第26話 彼氏の家では、息子だった
玄関で、伊都が俺より先に靴を揃えた。
「砥上伊都です。今日は、お邪魔します」
土曜の午後。
いつもなら家に着くとすぐ鞄を下ろす所で、俺まで立ったままになっていた。
母が居間の方を指す。
「どうぞ。岳、そこに立ってると入れないでしょ」
「ああ、うん」
横へ動くと、伊都が小さく笑った。
俺も、こっち、と先に歩く。居間の机は、朝のうちに拭いておいた。
ゲームの箱も、二人で使う分だけ横へ積んである。
「お父さん、台所にいるから」
母に言われて声をかけると、父も顔を出した。
もう一度、伊都が挨拶をする。
「彼女の、砥上さん」
俺が付け足すと、母が、聞いてるよ、と答えた。
伊都の方は少し口元を緩め、俺を見ていた。
「火曜の卵焼き、おいしかったです」
「ああ、あの日のは、お父さんが作った方」
俺も父を見た。
弁当へ詰める時には、もう切ってあったから、どちらが作ったか確かめていなかった。
「砂糖、多い方だった?」
「うん。甘いやつ」
「岳、そっちしか先に取らないからな」
「甘くない方も、あるんですか?」
伊都が聞いた。父は、日によるけどね、と答える。
「じゃあ、今度はそっちも食べてみたいです」
「卵焼き食べに来たの?」
俺が聞くと、彼女は、今日は岳に呼ばれて来たんだけど、と返した。
父が少し笑って、台所へ戻る。
伊都が、今のは本人から聞きたかった、とでもいう顔で俺を見る。
「まだ、何か分かった?」
「甘い方を先に取るの、家でもなんだ」
「そこまでは、いいだろ」
座ってもらってから、俺は最初に遊ぶ箱を持ち上げた。
伊都が選んだのは、俺が普段座っている椅子だった。
「そこ、いつも俺が座ってる所」
彼女は座った所から、台所の入り口と、窓の外の道を順番に見た。
「岳、いつもこっちから見てるんだね」
「俺からだと、そっちがいつもと違うけど」
彼女の手が机へ置かれた。
見慣れた傷のある机の前に伊都がいるのを見て、ようやく家へ来てもらったのだという気がした。
「そこ、座りにくくない?」
「座りやすい。岳が長く座ってるの、分かった」
片づけた所ばかり見せようとせずに、俺も向かいへ腰を下ろした。
問題の紙を出そうとして、中を見た。
駒しか入っていない。
「……紙の方、ちょっと待って」
横の箱を開けた。
違うゲームの札がある。もう一つも違う。
伊都が鞄を椅子の脇へ置き、俺の手元を見ている。
「朝、ここにあったんだけど」
「片づけたの?」
「うん。使わない分と、一回分けて」
朝は、邪魔な物が全部なくなったと思った。
今は、邪魔でなかった物までない。
母がコップを持ってきて、棚の下を見た。
「机の上の物、そのまま下の箱へ入れなかった?」
「分けたよ」
「何と何に?」
答えようとして、止まった。
使う物と、今使わない物。
その時使っていなかった問題の紙が、どちらへ入ったかは覚えていなかった。
伊都は立ち上がりかけ、俺を見た。
「探す?」
「俺が戻したから、俺が出す。少し待って」
彼女はそのまま座り直した。
母が、机の下なら左の方じゃない、とだけ教える。俺は自分で箱を引き出した。
ノートと袋の間から、探していた紙が出てくる。
「あった」
「それ、さっき見た」
伊都が言った。
俺は紙の端を確かめる。
「俺も、見た。違う方だと思った」
彼女がとうとう笑ったので、俺も笑うしかなかった。
床へ広げた分は先に戻した。元と同じように押し込まないで、問題の紙の入る箱だけ机の脇へ置いた。
「これで、準備できた」
「うん。家でも、待ち合わせの三分前に来る人なのかと思ってた」
「今、俺の家だから、来る方じゃないだろ」
伊都がまた笑った。
俺は彼女の向かいへ座り直し、問題を真ん中へ出した。
母が少しだけ盤を覗いた。
「どうやって遊ぶの?」
俺は駒を並べ、空いている所を指す。
「この形を全部入れる。同じ問題で、早い方が──」
伊都の分の最初の駒まで、持ちかけた。
彼女が自分の問題をまだ選んでいるのを見て、机へ戻す。
「どっちの問題がいい?」
「こっち。難しい方」
言うのが早かった。
母が、じゃあ邪魔しない方がいいね、と台所へ戻る。
伊都の手が動き、俺も自分の盤へ戻った。
その問題は伊都が先だった。
俺がやり直すと、今度は別の一本で詰まる。顔を上げたら、向こうはもう笑いそうになっていた。
「家のだと、勝てると思ってた?」
「自分の分は、できると思ってた」
「うん。そこは、できるまで待つ」
何とか埋めてから、俺は札の箱へ替えた。
そっちも伊都がやりたいと答えたので、一から五を配る。
今度は最初の三点を取れた。
最後の二点を前に、四対三。俺に残った四と、彼女の二を開いた。
「……六対三」
伊都が先に言った。
俺は小さい紙へ点数を書き、彼女へ向ける。
「見た」
「まだ、見せてる途中だけど」
「見たから、いい」
口は少し尖っていた。すぐ札を集め直すので、俺も二局目を始めかけた。
居間の時計が目に入り、二人で帰る時刻を確かめる。
「……次は、取るから」
「うん。その時は、俺もまた取る」
伊都は、まだ始まってないでしょ、と言いながら札を箱へ戻した。
玄関で伊都が挨拶をすると、母は、また遊びに来てね、と返した。
俺も靴を履く。父に、自転車は、と聞かれ、今日は歩いて送ってくる、と答えた。
「じゃあ、気をつけて」
戸を閉める直前、伊都が俺へ顔を寄せた。
「次、わたしの家にも来て」
返事をする前に、俺の靴の踵が引っかかった。
伊都は外で待ちながら、今度はわたしが片づけておく、と言った。
俺はようやく靴を直し、その横へ出た。




