第17話 花婿と花婿の母親には負けません
まどろみの中で重い瞼を開こうとするが、額が痛んで難しかった。
よほど不快な残夢に囚われているのだ、とルドベキアは懸命に抗おうとする。
「……様、……キア様」
グレタの声だと気づいたルドベキアは、慌てて飛び起きようとしたものの、身体のあちこちが激しく疼いて微動だにしなかった。
「うなされていらっしゃいましたが、大丈夫ですか? 初めての夫婦の営みのお疲れに加えて、冷めきった湯に長時間浸かられたことで、お身体が冷えてしまったそうです。ルドベキア様は、半日ほど発熱で苦しんでおられました」
「そう……じゃあ、もうすぐ夜ってこと? それなら、引き続きここにいればいいわね」
いつの間にか自室に寝かされ、グレタが看病してくれていたようだ。
態度を急変させたウエスト夫人から、大学進学を諦めるように言い含められ、激高して倒れたことを思い出す。機嫌を伺うような甘言で絡め取っておいて、実は母息子で口裏を合わせて画策していたのだ、とまたルドベキアの頭の中は沸騰する。
ランドルフもこのままこの家に留まることを望んでいる知って、あまりのことに文句の一つも言ってやろうと食堂を飛び出し、意識が飛んでしまった。
「私、興奮し過ぎて倒れちゃったのね。恥ずかしい」
「他家での慣れない暮らしで、気疲れもあったのでしょう。しかもランドルフ様がいきなりお目覚めになられて、本当の奥様になるお話が進んでしまいましたから。もう少し時間が経てば、お心も落ち着きますよ」
絞った冷たいタオルでルドベキアの額を冷ましながら、グレタは穏やかな表情を浮かべながら頷いた。
「あー、無理無理。お前のために他の女で練習したって聞いて、嬉しがる妻がどこにいるのよ! 仮にも夫になった人から、ついさっき慌てて覚えた手練手管で迫られたって気持ち悪いだけじゃない!! それを他の女と比べてお前は揉む胸がない、潤いもなくパッサパサだって責められたのよ? アイツ枕の下から奇術師みたいに香油を取り出して、そこら中に振り撒いたのよ? 愛情なんて湧く? さすがに惨めで、一人朝まで号泣したわよ」
やり場のない怒りと哀しみを、ルドベキアは吐き出した。
「そのような無体をなされたのですか!? ランドルフ様は」
「無体どころか、アイツは私を妻だなんて思ってないのよ。目覚めてから今日まで、一度だって名前を呼ばれたことがないんだもの」
「お名前で呼ばれたことがない? 一度もですか?」
損得を秤にかけて物事を決断する精神的に逞しいルドベキアのことを、グレタは褒めることも多いが、苦言を呈することもよくあった。
けれどこの婚姻に関しては、ここまでずっと応援してくれていた。
これからはウエスト家の跡継ぎ夫人としての気苦労と、それに係る様々な義務がとんでもない重しとなって圧し掛かってくるはずだ。
貴族の令嬢は一度嫁げば相手の家の言いなりになるしかなく、ルドベキアは大切な純潔も失った。それでも嫡男を産めば、この婚姻は大成功だったと思える日が来るのだろうか……否。
ルドベキアには実家のスウィフト家に利益をもたらす新しい薬草を探し、その栽培方法をみつける目標があった。それを諦めなければならないなら、何のための婚姻だったのか。
「今朝になって約束してた大学も行かせないって言い出したのよ、あの母息子。騙されて、私の人生終わりだわ」
心が引き千切られてしまっていた。
「ルドベキア様、すでに起こったことをなかったことにはできないのです。婚姻を決める前に戻り、どうすれば大学進学ができるか、借金を頼めるところはなかったか、と考えることは時間の無駄でございます」
「雇い主の貴族の令嬢に無礼な言いぐさね、でも安いお手当で働かせているのだから許すわ。これからどうすることが最善かを、冷静に考えるべきということね」
はい、とグレタが頷く。
これまではお飾りの妻でよかったが、息子が嫡男としての務めが果たせるなら、ウエスト家とすれば貴族社会に公にしたいのだ。そのための大々的なお披露目だ。
夫人は、ウエスト家のしきたりや自らが担ってきた仕事をルドベキアに引き継がせ、社交もどんどんさせる心づもりだ。子が残せるかはこれからのランドルフの体調もあるので微妙だが、ヤツの二人の姉から養子をもらっての爵位継承話は生きている。
外聞の悪い離縁、はないだろう。
ウエスト家は息子夫婦を、完璧な後継者にしようと考えを変えた。ランドルフ自身も嫡男として、その考えを受け入れた。そういうことだ。
「大学進学はもう無理ね、でも薬草の勉強は続けたいの。それならウエスト家を怒らせるのは得策ではないから……従順な妻を演じながら譲歩を引き出すべきだわ。強要されることを完璧にこなせば、週に一度ぐらいは大学の図書館に通えるかも」
現金なもので、学びを続けるにはどうすればいいか? を考えたことでルドベキアの中で一条の光が見えた。
「お父様であるスウィフト伯爵から、お願いしていただきましょう。晴れて正式な妻になったのは喜ばしいが、娘の夢を全て奪わないでやってほしいと」
「父様にそんな根性があるかしら。でも手紙の一つも書いてくれれば、了承が得られる可能性は上がるんじゃないかしら。何だか元気が出てきたわ!」
ありがとう、とルドベキアはグレタに礼を述べた。
──悩んで悔やんで人は時間を浪費する
「ねぇ、7年を無駄にするってどんな感じだと思う?」
仮死状態だった期間を無駄だと決めつけるのは乱暴かもしれないが、ウエスト夫人は身体機能がどれほど回復しようと、ランドルフが騎士を目指すのは無理だと言った。
本来なら13歳から20歳の間は騎士学校で学び、その後は軍に配属され、下積みを経て少しずつ地位を上げるはずだったのだ。
武官を輩出する家の生まれではないルドベキアは、そちらの世界のことは分からない。ただランドルフが一番貴重な、長い長い時間を失ってしまったことには違いなかった。
ならば遅ればせながら文官を目指そうにも、その登竜門である国立学院の入学資格を、20歳のランドルフはすでに失っている。ウエスト夫人が考えたように、体調と相談しながら領地運営と財産管理をするのが得策だろう。
家は代々軍の将官を務める名門伯爵家で、父親は間もなく大将に昇進が噂される人物の一人息子にしては、物足りない経歴かもしれない。
とはいえ物足りなくとも、家も財産も妻も、場合によっては跡継ぎも手にできる。
どんな文句があるというのか。
「婚約して7年、花嫁になるために貞操を守り続け、あらゆるマナーと教養を身に付けようと頑張ってきたはずが。ある日突然他に好きな子ができたと、婚約破棄されて捨てられる令嬢という感じですかね」
7年を失う例えを、グレタはそう表現した。
それは悲惨だ、お先真っ暗だ。傷物扱いで、後妻に入る道しかないではないか。ルドベキアにとって実感が伴い過ぎる例え話で、身につまされた。
この時代、あらゆることが女性に不利にできている。
それでも男のランドルフは7年を失っても生きる手立てがあるのだから、ルドベキアには遠い存在だった。




