第24話 今日は、追い越さなくていい
「足、どっちから入れるんですか」
伊都が係の人へ聞いていた。
日曜の午後、公園の池には手漕ぎのボートが何艘か出ている。
乗り場まで来る間に、俺はどうやって漕ぐんだろうと考えていたけれど、本人の方がもう先に教わっていた。
「端に立たず、真ん中へ足を置いてくださいね。乗ってから座る場所を決めましょう」
伊都は頷き、続けてオールの動かし方も聞いた。俺も横で一緒に教わり、三十分の札を受け取った。二人で七百円。それぞれの財布から出して、三百五十円ずつにした。
「最初、俺が漕いでもいい?」
「うん。わたしも、後で少しやりたい」
ボートは乗り込むと一度だけ揺れた。
伊都はすぐ腰を下ろし、俺も向かいの席へ座る。
係の人に言われた通り、左右のオールをゆっくり動かした。
「あ、進んだ」
彼女が岸を見る。
俺も肩越しに振り向きかけ、片方だけ引きすぎた。
船首の向きが少し変わる。
「こっち向いて漕いで。岸の方は言うから」
「もう離れた?」
「うん。ちゃんと離れてる」
同じくらい引けば、普通に前へ進んだ。
伊都は膝の上に鞄を置き、水の近い方を覗く。落とさないよう持ち替えてから、柳の枝を指した。
「あっち、通ってみたい」
木の下の影へ向かった。
思っていたより簡単だった。少し力を入れると、船の端で水がはねる。
その時、横を一艘、すっと抜けていった。
俺は、次の一回を少し強く漕いだ。
「岳」
「何?」
「今、追いかけた?」
「別に、追いかけたわけじゃ」
否定しかけた所へ、向こうの船がもう一度大きく進む。
俺の腕も、つい動きかけた。
「ほら」
「……進めそうだったから」
「そっち、行きたい方じゃないよ」
伊都が柳を指した。
俺は漕ぐ速さを落とす。水の上で止まると、さっきまで気にしていなかった葉の影が、船の中へ入ってきた。
「伊都、勝たなくていいの?」
「誰に?」
「今のボートとか」
「今日は、あの人と遊びに来てない」
正面にいる俺を、彼女が見た。
「追いついたら、どうするの?」
「……抜く?」
「その後」
池の先を見た。次の一艘も浮かんでいた。
伊都が、そっちは見なくていい、と言う。
「岳と話すつもりで、これにしたんだけど」
俺はオールを引き終え、そのまま止めた。
波で、伊都の足元の光が少し動く。
「……何を話す?」
「今、用意しなくていいでしょ」
彼女が笑った。
俺も笑い、腕の力を抜いた。
「昨日の写真、家で見た?」
「見た。俺、あんなに変な立ち方してたんだな」
「変じゃないよ。ちゃんと、岳がいるからいい」
伊都は膝の鞄を見て、端末を出すのをやめた。
ここで開くより、本人の顔を見る方を選んだらしい。
「わたしが撮ろうって言わなかったら、一人ずつの写真で終わってた?」
「たぶん」
「じゃあ、言ってよかった」
伊都は池の真ん中の方へ目を向けた。
俺もオールをゆっくり動かす。水を押す音がした後は、ほかの船の声が少し遠かった。
「ここだと、次に何するか聞かれないね」
「俺、そんなに聞いてた?」
「うん。店を出たら、ご飯の場所とか。その後、帰る道とか」
「今日は、戻る桟橋も決まってるからな」
さっき離れた乗り場を、彼女が肩越しに見た。
「じゃあ、もう少しこのまま」
俺は向きを変えず、彼女が見ていた方へ進んだ。
「次は、俺から一緒に撮ろうって言う」
伊都は、今日も?と聞く。
「ここでやると、俺、手が足りない」
「じゃあ、降りてから。漕ぐ方は、ちゃんとして」
しばらくして、彼女が漕ぐ方へ替わった。
水の上で立ち上がるのは怖かったので、一度岸へ戻り、係の人に押さえてもらって席を替える。
まだ時間があるのを確かめてから、伊都がゆっくり両腕を引いた。
「どう?」
「進んでる」
「曲がってない?」
「今は、まっすぐ」
伊都は少し得意そうになった。
俺も後ろの方を見て、さっき指していた柳の影まで戻れる道を伝える。
速さは出なかったけれど、彼女は一度も、遅い、と言わなかった。
「もう少し、向こうまで行けるかな」
俺が聞くと、伊都は首を横へ振った。
「戻る分もあるでしょ。あと、降りてから食べたい」
「そっちも、決めてあったのか」
「うん」
乗り場の手前まで戻ると、係の人の指す方へ、彼女が向きを合わせた。
受け取った札を時間内に返す。陸へ上がってから、二人で同時に足元を確かめた。
「まだ揺れてる気がする」
「俺も」
手をつなぐと、伊都がわざと一歩だけしっかり踏んだ。
俺もその速さで、売店の方へ歩く。
池が見える所で、俺は端末を出した。
「さっき言った写真、一緒に撮ろう」
伊都が横へ来た。
自分で二人を画面へ入れようとすると、池の方がほとんど切れてしまう。彼女が俺の腕の向きを少し直し、こっちなら、と教えた。
撮れた一枚は、それでも二人の顔が大きかった。
「池、少ないな」
「顔は、二人とも入ってる」
伊都は自分の写った所を確かめ、これも送って、と言った。
俺も一度見直してから、二人の端末へ残した。
彼女が目当てにしていたのは、焼いた小さい芋の菓子だった。
量は小さいのに、包みへ顔を寄せると、温かい匂いがした。
俺も自分の分を買い、ベンチへ座った。
「舟の上じゃ、食べられなかったね」
「漕いでる方だけ見てることになるし」
「岳、そっちも競った?」
「何と?」
「先に食べ終わる方」
俺は自分の袋を見た。
もう半分なくなっていた。
「……今日、速い方ばっかり見てたな」
「今は、まだ食べてる方を見てて」
言われて横を向いた。
伊都は最後の一口を小さくして、俺を見てから口へ運ぶ。
俺も残りを一度に食べず、彼女が飲物を開けるのを待った。
池の向こうでは、さっきのボートがもう一周していた。




