第21話 彼女の名前を呼んだら、席が変わった
「砥上と、付き合うことになった」
月曜の昼、弁当を出す前に仁科へ言った。
彼は購買の袋からパンを一つ抜き、俺を見た。
「昨日?」
「うん。帰りに」
「じゃあ、串食べてた時は、まだ?」
「まだ」
何時に関係が変わったか、そこまで細かく思い返すと、弁当の蓋を開ける手が遅れた。
仁科は、そっか、おめでとう、と言って自分の袋へ戻る。
「来週の火曜、昼一緒に食べるって言った方は?」
「そっちも、食べる」
「ならいい。俺、朝の計測の話、まだ途中だったし」
彼女ができた報告の後も、仁科は俺の向かいでパンを食べた。
俺も弁当を開ける。卵焼きを一つ口へ入れてから、昨日、言った後にちゃんと喜べなくて、と話しかけた。
「まだあるの?」
「……少し」
仁科が袋を下ろした。
俺は話しながら、今度は普通に顔が緩んでしまって、箸の先を弁当へ戻した。
昼休みの終わりに、同じクラスの生徒から声をかけられた。
昨日、真壁から連絡が来たらしい。俺は罰だと知らなかった、本人も分かっていたという説明は違う、と。
「小椋からも、言い方が違ったって」
「……分かった。教えてくれてありがとう」
連絡の文面を見せてくれとは、頼まなかった。
五組の前へ行くと、砥上が大庭と一緒に出てきた。
「沙弥には、話したよ」
砥上が言う。
俺も仁科に伝えたと返した。大庭は、おめでとう、と言ってから、今日の提出物を思い出したらしく教室へ戻った。
さっき聞いた訂正の概要も、砥上へ短く伝えた。
彼女は、そうなんだ、と聞き、俺の顔を見る。
「今日、店で会う方は?」
「行く。昨日の続きも、話したいし」
「うん。わたしも」
先に教室へ戻るのが、どちらも少し遅かった。
放課後、ひとますでは一時間分の五百円を払った。
いつもの卓へ鞄を置こうとすると、砥上は向かいでなく、俺の横の椅子を引いた。
「そこ?」
「駄目?」
「駄目じゃないけど。盤、どう置く?」
持ってきた問題を、彼女が二人の間へ寄せた。
「今日は、一枚を見ればいいでしょ」
座ると、袖が触れそうな所に彼女の腕がある。
真正面なら普通に顔を上げられたのに、横へ向く方が難しかった。
「榎並、顔見えない」
「こっちに座ったからだろ」
「分かってる。だから、たまに見て」
言われて向くと、砥上もこっちを見ていた。
目が合ってから、二人とも同じ問題へ戻った。
「……名前で、呼んでもいい?」
聞くと、問題を押さえていた彼女の指が止まった。
「わたしの?」
「他には呼ばないよ」
「うん。呼んで」
許可をもらう方までは言えた。
その後で何も言わない俺を、彼女は待っていた。盤の上にある小さい赤い駒を、一度つまんで戻す。
「伊都」
ようやく出た。
彼女が、はい、と返して、すぐに口元を緩めた。
「今の、何か用事?」
「呼んでいいって言ったから」
「うん。……岳」
俺の方も、はい、と返してしまった。
伊都が笑う。自分がしたのと同じ返事なのに、今度は笑っていいらしい。
「名前、知ってたんだ」
「知ってるよ。ずっと呼ばなかっただけ」
また呼んでくれそうで、俺はすぐに次の説明を始められなかった。
伊都が問題の向きを少し変え、俺にも読める方へ寄せる。
「岳は、最初どこへ置く?」
二回目は、さっきより普通の声だった。
俺は赤い駒を指す。決まった数の駒を小さい枠へ収め、同じ色の辺を隣り合わせにする問題だった。
「ここを先に決める。端だから」
「わたしは、こっち」
伊都の指が反対の角へ向いた。
俺が指した所と、両方いっぺんには置けない。
「同じ答えには、ならないか」
「まだ、どっちもできてないよ」
もっともだった。
彼女が一度自分の案を置いてみる。俺も残った駒を並べ、そこから入る方を探した。
飲物を持ってきた羽鳥さんが、二人の間の盤を見た。
「今日は一枚なのね」
「あの、昨日から、付き合うことになりました」
俺が言うと、伊都も顔を上げた。
「なので、こっちに座りました」
「そう。教えてくれてありがとう。飲物、端へ置くわね」
おめでとう、と声を落として付け足し、羽鳥さんは別の卓へ向かった。
俺はコップを動かし、伊都の置いた駒をもう一度見る。
「次、岳」
呼ばれて、盤より先に横を見た。
伊都が笑いそうになりながら、自分の駒を押さえている。
「今のは、用事ある方」
分かってる、と答えた。
赤い駒を取る。向かいから見ていた時とは違い、彼女が押さえた角の向こうに、次の一つが入る場所が見えた。
「ここ、空けてた?」
「うん。岳が最初に使いたそうだったから」
俺の案をそのまま置いたわけではない。彼女が決めた形の隣に、俺の持っている一つが入った。
伊都が俺の指の離れた所を確かめ、それから横を向く。
「今度は、ちゃんとできたねって言える」
「勝負じゃないから?」
「うん。それと、岳がこっち見てるから」
彼女の方が先に笑った。
何度呼ばれたら普通に手を動かせるのか、まだ全然分からなかった。




