64話 山道に響く滝と槍
陽が高くなり、山道に薄い光が差し込んでいた。
遠くの山々には、まだ白い雪が残っている。溶けた水が岩肌を伝い、土の匂いと冷たい風を連れて、森の奥から流れてきていた。
夏のはずなのに、ここでは季節が少しだけ遅れている。
ラグナの背に揺られながら、ティアはぼんやりと山の稜線を見上げていた。前にはニャエルの腕がある。落ちないように支えてくれるその手は、いつもより少し近い。
「寒くない?」
ニャエルが耳元で聞く。
「うん。ニャエルがあったかいから」
「……そういうこと、普通に言うようになったにゃ」
「普通じゃないの?」
ティアが首を傾げると、ニャエルは返事に困ったように、黒い猫耳をぴくりと揺らした。
すぐ横では、アマネが銀灰の騎鳥シロを操っている。白い法衣の裾が風に揺れ、狐耳の先に小さな雪の粒が乗っていた。後ろからは、墨色のクロがのんびりとついてくる。
山道を進むほど、水音が大きくなっていく。
最初は、木の葉が擦れる音に紛れるほどだった。けれど、やがてそれは低い轟きへと変わり、足元の石までわずかに震わせるようになった。
森が途切れる。
視界が開けた先に、滝があった。
黒い岩壁から白い水が落ち、谷底で砕けて霧になる。その霧を浴びるように、石造りの建物が二つ、谷を挟んで向かい合っていた。その間を、重い石橋がまっすぐに繋いでいる。
橋の上には、槍を持った兵士たちが並んでいた。銀の鎧が淡い光を受け、滝の飛沫をまとって、冷たくきらめいている。
「……あれが、大聖堂?」
ティアがぽつりと言った。
黒い石の屋根。谷をまたぐ橋。槍を立てて並ぶ兵士たち。どれも、ティアが知っている教会とはまるで違っていた。
アマネは少しだけ口元を緩める。
「いえ。あれは関所です。“霊守関”と呼ばれています」
「れいしゅかん……」
「ここから先が、聖ジオクラシーです。帝国とジオクラシーの境目ですね」
「境目……隣の家みたいなもの?」
ティアが言うと、ニャエルがくすりと笑った。
「うん。だいたいそんな感じでいいにゃ。国と国のお隣さんだにゃ」
「じゃあ、挨拶しないとだね」
「そうだね。お行儀よくしようにゃ」
ニャエルはそう言いながら、ティアの頭に鼻先を寄せた。
そのやり取りを見ていたアマネは、ふっと小さく息を吐く。微笑ましい光景だと思う一方で、自分だけが少し離れた場所にいるような気もした。
霊守関が近づくにつれ、彼女の顔から、旅のあいだに浮かんでいた柔らかさが少しずつ消えていく。
ティアはそれに気づいて、そっとアマネを見る。
「アマネ?」
「はい」
「緊張してる?」
アマネは一瞬だけ返事に迷った。
「……少しだけ。ここから先は、わたくしの故郷のような場所ですから」
「帰ってきたのに?」
「帰ってきたから、かもしれません」
その声はいつも通り穏やかだった。
けれどティアには、少し遠く聞こえた。
アマネは霊守関を見上げながら、思い出したように言う。
「それと……言い忘れていたことがあります」
ニャエルの猫耳がぴくりと立つ。
「なんだか嫌な予感がするにゃ」
「おふたりには、これからジオ教会に入信していただく必要があります」
「にゅうしん?」
「ここまで来てから言うことかにゃ、それ」
アマネの狐耳が、ほんのわずかに伏せられる。
「申し訳ありません。言い忘れ、というより……言い出す機会を探していたら、ここまで来てしまいました」
「アマネって、言い忘れが多い?」
ティアが素直に聞く。
アマネは困ったように微笑んだ。
「……はい。大事なことほど、どう話せばいいか考えてしまうようです」
ニャエルは肩をすくめる。
「入信しないとどうなるにゃ?」
「面倒な書類と審査が山ほどあります」
「ジオ教会に入信したくなってきたにゃ」
ニャエルが両手を胸の前で合わせて、わざとらしく祈るような仕草をする。ティアはくすくす笑った。
「私はいいよ。アマネのところでしょ?」
その言い方に、アマネは少しだけ目を丸くした。
アマネのところ。
大聖堂でも、聖ジオクラシーでも、ジオ教会でもなく。
ティアは、そう言った。
「……ありがとうございます」
アマネは小さく頭を下げた。
その時、霊守関の橋の上が慌ただしく動き始める。黒い法衣の上から鎧をまとった兵士たちが、こちらに気づいたのだ。
重い扉が、ゆっくりと開いていく。
空気が変わった。
さっきまで山道にあった柔らかな旅の気配が、橋の手前で薄くなっていく。代わりに、整列した兵士たちの視線と、黒石の冷たさと、槍の光が三人を迎えた。
ニャエルの腕が、ティアを支えるように少しだけ強くなる。
「……アマネ」
ティアが呼ぶ。
けれどアマネは、すぐには振り向かなかった。
シロの手綱を静かに引き、背筋を伸ばす。白い法衣の皺が消え、狐耳がまっすぐに立つ。
さっきまで一緒に笑っていたアマネではなかった。
それは、たぶん同じ人なのに。
少しだけ、遠い。
橋の前に並んだ兵士たちが、一斉に槍を打ち鳴らした。
乾いた音が谷に響く。
次の瞬間、先頭の兵士が声を張り上げた。
「ローヴァス大司教閣下――ご帰還!」
その声に合わせ、兵士たちは深く頭を垂れる。
滝の音が、遠くなる。
ティアは、ラグナの背の上で息を呑んだ。
隣でニャエルも、いつもの軽口を忘れたように黙っている。
アマネ・ローヴァスは、静かに頷いた。
「ご苦労様です」
その声は澄んでいた。
けれどティアには、その横顔が、雪の向こうに立っているように見えた。
◇
兜に赤い飾り羽をつけた男が、橋の中央へ歩み出た。
黒髪に白いものが混じり始めた壮年の男だった。鎧の上から黒い外套を羽織り、滝の飛沫を受けても、その姿勢は少しも崩れなかった。
男はアマネの前まで来ると、兜を脱ぎ、片膝をついた。
「閣下のご帰還、一同、心よりお待ちしておりました」
「ご苦労様です、ザレス関守長」
アマネの声は穏やかだった。
ただ、いつものような柔らかさとは違う。言葉の端まで整えられた、よく磨かれた刃物のような声だった。
「道中、ご無事で何よりです。単身でロスティアへ向かわれたと聞いた時は、肝が冷えました」
「心配をかけましたね」
ザレスは頭を下げたまま、ちらりとラグナの背を見る。
ティアとニャエルに向けられた目は、無礼ではなかった。けれど、何かを測るような慎重さがあった。
アマネはそれに気づいたように、シロの背から降り、ティアたちの前に立つ。
たったそれだけで、ザレスの視線は遮られた。
「この方々は、わたくしの同行者です。中でお話しします」
「承知いたしました」
ザレスはすぐに頭を下げた。
槍を持った兵士たちは左右に分かれ、石橋の中央にまっすぐな通り道を作る。
アマネは振り返り、いつもの声に少しだけ戻って言った。
「ティアさま、ニャエルさま。騎鳥たちは厩舎に預けましょう」
「うん」
ティアが頷くと、ニャエルもラグナの首筋を軽く撫でた。
「ラグナ、少し待っててにゃ」
ラグナは短く鳴き、クロは不満そうにくちばしを鳴らした。
「クロも、他の子と喧嘩しちゃだめだよ」
ティアが声をかけると、クロはそっぽを向いた。けれど、羽を膨らませるだけで暴れようとはしない。
ザレスはその様子を見て、少しだけ目を細めた。
「よく躾けられた騎鳥ですな」
「この子たちは賢いんです」
ティアが胸を張る。
ザレスは一瞬だけ驚いたように瞬きをし、それから柔らかく頷いた。
「それは失礼いたしました」
その言い方が少し可笑しくて、ティアは小さく笑った。
けれど、アマネはまだ前を見ていた。
◇
案内されたのは、関所の一角にある小さな部屋だった。
窓はなく、石壁に囲まれている。机と椅子があり、壁際には書棚と封蝋の道具が置かれていた。外では滝が轟いているはずなのに、この部屋に入ると、その音は厚い石に吸われて遠くなる。
代わりに、蝋燭の匂いと、古い羊皮紙の匂いがした。
「簡素な部屋で申し訳ありません」
ザレスが椅子を勧める。
ティアが座ると、ニャエルはその後ろに立った。腰を下ろしてもよかったのに、そうしなかった。黒い猫耳が、部屋の外の音まで拾うように動いている。
「尋問でも始まりそうだね」
ニャエルが軽く言う。
けれど声は、いつもより少しだけ低かった。
ザレスは苦笑した。
「ご安心を。閣下の同行者を尋問するほど、私は命知らずではありません」
「それはよかった」
ニャエルは笑ったが、ティアの肩に添えた手は離さなかった。
ザレスは机の向こうに座り、羽根筆を取る。
「それで、閣下。ロスティアでは何が?」
アマネは一度だけ目を伏せた。
旅のアマネではなく、大司教としての顔で。
「ロスティア東の森で、不浄の根源を確認しました。グールの発生も確認しています。シンディ司祭からの報告を受け、調査へ向かいました」
「浄化隊を出さずに、閣下ご自身が?」
責める声ではなかった。
それでも、心配と驚きが隠しきれていない。
アマネは穏やかに頷く。
「大事にすれば、街に余計な不安を広げます。それに、すでに動いていた者たちがいました」
その言葉で、ザレスの視線がティアとニャエルへ向いた。
「こちらのお二方が?」
「はい。ティアさまとニャエルさまに助けられました」
助けられた。
アマネがそう言うと、ティアは少し落ち着かなくなった。
そんなに大きなことをしたつもりはなかった。ただ、目の前にあるものに手を伸ばして、ニャエルとアマネと一緒に戦っただけだ。
ニャエルも同じように感じたのか、肩をすくめた。
「ボクたちは、できることをしただけ」
ザレスは何かを言いかけ、しかしすぐには言葉にしなかった。
アマネは机の上に目を落とす。
「空の魔石を二つ、用意していただけますか」
「ここに」
ザレスは引き出しを開け、掌ほどの魔石を二つ取り出した。光を失った透明な石だった。
アマネはそれをティアとニャエルの前へ置いた。
「少しだけで構いません。魔力を込めていただけますか」
「うん」
ティアは魔石を両手で包み込んだ。
ニャエルも隣で同じようにする。
先に光ったのは、ニャエルの魔石だった。
淡い黄色の光が、手の内側から滲むように広がる。焚き火よりも静かで、けれど確かに温かい光だった。
ザレスの目がわずかに見開かれ、淡い光を帯びる。
「これは……治癒の性質……」
次の瞬間、ティアの魔石が白く光った。
部屋の中が、音もなく明るくなる。
蝋燭の火が消えたわけではない。ただ、その小さな火が必要なくなるほど、白い光が石の中から溢れた。
ザレスが椅子を鳴らして立ち上がる。
「白き光……」
その声は震えていた。
「まさか……精霊の愛し子……」
ティアは息を呑んだ。
その言葉の意味は、まだよく分からない。けれど、ザレスの目が自分を見ていないように感じた。
ティアではなく、何か別のものを見ている。
遠い昔の何か。
信じてきた何か。
ザレスは膝をつきかけた。
その瞬間、アマネの声が部屋を切った。
「ザレス関守長」
大きな声ではなかった。
けれど、ザレスの動きはぴたりと止まった。
「わたくしたちが崇拝するのは、精霊であり、人ではありません」
ザレスははっとしたように顔を伏せる。
「……失礼いたしました」
「ティアさまはティアさまです。ニャエルさまも、ニャエルさまです」
アマネは静かに続けた。
「そのことを、忘れないように」
部屋の空気が、少しだけ重くなる。
ティアは手の中の魔石を見下ろした。白い光は、まだ柔らかく揺れている。
ニャエルは何も言わなかった。
ただ、ティアの肩に置いた手に、少しだけ力を込めた。
ザレスは深く頭を下げた。
「肝に銘じます」
アマネはそこでようやく、ほんの少しだけ息を吐いた。
「この件は、枢機卿猊下へ報告してください」
ザレスはすぐに羽根筆を取り、姿勢を正す。
アマネは必要なことだけを告げていく。
ロスティア東の森に、不浄の根源があったこと。
グールが発生していたが、根源の消滅により収束へ向かう見込みであること。
帝国領の村が、悪魔の一団による襲撃を受けたこと。
そして、ティアとニャエルが、不浄の根源の発見と浄化に大きく関わったこと。
ザレスの筆が、羊皮紙の上を走る。
ティアは、自分のことが記録されていくのを不思議な気持ちで見ていた。
やがてザレスは最後の一行を書き終え、封蝋を施した羊皮紙と、二人の魔力を宿した魔石を小さな箱へ収める。
「大聖堂へ。枢機卿猊下に直接届けろ」
呼ばれた部下は箱を受け取ると、深く頭を下げ、足早に部屋を出ていった。
扉が閉まる。
石の部屋に、少しだけ静けさが戻った。
◇
アマネは、改めてザレスへ向き直った。
「それと、もうひとつお願いがあります」
「何なりと」
ザレスは姿勢を正す。
アマネは少しだけ間を置いた。
その一拍に、ティアは気づいた。
さっきまで大司教として話していたアマネが、ほんの少しだけ迷っているように見えたからだ。
「このおふたりを、一般信者として通行させてください」
ザレスはすぐには答えなかった。
その意味を測るように、静かにアマネを見る。
「……一般信者として、ですか」
「はい」
「精霊の愛し子と、治癒の光を持つ御方を」
「一般信者として、です」
アマネの声は変わらなかった。
ザレスはその目を見て、やがて深く頷いた。
「承知いたしました。あくまで一般の信者として、記録いたします」
ニャエルの尻尾がゆっくり揺れる。
「ずいぶん話が早いね」
ザレスは少しだけ笑った。
「閣下がそう望まれるなら、そうするだけです」
「すごい」
ティアがぽつりと言う。
ザレスはティアを見た。
今度の視線は、さきほどよりもずっと静かだった。
「聞く必要がないこともあります。守るために伏せる名もある。関所とは、本来そういう場所でもありますから」
アマネは小さく頷いた。
「ありがとうございます」
「ただし、入信の記録は必要です。改めてお名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
ティアは背筋を伸ばした。
「ティアです」
続いて、ニャエルも口を開く。
「ニャエル」
ザレスは羽根筆を動かし、二人の名を丁寧に記した。
その横に、余計な肩書きは何も書かない。
ただ、名前だけ。
それが少し嬉しくて、ティアはそっとアマネを見た。
アマネは机の向こうで、静かにその様子を見守っていた。
さっき橋の上で見えた横顔よりも、少しだけ近い。
「……アマネ」
ティアが小さく呼ぶ。
アマネは顔を上げた。
「はい」
「ありがとう」
何に対してのありがとうなのか、ティア自身にもよく分からなかった。
でも、言っておきたかった。
アマネは一瞬だけ目を丸くする。
それから、大司教ではなく、旅の途中で焚き火を囲んだ時のような顔で微笑んだ。
「どういたしまして」
ニャエルはその横顔を見て、ようやく肩の力を抜いた。
「じゃあ、ボクたちは普通の信者ってことでいいのかな。よく分かってないけど」
「はい、詳しくは閣下にお聞きください」
ザレスが頷く。
「では」
そう言って立ち上がると、部屋の外へ続く扉を開いた。
重い木扉が軋み、外から眩しい光が差し込む。石造りの部屋に白い陽光が流れ込み、閉ざされていた空気を押し流すようだった。
「通行を許可いたします。ようこそ、聖ジオクラシーへ」
部屋の外では、滝が変わらず轟いている。
けれど、石壁の内側にあった冷たさは、少しだけ和らいだ気がした。
ティアは立ち上がり、ニャエルの手を取る。
その後ろで、アマネも静かに席を立った。
大司教閣下。
精霊の愛し子。
治癒の光。
いくつもの名前や意味が、この関所で三人のまわりに置かれていった。
人は名前を知ると、その上に意味を重ねたがる。
けれどティアが振り返って見たアマネは、やっぱりアマネだった。
「閣下って呼んだほうがいい?」
ティアがそう尋ねると、アマネは一瞬だけ目を丸くした。
それから、白い法衣の裾を揺らしながら、少し困ったように笑う。
橋の上で兵たちに迎えられていた大司教ではなく、焚き火のそばでお茶を淹れてくれた旅の仲間の顔だった。
「アマネ、と呼んでください」
その言葉に、ティアもつられて笑った。
どれほど立派な肩書きが増えても。
どれほど多くの人が頭を下げても。
ティアにとっては、やっぱりアマネなのだと思った。




