシな格好になる。
厨に戻れば、ちょうど新しく食事の御膳が揃うところだった。
予想よりも随分早い。
そう思ってよく見ると、元々私が用意していた物の残りを盛り付けて、それに餅と干物の魚を焼いて加えただけだった。
「……よければ、お食事を用意する基準を教えていただけますか?」
「はい。戸籍庁技官様は、魚と、あとは皿の数が七つ以上あればご満足されます。膳を二つに分ければより確実です」
(……見た目重視なのは知っていたが、皿の数で判断していたのか……)
まあ、これで呪詛師が満足して食事に難癖を付けないなら、どうでもいい。
二つの御膳のうち片方を持って、従者の後について大広間へと向かう。
中庭に面する廊下を歩いて大広間が近付くと、不意に呪詛師の怒鳴り声が響いて、思わず顔を顰める。
今度は何にキレているのか、と思った次の瞬間、視線の先で襖ごと哲金が廊下に吹き飛ばされてきた。
咄嗟に駆け寄りかけ、哲金が身体を起こしたのを見て、慌てて足を止める。下手に気遣えば、かえって事態を悪化させかねない。
私の三歩先を歩いていた従者は、呪詛師の怒声が聞こえた瞬間、御膳を置いてその場で座って静止した。そのまま微動だにしないので、その横に私も御膳を置いて、極力気配を消し、大広間の中が見える位置に移動する。
室内では、呪詛師が赤黒い顔で酒壺を蹴倒し、ほぼ意味をなさない罵倒をしていた。その呪詛師より廊下側の位置に、護衛の一人がふんぞりかえっているので、こいつが哲金を吹き飛ばしたのだろう。その他の三人と明黎は元の場所から動いていない。
(……哲金の言動の何かが癇に障って、護衛に殴らせた、とかかな)
遠目に見る限り、酷い怪我は無さそうだから、哲金は半ばわざと飛ばされて距離を取ったのだろう。
問題は、要領の良い哲金が何故それほど呪詛師を怒らせたのか、だけど。
疑問を持つ間もなく、呪詛師の大声が襖の無くなった部分から飛び出てくる。
「いいかっ! 明日の朝までに、回復薬を樽で三つ用意しろと、この私が! 言っているんだっ!」
(…………は?)
私が訝しんでいる間にも、呪詛師は他にも要求する霊薬を並べ立てている。
どれも、いつも用意を命じられているものと、種類も量も違い過ぎる。
特に最初に言っていた「回復薬」は普段の五倍以上の量だ。
回復薬は治癒膏の上位互換とでも言うべき霊薬だが、水薬だ。液体だから、運搬中に器が破損すれば零れるし、それ相応に重い。加えて、一回分を計って小分けにする容器も手間も必要だし、使用期限も比較的短い。
輸送の手間や品質管理を考えれば、非効率的なので、いつも頭領が要求する回復薬の量はそれほど多くない。
しかも呪詛師が要求した物に、普段は必ずある薬草園の素材が一つも無い。
正直、これは予想外だ。
いくら物資の手配の仕方がおかしくても、呪詛師が頭領の命令でも無いのに、自主的に田舎の僻地に来るとは思っていなかったのだが、本当に今回の呪詛師の襲来に、頭領は全く関与していないのだろう。
即ち、呪詛師に、頭領の命令という抑制が効かない。
(……これは、予想以上にマズい状態かも)
不測の事態や無茶振りに備えて、どの霊薬も多少は余剰を用意しているが、全部を合わせても回復薬の在庫は必要量の半分程度だろう。普通に考えて、明日の朝までに用意するのは不可能だ。
おそらく、哲金は量か期日かを譲歩するよう交渉しようとしてくれたのだろう。
ただ、霊薬の着服という背任行為に対して、呪詛師はいつも以上に神経質になっていて、交渉以前の段階で逆上して問答無用で制裁を加えた、と言ったところだろうか。
それでいて今、哲金が沈黙を保っているのは、話が通じないこと以上に、迂闊に了承の返事をしたが最後、要求の霊薬を用意出来ないことが「主人に損害を与える」ことになるからだ。
つまり、死ぬ。
あまりにも理不尽だが、こうなると、ひたすら耐えるしか無い。暗鬱な気分で目を伏せたところで、ふと思い付く。
(あ、いや。百薬酒、なら?)
副次効果として≪酒酔い≫はあるけれど、元々の霊薬としての効能は、身体の回復や修復だ。
目的が回復以外のところにあるから、自分自身を納得させる理論武装をする必要はあるけど、内密に服用させても害を与えるという判定にはならないはずだ。
一度完全に酔わせて物資の要求の件を有耶無耶にし、あわよくばぐっすりと寝てもらう。
問題の先送りでしかないが、一度寝かせてしまえば取れる手段が増えるので、最低でも二、三日の猶予は出来る。
(……うん、いける)
頭の中で算段をつけて、百薬酒を取りに櫓の方へ移動しようと、気配を消したままそっと動く。
呪詛師や護衛達に気取られないように慎重に後退し、御膳のある位置まで戻って踵を返した瞬間、いきなり横から声をかけられた。
「どこへいかれるのですか」
……従者だ。
存在を忘れていたわけではないが、あまりの生気の無さに、自発的に私に声をかけるとは思っていなかった。
無意識に若菜の反応を基準に考えていた、自分の迂闊さを呪う。
「…………酒壺が倒れていたので、新しい酒を持ってこようかと」
「そうですか」
完全な嘘ではない。従者の方も他意は無いのだろう。
だが、会話をしたことで、私達の存在に気付かれたらしく、威圧的な足音がして、近い位置にある襖が開かれる。
「何処へ行くつもりだ?!」
「……新しい酒を、」
「うるさいっ!!」
支離滅裂だ。
そう思っても、どうすることも出来ない。
とりあえず怒りをやり過ごそうと、身を低くして呪詛師が喚き散らす声を聞いていると、髪の毛を掴んで引き摺られる。
「うっ……いっ…………!」
「うるさい、うるさいっ! どいつもこいつも私を馬鹿にしやがって。私が、この私が! 使ってやると言っているのに、何故喜んで差し出さない?! わたしは特別だ。えらばれたのだ。とくべつな刻印をもった、とくべつなそんざいなのにっ……!!」
「ぐっ!」
蹴り転がされ、受け身を取って蹲る。八つ当たりの対象は、哲金から私に移ったらしい。
全員白面をしているとはいえ、体格差は明白で、私だけがあからさまに小柄だ。呪詛師が直接嬲るなら、私がちょうどいいのだろう。
観念して目を閉じ、身体を丸めていると、ふいに、ゴボッと濁った咳の音が微かに耳に届く。
明らかに異常な音にゾッして視線を走らせると、明黎が首輪を握りながら立ちあがろうとしているのが見えた。
白面の隙間から覗く、明黎の殺意を帯びた瞳を見た瞬間、咄嗟に声を張り上げる。
「明日の朝までに必ずご要望の霊薬をご用意させていただきます!」
言葉自体は呪詛師へ対するものだ。
だが、声には明黎への『早まるな』という意図を込める。
今、明黎は明らかに呪詛師の殺害を企図していた。
おそらくは、このまま無思慮極まる無理難題を押し付けられて一方的に害されるぐらいなら、万一の可能性に賭けて瞬時に首を刈ろうとでもしたのだろう。
だが、そんなことをさせる訳にはいかない。絶対に。
声の大きさに一瞬鼻白んだのか、呪詛師は蹴り付けようと上げていた足を下ろす。
しばらく無言でこちらを観察している気配がしたが、舌打ちの後、踵を返して座布団を敷いた上座へと戻った。
「ふん、初めから素直にそう言え。余計な手間を取らせやがって」
「申し訳ございません。つきましては、今からすぐに荷物の手配に入ってもよろしいでしょうか」
そうでなければ、本当に間に合わない。
脂汗が滴るのを感じながら問い掛ければ、鼻を鳴らしてさっさと行け、との許可が出る。
精一杯平静を装って、大広間を辞し、即座に工房へと身を翻した。




