第32話 お姉ちゃんの彼氏は、手加減しない
伊都の家では、俺の靴だけ向きが揃うのが遅かった。
「榎並岳です。今日は、お邪魔します」
玄関で言うと、母親が居間へ案内してくれた。
伊都は家の奥を指し、こっち、と俺を呼んだ。
いつも待ち合わせる彼女が、今日は自分の家へ案内してくれる。
それが分かるたび、鞄を持つ手へ力が入った。
「岳。わたしの、彼氏」
父親へ紹介され、俺はもう一度頭を下げた。
伊都が普段より、少しゆっくり言った気がする。
こっちを見た顔は、俺が家で彼女を紹介した時と似ていた。
「この前は、伊都がお世話になりました」
「いえ、俺の方が、待ってもらって」
途中で止めた。
箱の中から問題の紙を探した話までする必要はない。
伊都は俺の隣で、何も付け足さずに笑っていた。
机には、飲物と小さい菓子が出ていた。
座る前に礼を言っていたら、廊下の方から弟が顔を出す。
「お姉ちゃんの彼氏?」
「さっき、言ったでしょ」
「本人には、聞いてない」
俺の方へ来たので、うん、と答えた。
弟は一度頷き、机の菓子より俺の鞄を見た。
「ゲーム、する?」
「そのつもりで、一つ持ってきた」
「じゃあ、僕もやっていい?」
俺が伊都を見る前に、本人が答えた。
「最初の一回だけね。今日は、わたしが岳を呼んだんだから」
「一回でいい」
返事が速かった。
弟が椅子を引く。伊都は俺の向かいへ座り、机の端を空けた。
彼女の家へ来たのに、最初の対戦相手は、彼女ではなくなった。
箱から七つの小さい駒を出す。
交互に一個か二個ずつ取り、最後を取った方が勝ち。それだけの短い遊びだった。
「先にやる?」
「うん」
弟が七つを数えた。
子供なら、ここは負けてあげる方がいいんだろうか。
そんなことを考えた所で、彼が俺を見た。
「来る前、お姉ちゃん、ちゃんとやってって言ってたよ」
伊都へ顔を向ける。
「今、言うことじゃなかった?」
「いや。聞けてよかった」
七つの前へ手を戻した。
弟も、本気でやって、と付け足す。
分かった、と返して、彼が取るのを待った。
最初に二つ取った。
残り五つから、俺も二つ取る。
机には三つ。
「二つ取ったら、最後の一つ、そっちだよね」
「うん」
弟は一つだけ取った。
俺が残った二つを取り、自分の前へ置く。
「……一つでも、二つでも、駄目だった」
彼は最後の三つがあった所を見た。
俺が頷くと、今度は取り分けた駒をもう一度並べる。
次を始めるつもりかと思ったけれど、最初の七つまでは戻さなかった。
「最初、一つだけ取ればよかった?」
伊都が、あ、と口を開いた。
けれど先には答えず、弟の指した六つを見た。
「何で、そう思った?」
「三つにした方が勝つから。六つなら、そっちが何個取っても、次に三つにできる」
俺も、そう、と返した。
伊都は自分の指を引っ込める。
「説明、先にできちゃったね」
「うん。もう一回なら、勝てるかも」
弟が俺を見た。
俺はつい頷きかけ、伊都の前にある、まだ開いていない菓子を見た。
「今日は、一回だろ。また来た時なら」
「……分かった」
弟は残りの駒を集めた。
父親に同じことを試してみると言って、自分で説明しながら向こうの机へ行く。
伊都は見送ってから、俺の方を向いた。
「また、来る方も決まったんだ」
「今、俺が言った?」
「言ったよ」
彼女の方から次を作ってくれる時と違い、今日は俺の口から出ていた。
悪かった、と言う前に、伊都が嬉しそうに笑う。
「じゃあ、次もわたしが呼ぶ」
俺の返事を聞いて、彼女は向かいの椅子から立った。
空いた弟の椅子を戻し、その隣へ自分の椅子を寄せる。
「こっちでいい?」
「うん。問題、見やすいし」
「それだけ?」
横へ顔を向けたら、近かった。
「……俺も、こっちにいてほしい」
伊都はそれで座った。
母親が、飲物は足りてる、と聞き、二人とも、はい、と同時に答えた。
気を遣って隣を離れるほどのことではないのに、コップを持つ手だけが少し遅れた。
「伊都、いつもどこで遊んでる?」
「ここ。部屋だと、広げる所が足りなくなるから」
「じゃあ、今日は片づいてる方?」
「今日は、全部ちゃんと戻してある」
俺の家の箱へ話が戻ってくる。
伊都が用意していた配置の箱を開けると、すぐに問題の紙が出てきた。
「ほら」
「今、勝ったみたいな顔したな」
「まだ始めてないよ」
彼女が一枚選んだ。
俺も自分の盤を出す。机の傷も、窓から見える家も、俺の家とは違っていた。
その中で伊都が袖をまくる動きだけ、いつもと同じだった。
「難しい方にする?」
「する。せっかく来たし」
「うん。わたしも、そうしてほしかった」
奥の机から、弟が父親へルールを説明する声がした。
伊都はそっちを一度見て、自分の盤へ戻った。
俺も解説する方へ回らず、一枚目を置いた。
帰る時、弟が次は最初に一つ取ると教えてくれた。
じゃあ俺は後から考える、と返す。
靴を履く横で、伊都が小さい声で言った。
「次も、最初の一回だけだからね」
俺が頷くと、彼女は家の人へ、少し送ってくる、と声をかけた。
今日は俺が来た方だった。門の外へ並んでから、俺は自分の空いた手を、彼女の方へ出した。




