エピローグ
入り慣れた、見慣れた我が家の風呂は、本当に心を落ち着けてくれるものである。
じんわりとした温かさが冷えていた体に染みわたり、疲れが取り除かれていく感覚は至福の一言に尽きた。
「すばらすぃーぜー」
「お、やっぱ若か。ふにゃふにゃに溶けてんな」
「そんだけ気持ち良いんだって。烏の行水やってる人の気が知れないね」
夏場ならともかく、今は丁度冬と春の間の微妙な時期である。寒い日はまだまだ本当に寒いのだから、体がポッカポカになるまで湯船に浸かる事は何らおかしい事ではないのだ。
「ところで、オーバンの嬢ちゃんがやってくれたって言う、風呂場での歪発生抑止はどうなったんだ?」
「今のところは平気だな。コンスタンディノスさんが来てからは改良に改良を重ねてどうにかなったっぽい。ゆっくり風呂に突かれるって良いねえ」
「長湯し過ぎて逆上せるとか勘弁してくれよ。わからの体デカいんだから、抱えて服着せるのだって一苦労なんだぞ」
「心配し過ぎだって金さん。この歳でそんなヘマしないっての」
そんな事になったら羞恥心で暫くは悶える羽目になりそうだ。もっとも、そうはならない自信しかない。
何故なら俺は長湯のプロだから。
「そういや若、綾音ちゃんは最近どうなんだ?」
「……どうってのは?」
「一緒に帰るの止めて、結構色々言ってると思うんだけど。大丈夫なんだろうな」
「大丈夫も何も、“ノクス”の奴が本格的に動き出して来てるんだぞ? ここで下手に一緒に行動してみろって。アイツが変な事に巻き込まれちまうぞ。そうやって警告してくれたのだって金さん達じゃんか」
今度は一体どうしろというのだろう。
これまで散々あれこれと言われただけに、ついつい声と言い回しに棘みたいなものが出てしまって、それを察した金さんは苦笑しながらシャワーを頭から被っていた。
「そんな気分を悪くしないでくれって。単純に心配なだけなんだからさ」
「心配なら見に行けば良いだろ」
「俺が行ったところで若と同じく隠し事について質問責めされるだけだよ。それに歳は確かに近いけど、若と違って同年代じゃねえ。それじゃあ気付けるものも気付けないって」
だから若に訊いてるんだぞ、と言う金さんは丁度シャンプーで頭を洗い出していた。
「別に、普通じゃねえの? 俺に言われても良く分かんないけど」
「おいおい、そんなんじゃ綾音ちゃん検定三級にも届かないぞ」
「何だその検定は」
髪を洗いながら明らかに茶化しだした彼の態度に、俺は顔を引き攣らせる。黙っておけば好き放題言ってくれやがってと、俺はゆっくり湯船から上がった。
「俺にそんなこと言うなら。金さんは大手さんとどうなんだ?」
「大手? 何で急にアイツの名前が?」
「大体一緒にいる癖して何言ってんだ。金さんだって悪くないと思うから行動してんだろ」
怪訝そうな彼の声に応じながら、俺はひっそりとシャンプーを手に取る。
「頼んでも誘っても無いのに向こうから来るんだよ。もっと好き勝手動き回って良いってのにな」
「ほー……」
俺は無言でぽん、ぽん、とシャンプーのヘッドを押し、溶液が金さんの頭に掛る。あっという間に彼の頭は泡塗れになっているが、今も頭を洗っている最中の本人は気付いた素振りが無い。
「何だ若、俺の事を疑っているような相槌の打ち方だな」
「まさに疑ってるからな」
「……ったく、だから何もねえよ。それより何か変なんだけど」
「変てのは?」
「いやあ、ずっと頭洗ってんだけどシャンプーが流れて行かないって感じで……あ、若テメエ!」
「やっと気づいたか」
シャワーで頭を洗い流していた金さんは、ここで漸く薄目を開けて、シャンプーを持っている俺の姿を認めたらしい。
「道理で幾ら流しても泡が無くならねえわけだ!」
「頭がキレイキレイになっただろ?」
「その前にシャンプーが勿体無いでしょうが!」
「一々人を茶化すからだぞ。んじゃ、お先」
「あ、こら!」
親みたいな事を言って怒る金さんを置き去りに、俺は浴室を後にする。
ポッカポカになった体は多少の寒気などものともせず、それどころか丁度良いまであるくらいだ。
「さてさて、夕飯づくりの手伝い行くか……」
「若ぁあああああ!」
湯冷めしない様に素早く服を着て、浴室から聞こえてくる金さんの怒声も聞こえないふりをして脱衣所を後にする。
その途中、廊下の角から出て来た三毛猫の三毛衛門を確保するのは忘れない。抱き抱えて撫でてやると、気持ちよさそうに目を閉じはするものの、ゴロゴロと喉を鳴らす事はしない。
「頑固な猫だな、お前。気持ちいなら喉鳴らして良いんだぞ?」
「…………」
返答が無いのは百も承知で話しかけてやれば、三毛衛門は何を考えているのか分からない目で可愛らしく首を傾げていた。
「てかお前は全然鳴かないな。ニャーって鳴いてみ、ニャーって」
「…………」
「ニャー」
「…………」
実に静かな猫である。余り人にも懐かず、人前に出ず、でも餌の時間などと言った部分を覚えるのは早かった。
今まで出会って来た猫とは明らかに違うのだが、これはこれでありだ。
「お前みたいなツンデレがいつデレるか楽しみだな」
またたびを与えて泥酔させるのも悪くないが、それはドーピングみたいなものである。素でデレさせなければ勝ったとは言えないだろう。
ではどうやってこの生意気な猫を屈服させてやろうかと考えていた、その時。
「若、若!」
「何だ、騒々しいな」
「丁度良かった、居間に来てくれ! オーバンがとんでもない知らせを持って来て……」
「……アイツ、今度は何をやらかした?」
血相を変えてやって来た組員の言葉を聞いてじっとしていられる筈もなく、俺は三毛衛門を降ろすと居間へ急ぐ。
果たして開け放たれた襖から部屋に入ってみれば、そこには重苦しい空気と、それを無視したニュース番組の音声が流れていた。
余りにもミスマッチな雰囲気に面食らいながら、俺は室内を見渡してこの場の全員に問う。
「何、何これ、何があったの?」
「……マモル、落ち着いて聞いて欲しい」
「オーバン、何かやらかしたんだな?」
「やらかした、訳ではない。ただ……」
「ただ、何だ?」
座布団の上で正座しているオーバンを見下ろしながら先を促してみれば、彼女は意を決した様子で告げた。
「歪が、松ヶ崎市の中心市街地で発生してしまったみたいなのだ」
「……は? いや、待ってくれ」
「私が展開させているセンサーの観測した所によれば、間違いなく人間がやってきた。後はもう、分かるだろう?」
「分かるかよ! 何でそんな事になってんだ!? もしかして“ノクス”の連中が……?」
俺が混乱している間にも話を続けようとするオーバンの問い掛けを放り投げて思考を整理する。
だが、それを遮ってオーバンは言った。
「ノクスの可能性もなくはないが、原因は恐らく別だ」
「別? っていうと……」
「皆からの頼みで、風呂場に歪が発生しないように処置を施したのは周知のとおりだと思う。だが、その結果としてだな……」
「もしかして、おいまさか」
ついさっきまで安心して風呂に入って、ぽかぽかになっていた筈の体温が一段下がる。
「歪の発生を強引に抑え込んだせいで、発生箇所がランダムなってしまったらしい」
「嘘だろ!? 嘘だと言ってよオーバン!?」
ついつい、彼女の両肩を掴んで揺さぶっている俺が居た。
それもそうだ、何せランダムで歪が発生してそこから人が出てくるとなれば、街中だったら大騒ぎになるのが必定なのだから。
「じゃあ、街中に毛利さん達みたいな人が街のど真ん中で現れてる可能性があるって事だよな?」
「それはあくまでも最悪の最悪を引いた場合だから、まだ確証はない。実際に行って確かめて見ない事にはな。ただ単に歪が発生しただけなら良いのだが……」
深刻な表情でオーバンがそこまで言ったところで、不意に点けっぱなしだった居間のテレビから切羽詰まった声が聞こえる。
『臨時ニュースです。先程、松ヶ崎市内で散弾銃と思しきものを所持した外国人らしい男が確認されたそうです。現在、警察が捜索に当たっていますがまだ確保には至っていないとの事ですので、住民の皆様は無闇な外出を控えるようにしてください。繰り返します……』
「…………」
居間の空気は、凍り付いた。
この場にいた誰もが察したのだ。オーバンの言う、最悪の最悪を引いてしまったのだと。
「ど、どうしよう、マモル……どうしたら良いと思う?」
「どうしようは俺の台詞だよ! ああもう、くそっ!」
焦りつつ、だけどそこか他人事に思えるオーバンの物言いに、思わず悪態を吐きながら俺は踵を返す。
すると、俺の背中に向けて組員の一人が声をかけていた。
「若!? どこへ行く!」
「もう四の五の言ってられないんだ! 街に現れたそいつを回収してくる!」
「待ってくれ、棟梁の許可も取らずに勝手をしたら……」
「そんなこと言ってられる状況かよ! そっちの方で父さん達には伝えといてくれっ! オーバン、後で電話するからモニターからナビゲート頼む!」
「ちょ、マモル!?」
言いたい事だけ言って駆け出した俺は、顔を隠すために手頃な位置にあった仮面を手に取って玄関に急ぐが、そこで気付く。
偶々(たまたま)手に取ったその仮面は、この前も着けたひょっよこの面だったのである。
「何でまたこれなんだよ!?」
思わず叫びながら、しかし戻る手間も惜しくて、俺は玄関から飛び出していたのだった。
次回(次章)更新は七月一日からでふ。




