第五話 朱塗りの記憶①
ゾッとする感覚に衝き動かされるまま、“アドラー”は逃げた。閉じ込められたショッピングモールの中で逃げて、逃げて、逃げ続けた。
でも、どこまで行っても背後から迫ってくる得体の知れない敵の気配が消えてくれなくて、じっとりとした汗が額に浮かび上がっていた。
「くそ……何だってんだ!? 畜生、俺の腕ッ」
彼の呼吸が荒いのは、疲労だけでは無かった。止血したとはいえ、腕を斬り落とされた事による出血が、確実に彼の体力を蝕んでいたのである。
現に、止血しきれない鮮血が今も廊下に垂れ、彼の道のりを点々と示しているのだ。
(これじゃ、どれだけ逃げても限がねえ……そもそも、何でアイツはここまで正確にこっちを追跡できるんだ!?)
既に十分以上も、“アドラー”は逃走を続けている。途中、百鬼組の人間と思しき者二人と擦れ違ったりもしたが、そちらを気にする余裕なんて全く無かったくらいであった。
それくらい、脇目もふらずに逃げ回っているにもかかわらず、あの得体の知れない男は着実に“アドラー”を追跡してくる。
決して走る事は無く、まるで逃げ回る彼の姿を見て楽しんでいるかのように、ゆったりと歩いて追跡を続けているのであった。
「ここまで……くれ、ば……少しは」
辿り着いたのは、フードコート。既にここでも惨劇が引き起こされていた後なのか、血塗れの抜け殻がそこかしこに転がっている。
すっかり慣れてしまった鼻は血腥さをほんの僅かに感じ取るだけで、それ以上の感覚を呼び起こす事は無かった。
「っ」
フードコートに設置されているウォーターサーバーから温くなった水を摂取して一息吐いた“アドラー”は、椅子に腰かけて休息を取る。
既に彼の体は疲労と出血多量とで、視界すらふらついている有様だった。
「“アーベント”、“ゼー”、“シュピーゲル”、“クリュザンテーメ”……誰か、返事をしやがれっ」
ゼイゼイと荒い息を吐き出しながら腕時計型端末に呼び掛けてみても、変わらず返事はない。
当初からそうであったように、まだ通信が回復する素振りは無いらしい。その事を認識して、彼は苛立ちから空のコップを壁に叩き付けていた。
「何が何なんだ、奴は一体何者なんだ!? 何が目的でこんな事をして、俺達の邪魔をっ……!」
こんな現実は、“アドラー”にしてみれば予想もしていない事だった。
片腕を斬り落とされる事も、こんな所で命の危険に追い込まれている事も、何より歪の展開に失敗するなんて思ってもいなかった。
彼の中では、当然のように歪の展開は成功し、本国から多くの増援を呼び出し、“アーベント”の鼻を明かして順風満帆の人生をこれからも送る――筈だったのに。
「それがどうして……どうしてだッ!」
己ほど優秀な人間が、何故ここまで追い込まれなければならないのか、彼は全く理解が出来なかった。いや、拒んだとでも言うのが一番近いのかもしれない。
彼のプライドの高さが、物事に対する客観性を奪っていたのだ。そしてその激しやすい性格が、この状況下でも冷静さを奪い、彼に破滅を呼び込む。
「……っ!」
足音が、聞こえる。
それを微かに耳にして、“アドラー”は弾かれたように顔を上げた。そして耳を澄ませば、やはり誰か一人分の優雅な足音が、場違いにも思える足音が、着実にこのフードコートへと向かっているのが分かる。
その足音が誰のものであるかなど、“アドラー”をして考えるまでも無い事であった。
「化け物が……!」
ただっ広いフードコートの中で、ただ一人の生存者である“アドラー”の荒い呼吸だけが響く。そしてそれを絶やさんとするかのように、足音が迫る。
逃げ場は、無い。そもそもこれ以上逃げたり強行突破するだけの体力が残されていない事を、“アドラー”も悟っていた。
「あの結界は、もう俺の力じゃ破れねえ……ふざけやがって」
ちら、と彼が窓の方に目を向ければ、ショッピングモールに集う群衆の姿が見下ろせる。未だに誰も中に入れる気配はなく、外の警察官が間抜けにも右往左往している。
「へっ、原住民の猿共が、どこまでも使えねえ奴らだ」
悪態を吐き終えるや、彼は長く深い息を吐き出した。電力の供給も断たれて薄暗いフードコートの床を眺め、そして顔を上げる。
「すっかり勝った気でいるあの野郎には、身の程って奴を思い知らせてやらねえとなあ」
ふらつく体に活を入れ、彼は立ち上がる。右腕が無い感覚にまだ慣れないからか大きくふらついて、テーブルに左腕をついた。
「この腕の礼は必ず……!」
破壊され倒れたテーブルや椅子、そして死体たちの中に紛れ込んで寝転がり、アドラーはその時を待つ。
一撃必殺の、その時を。
そしてそうとは知らないあの殺人鬼は、変わらず呑気な調子で足音を響かせ、フードコートへと足を踏み入れた。
「……!」
その瞬間、“アドラー”は満を持して攻撃を開始する。
張り巡らせていた魔力を一斉に駆使して、殺人鬼の周囲で一斉に鉄製の杭を生成したのだ。
それは目にも留まらぬ速さで標的を射抜きに掛かり――斬り落とされる。が、それだけで攻撃は終わらない。
ワイヤーのように細長い金属の糸が殺人鬼の四肢を拘束する。それですっかり動きを止めたところで、再び同じ攻撃が襲い掛かったのだ。
『やるではないか。意表を衝くのは奇襲として当然であり最善手だ。特に二段構えとなっているのは称賛に値する。ほんの短い時間で良く練られている』
「……っ!」
“アドラー”も知る古代の言葉での呟きが聞こえて、彼は乾坤一擲の奇襲が失敗した事を悟る。が、それでも死体と瓦礫の中に伏せたまま、動かない。まだ逆転の目はあると考えていたからだ。
それを見抜いているからか、殺人鬼は泰然とした態度で呼びかける。
『さて、どこに隠れているかな。貴様はどうやら私の居る世界と同じところから来たようだが……どうやってここに来た? 私の知らない技術でもあると言うのかね?』
その問いかけに、“アドラー”は攻撃で応じた。四方から押し寄せる壁が、その殺人鬼を押し潰そうと迫ったのだ。
でもそれは、あっさりと跳躍されて躱される。
『私と語る言葉はないとでも言うのかね、人間風情が……私がこうして呼び掛けてやっている有難さを考えもしないか。どうなのだね、そんなところで寝転がっていないで、答えて貰いたいものだ』
『……ここに居るって気付いてたのか。なら、何でこっちに直接仕掛けねえ?』
不気味な仮面の下から覗く金色の眼が、“アドラー”の根転がっている辺りを見据えて、そしてかち合う。
すっかり隠れている場所を看破されていると知って、彼はフラフラと起き上がっていた。
『それでは詰まらないだろう? 何より、そう言うのは罠を張っているものだ。もし私が真っ直ぐ貴様を目指さば、別の罠が待ち構えている……違うかね?』
『デカい態度を取るだけの事はある。こっちの狙いをどこまでも見抜きやがって……不愉快な男だな』
『不愉快なのは貴様だ。たかだか人間が、私を下に見るだと? どこまでも傲慢で……ますます人が嫌いになりそうだ』
ゆっくり、非常にゆっくりと、その殺人鬼は一歩を踏み出す。それは“アドラー”の奇襲を警戒しての事か。
用心深いその姿を目にして、隙を窺っていた“アドラー”は眉間に皺を刻みながら嘲笑した。
『さっきから大人しく話を聞いていりゃあ、まるでお前は人間じゃないとでも言いたげだな。神か精霊でも気取ってんのか痛々しい』
『気取ってなど居ない。それが事実なのだからな。私は精霊であり、やがては神に至る存在だ。貴様如き猿が嘲笑して良い相手ではない』
『……精霊? おいおいマジかよ、そんなの居たのか? とっくに滅んだ劣等種族じゃねえのかよ』
『劣等種族? 貴様ら人間が、私達を劣等と呼ぶか? たかだか数十年で死し、相食む事しか知らぬ我欲の塊が、精霊を見下せると? 笑わせる』
心の底からそう思っているのか、殺人鬼は露骨に“アドラー”を嘲笑する。
『私に傷一つ負わせられず、腕を斬り落とされては無様に逃げ回っていた貴様が、私に勝るだと? ああ、確かに見っとも無さでは貴様の勝ちだ。私より優れているのではないかな?』
『貴様ら精霊の存在が確認されなくなってから既に二百年を超えている。それはつまり、お前らが人間よりも生存能力に欠けていたって事だろ? それが劣等じゃ無かったら何なんだ?』
『私はここに居るぞ。いつ精霊が絶えた? 寝ぼけた事を抜かすな猿が』
不愉快極まりない、と殺人鬼が鼻白む中、とうとう堪え切れなくなったのか、“アドラー”は腹を抱えて笑いだす。
『はははは……馬鹿な奴だ。良いか、今のお前が喋っている言葉……“偉大な言語”は俺の居た時代から千五百年以上は遡る古典言語なんだよ。敢えて俺も、それに合わせて喋ってやってるんだけどな……流石におバカな精霊でも、俺の言っている意味がもう分かるんじゃないか?』
『ほう、貴様は未来から来たとでも言うのか? 馬鹿なことを……』
その言葉を、再び“アドラー”の笑い声が遮った。
『お前が通って来た歪ってのはなあ、別の世界、そして時間すらも行き来するのを可能としちまう驚きのものなんだよ。錨と門を作らない限り、任意の場所や世界、時代を行き来する事は出来ねえんだけどな。何にせよ、そのお陰で時代が違う者同士が出会えてるんだが』
『ほう……面白い。丁度良い抜け道があったから利用させて貰ったが、そういう事だったのかね。褒めて遣わすぞ、猿よ』
『へっ、そうやって分不相応に傲慢な事を言ってるから、アンタら精霊は滅ぶんだ。現に、二百年以上も精霊の存在は確認されてねえって言ってんだぜ? 現実見ろよ、莫迦精霊。だから滅ぶんだ』
尚も言葉を続けようとした“アドラー”だったが、それを風切り音が遮る。
窓から入り込む陽光が、剣を鈍色に光らせていた。
『これ以上、貴様と語るのは時間の無駄らしい。とっととその魂、貰い受けようか』
『……はぁ? お前本当に訳分からねえ奴だな。これから滅ぶ劣等種族の分際で、いつまで夢を見てるつもりだ?』
『ほざけ猿。私は主人。“世界”を統べる存在。人の世など、私が阻止して見せる。貴様らのそのエゴが、世界を食い潰す前に!』
主人と名乗ったその精霊は、切っ先を“アドラー”に突き付ける。微かな震えは、怒りによるものか。
その鋭さに固唾を飲んだ“アドラー”は、強がりからか笑って見せるのだった。
『こうして二百年も昔に絶滅したとされる劣等種族をお目に掛れるとは、面白い事もあるもんだ。仲間にも自慢できそうで何よりだなァ!』
『好きに言わせておけば……この場を切り抜けられるなどと思わん事だ。所詮貴様の実力では、私を倒せはしないさ!』
金属の打ち鳴らされる音が、辺りに響き渡る。
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