第三話 罠に嵌って木立に入って⑦
「何だったんだろうな、この前のアレ……」
「何の話です?」
自販機前に設置されたソファーに腰掛け、ぼんやりと天井を眺める吉門 海斗係長に、月夜野 和馬は怪訝な顔をしながら訊ねていた。
「いや、あっただろ。ほら……あのクソ課長が俺らに命令してあの靄の男を捕まえようとしたやつ」
「靄って……ああ、あの赤黒い変なのを操ってる男ですか。それが何だって言うんです?」
「いや、お前だって気にはなるだろ。アイツが何者なのかとか。前から何回も目撃してる訳だし」
「気にはなりますけどー……妄想にしかならなく無いですか? 考えがあっちこっち行っちゃって、纏まるものも纏まらないですよ」
コーヒーに口をつけながら、若干気の抜けた調子なのは、月夜野にも疲れが溜まっている証拠だろう。
「大丈夫か月夜野?」
「疲労とストレスと……何かヤバいです。頭がグワングワンしてぐわーぐわーです」
「露骨に語彙力が落ちて来たな」
明らかに様子がおかしくなって来た部下に、吉門は自身の疲労も忘れて本気で心配の目を向けていた。
しかし、そんな上司からの心配を余所にコーヒーを一気に煽った月夜野は、ソファーに座ったまま項垂れて、ぼそりと言った。
「……あんまり、深入りしない方が良いかもしれないですね」
「何に、とは聞くまでも無いんだろうな」
「です。ここ最近、輪を掛けてヤバい気配がプンプンします。吉門係長にはご家族もいらしたと思いますし、退職すら視野に入れた方が良いかもしれませんよ?」
「急に何なんだお前は」
上司に対して退職勧告をして来るという、場面によってはとんでもなく失礼極まりない提案をしてくる部下に、流石の吉門も顔を引き攣らせた。
だが、月夜野は疲れてのせいかそこまで気付けないらしい。尚も草臥れた調子で真剣な話題を続けていたのだった。
「係長だって今がヤバいのは余裕で感じ取れるでしょう? この前は靴先だけで済みましたけど、今度は全身消し飛ばされるかもしれないんですよ?」
「……お前が警告くれなかったら、確かにあの時はそうなっていたかもな」
脳裏に何度目とも知れず過るのは、松ヶ崎警察署の留置所での出来事だ。訳の分からない男の、訳の分からない力によって、吉門の靴先が何の前触れもなく消し飛ばされたのは、思い出しただけでも冷や汗が湧き出る。
「お子さんや奥さんの為にもご自身の身の安全を考えた方が良いのではないですか?」
「親や夫らしいことと言えば家に金を納める事くらいしかしてこれなかった人間だ。俺が死んだところで、家族にそこまで大きな変化はないだろうさ。それを言うなら、お前ら部下の方が心配なんだがな」
自嘲と自虐を交えながら、吉門は目を眇める。
「……自分らですか? 何でまた」
「これからの未来がある人間が死ぬのは、それこそ損失だからだよ。月夜野、お前は恋人いんのか?」
「居ませんが……何か? もしや、俺のケツは渡しませんよ」
「誰もそんなこと言ってねえよ馬鹿チンが」
至って真面目腐った顔と口調で自身のケツに手をやる月夜野に、苛立ちよりも呆れとそれに伴う笑いがこみ上げてくる。
「……ったく、余計な事で笑わせて無駄な時間取らせんな。良いか、俺はもう枯れた中年に片足ツッコんでるが、お前はまだ次の世代へ命を繋ぐ世代だ。それが未来のある人間ってんだ。それこそ、ここでその未来を潰すのは好ましくないと思うぞ?」
「はぇ~、この歳まで童貞でやって来た自分には関係の無い事っすね」
「張り倒すぞ貴様」
真剣な話の最中だというのに惚けているとしかいいようのない態度をして見せる部下の脳天に、手刀を落とす。
部下がこれで目が覚めてくれれば良いのだがと思っていると、果たして月夜野は水浴び後の犬みたく頭を振っていた。
「どうだ、意識はクリアになったか?」
「クレアボヤンス……」
「クリアなのかぼんやりなのかどっちなんだ」
「すいません、今さっき正気に戻りましたですはいおっぱい」
「まだ戻ってないは了解した」
しょうがないので吉門は再度手刀を月夜野の脳天に叩き落とす。
「しっかりしろ月夜野! お前過労でマジおかしな事になってるじゃないか! 普段の冷静さはどこ行った!?」
「……お、お手数をおかけしました。はい、戻ってます、はい」
「そうか……お前がおかしくなったら俺の心労も増大しかねないからな。気を付けてくれ」
脳天を摩りながらしっかりとした受け答えをするようになった月夜野を見て、安堵の溜息を吐く吉門。
続けて彼は部下に頭を叩いてしまった事への謝罪を述べようとした、矢先。
「おや、吉門係長に月夜野じゃないか。丁度良い、暇そうで良かった」
「……榮森課長。いかがなさったので?」
出し抜けに背後から掛けられた、神経質そうな男の声。その聞き慣れた、厭味ったらしい声の主は、吉門にしてみればウマの合わない上司のものだった。
「何、今から出動だ。私直属の部下である君らも当然出動だぞ。鳳主任らにも伝えておくように」
「しゅ、出動ですか? 一体何処に……」
「場所は後で伝える。良いから出動準備を整えろ。呑気にしている暇はないのだぞ。この前の失態を取り戻す良い好機じゃないか」
「……はい」
それだけ言うと、榮森はその場を後にする。彼の背には“アーベント”と見慣れぬ少女を一人、連れていた。
その背中を見送りながら、吉門は不快そうに顔を歪め、呟くのだ。
「榮森……何を企んでいる? あんな少女まで連れて」
「って言うかあの娘、前に会った事ありますよ。ほら、放火魔事件の時の聞き込みと、後は女の子が街中で追われてこっちが保護に駆け付けた時に……」
私服姿の少女の背中を見送りながら月夜野が思い出したように言った言葉を、しかし吉門は肯定し損ねていた。
「そうだったか? いまいち覚えていないが……それより、奴の豹変ぶりが目に付くな。少し前までは厭味ったらしくともここまで尊大で椅子に踏ん反り返り、勝手に動き回るような人間ではなかった筈なのに」
「やっぱり、あの“アーベント”とか言うのが姿を見せる様になってから、明らかに活発ですからね」
「探りたいが……この様子だと探らせるほど間抜けでも無いのだろうな。腹立たしい」
秘密主義、とでもいうのだろうか。
警察署長ですらも深くは知らない様子の案件を握っている榮森は今、何を考えて何の為に行動しているのか。
「……考えたところで仕方ない。出動準備だ、急げ月夜野」
「またこの前みたいな現場に行くんだとしたら、物凄く気が乗りませんが……」
「安心しろ、本当に無理難題を言ってくるような俺が刑事生命をかけて榮森は止める。良いから行くぞ」
「……了解しました」
不穏な気配を感じ取りながら、二人は上司に言われるがままに動き出す――。
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