第5話 まだ帰らないのは、負けたからじゃない
階段を下りている途中で、砥上が振り返った。
「この後、何時まで空いてる?」
俺は一段下の所で足を止めた。
「四時くらいまでなら。どうした?」
「何か食べていかない?」
店の利用時間は三時までだった。
最後の問題を片づけていたら羽鳥さんに声をかけられ、俺たちは飲物を飲みきって席を立った。次を始められないなら、ここで解散だと思っていた。
「……もう一回やるためじゃなくて?」
「どこで?」
「いや、どこかで」
「ここで勝った分なら、もう紙に書いてあるよ」
砥上が鞄の外側を軽く叩いた。
点数用紙は結局、彼女が持ち帰ることになった。
「違う。食べたいものがある」
下まで降りた所で、砥上は右の道を指した。
店へ来る時に、揚げ物の匂いがしていた方だ。
小さい看板に、焼きコロッケサンドと、きのこのチーズサンドが並んでいた。
ベンチのある持ち帰りの店で、前の客が受け取った一つは、写真で見たより厚かった。
「どっち?」
「それを決めてる」
砥上は店先から動かなかった。
配置の問題より長く見ている。上から二つの品名を、もう三回は読んでいた。
「コロッケの方、人気なんだな」
「でも、きのこは今だけなんだって」
「じゃあ、そっち?」
「今だけなら、いつもある方が長く売れてるのも分かるでしょ」
その理屈でいくと、永遠に決まらない。
俺は値段の方も見た。一つずつなら、今日の残りで買える。
「二つ買えば」
言ってから、さっきの客の袋を見た。
砥上も見ていた。
「お昼、食べてきた」
「俺も」
「榎並が食べたい方を、半分こするのは?」
一瞬、考えた。
この二つなら、俺はコロッケだろうか。けれど、店の隣には焼きたての甘いパンの札も出ていた。
気になったが、今日はこちらの希望に合わせた方がいい。
「砥上の食べたいのでいいよ」
答えると、彼女はまた二つの写真へ戻った。
しばらくして、きのこの方を指す。
「今日は、これにする」
「決まった?」
「うん。コロッケの方は、次」
店の人へ注文を伝えてから、俺の方を向いた。
「次、また付き合って」
返事が遅れた。
ゲームの箱も盤もない所で、彼女が次の予定を聞いている。
「再戦の日に?」
「再戦の日でもいいけど。食べに来る日でも」
砥上が財布を出したので、俺も手をかけた。
「今日は俺が──」
「自分の分、払うよ」
彼女の小銭が先に皿へ置かれた。
俺は財布を閉じた。どうしてそうすぐ、何か返す方へ考えてしまうんだろう。
「榎並は、食べないの?」
聞かれて、もう一度、隣の札を見た。
「こっちの、りんごのパンが気になる」
「あ、本当だ」
「でも、今ここで買うと、四時までに食べるだけになりそうで」
砥上も残りの時刻を確かめた。
店の人がサンドを紙に包み、袋へ入れている。
「じゃあ、それも次にしよう」
「砥上はコロッケだろ」
「別の日にすればいい」
「二回?」
「二つ食べたいんだから」
言うのが早かった。
俺は断る理由を探すより先に、自分の土曜の予定を考えていた。
「来週の土曜なら、午後空いてる」
「わたしも。何時にする?」
砥上が袋を受け取った。
並んでベンチへ座り、彼女は包みの端を折り返す。湯気と一緒に、焼いたチーズの匂いが上がった。
俺は店先の小さいパンを一つだけ買って、隣へ戻った。
紙袋を開くと、砥上が中をちらっと見た。
「りんごじゃないんだ」
「そっちは、次にしておく。これ、小さいから」
「小さくても、買うんだ」
「見てたら、食べたくなった」
砥上は頷いた。自分のサンドへ目を落とし、はみ出したきのこを包みの中へ戻す。
「ちょっと熱い」
「ゆっくりでいいよ。俺、まだ一口も食べてないし」
俺が袋を外している間に、彼女はもう一度、小さくかじった。
さっきまで次の予定を決めるのが速かった人が、食べる方は急がない。俺も袋を膝へ置き、一緒に座り直した。
「来週は、先にどこか寄る?」
「買物したい所がある」
「じゃあ、そこで会ってからこっちへ来よう。時間は、店の場所を見て決めたい」
スマホを出した俺の横で、砥上がサンドを一口食べた。
噛んでから、紙の中を真剣に見ている。
「……きのこにして、よかった?」
頷いた。
続けてもう一口食べ、それからやっと答える。
「よかった。でも、コロッケの味はまだ分からない」
「次の一回も消えないってことか」
「消さないでね」
俺の画面に、来週の土曜が開いていた。
砥上が食べ終わるまでに、待ち合わせの候補を二つ出す。
彼女は自分の指が汚れているのを見て、俺の端末へは触らず、言葉で一つを選んだ。
「じゃあ、そこ。一時半」
「了解」
入力した後、俺は自分のパンをかじった。
砥上は残った最後の角を、紙から慎重にはがしている。
さっき駒を落とした手なのに、今度は一つも落とさなかった。




