表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
64/65

64話 山道に響く滝と槍



陽が高くなり、山道に薄い光が差し込んでいた。


遠くの山々には、まだ白い雪が残っている。溶けた水が岩肌を伝い、土の匂いと冷たい風を連れて、森の奥から流れてきていた。


夏のはずなのに、ここでは季節が少しだけ遅れている。


ラグナの背に揺られながら、ティアはぼんやりと山の稜線を見上げていた。前にはニャエルの腕がある。落ちないように支えてくれるその手は、いつもより少し近い。


「寒くない?」


ニャエルが耳元で聞く。


「うん。ニャエルがあったかいから」


「……そういうこと、普通に言うようになったにゃ」


「普通じゃないの?」


ティアが首を傾げると、ニャエルは返事に困ったように、黒い猫耳をぴくりと揺らした。


すぐ横では、アマネが銀灰の騎鳥シロを操っている。白い法衣の裾が風に揺れ、狐耳の先に小さな雪の粒が乗っていた。後ろからは、墨色のクロがのんびりとついてくる。


山道を進むほど、水音が大きくなっていく。


最初は、木の葉が擦れる音に紛れるほどだった。けれど、やがてそれは低い轟きへと変わり、足元の石までわずかに震わせるようになった。


森が途切れる。


視界が開けた先に、滝があった。


黒い岩壁から白い水が落ち、谷底で砕けて霧になる。その霧を浴びるように、石造りの建物が二つ、谷を挟んで向かい合っていた。その間を、重い石橋がまっすぐに繋いでいる。


橋の上には、槍を持った兵士たちが並んでいた。銀の鎧が淡い光を受け、滝の飛沫をまとって、冷たくきらめいている。


「……あれが、大聖堂?」


ティアがぽつりと言った。


黒い石の屋根。谷をまたぐ橋。槍を立てて並ぶ兵士たち。どれも、ティアが知っている教会とはまるで違っていた。


アマネは少しだけ口元を緩める。


「いえ。あれは関所です。“霊守関”と呼ばれています」


「れいしゅかん……」


「ここから先が、聖ジオクラシーです。帝国とジオクラシーの境目ですね」


「境目……隣の家みたいなもの?」


ティアが言うと、ニャエルがくすりと笑った。


「うん。だいたいそんな感じでいいにゃ。国と国のお隣さんだにゃ」


「じゃあ、挨拶しないとだね」


「そうだね。お行儀よくしようにゃ」


ニャエルはそう言いながら、ティアの頭に鼻先を寄せた。


そのやり取りを見ていたアマネは、ふっと小さく息を吐く。微笑ましい光景だと思う一方で、自分だけが少し離れた場所にいるような気もした。


霊守関が近づくにつれ、彼女の顔から、旅のあいだに浮かんでいた柔らかさが少しずつ消えていく。


ティアはそれに気づいて、そっとアマネを見る。


「アマネ?」


「はい」


「緊張してる?」


アマネは一瞬だけ返事に迷った。


「……少しだけ。ここから先は、わたくしの故郷のような場所ですから」


「帰ってきたのに?」


「帰ってきたから、かもしれません」


その声はいつも通り穏やかだった。


けれどティアには、少し遠く聞こえた。


アマネは霊守関を見上げながら、思い出したように言う。


「それと……言い忘れていたことがあります」


ニャエルの猫耳がぴくりと立つ。


「なんだか嫌な予感がするにゃ」


「おふたりには、これからジオ教会に入信していただく必要があります」


「にゅうしん?」


「ここまで来てから言うことかにゃ、それ」


アマネの狐耳が、ほんのわずかに伏せられる。


「申し訳ありません。言い忘れ、というより……言い出す機会を探していたら、ここまで来てしまいました」


「アマネって、言い忘れが多い?」


ティアが素直に聞く。


アマネは困ったように微笑んだ。


「……はい。大事なことほど、どう話せばいいか考えてしまうようです」


ニャエルは肩をすくめる。


「入信しないとどうなるにゃ?」


「面倒な書類と審査が山ほどあります」


「ジオ教会に入信したくなってきたにゃ」


ニャエルが両手を胸の前で合わせて、わざとらしく祈るような仕草をする。ティアはくすくす笑った。


「私はいいよ。アマネのところでしょ?」


その言い方に、アマネは少しだけ目を丸くした。


アマネのところ。


大聖堂でも、聖ジオクラシーでも、ジオ教会でもなく。


ティアは、そう言った。


「……ありがとうございます」


アマネは小さく頭を下げた。


その時、霊守関の橋の上が慌ただしく動き始める。黒い法衣の上から鎧をまとった兵士たちが、こちらに気づいたのだ。


重い扉が、ゆっくりと開いていく。


空気が変わった。


さっきまで山道にあった柔らかな旅の気配が、橋の手前で薄くなっていく。代わりに、整列した兵士たちの視線と、黒石の冷たさと、槍の光が三人を迎えた。


ニャエルの腕が、ティアを支えるように少しだけ強くなる。


「……アマネ」


ティアが呼ぶ。


けれどアマネは、すぐには振り向かなかった。


シロの手綱を静かに引き、背筋を伸ばす。白い法衣の皺が消え、狐耳がまっすぐに立つ。


さっきまで一緒に笑っていたアマネではなかった。


それは、たぶん同じ人なのに。


少しだけ、遠い。


橋の前に並んだ兵士たちが、一斉に槍を打ち鳴らした。


乾いた音が谷に響く。


次の瞬間、先頭の兵士が声を張り上げた。


「ローヴァス大司教閣下――ご帰還!」


その声に合わせ、兵士たちは深く頭を垂れる。


滝の音が、遠くなる。


ティアは、ラグナの背の上で息を呑んだ。


隣でニャエルも、いつもの軽口を忘れたように黙っている。


アマネ・ローヴァスは、静かに頷いた。


「ご苦労様です」


その声は澄んでいた。


けれどティアには、その横顔が、雪の向こうに立っているように見えた。



兜に赤い飾り羽をつけた男が、橋の中央へ歩み出た。


黒髪に白いものが混じり始めた壮年の男だった。鎧の上から黒い外套を羽織り、滝の飛沫を受けても、その姿勢は少しも崩れなかった。


男はアマネの前まで来ると、兜を脱ぎ、片膝をついた。


「閣下のご帰還、一同、心よりお待ちしておりました」


「ご苦労様です、ザレス関守長」


アマネの声は穏やかだった。


ただ、いつものような柔らかさとは違う。言葉の端まで整えられた、よく磨かれた刃物のような声だった。


「道中、ご無事で何よりです。単身でロスティアへ向かわれたと聞いた時は、肝が冷えました」


「心配をかけましたね」


ザレスは頭を下げたまま、ちらりとラグナの背を見る。


ティアとニャエルに向けられた目は、無礼ではなかった。けれど、何かを測るような慎重さがあった。


アマネはそれに気づいたように、シロの背から降り、ティアたちの前に立つ。


たったそれだけで、ザレスの視線は遮られた。


「この方々は、わたくしの同行者です。中でお話しします」


「承知いたしました」


ザレスはすぐに頭を下げた。


槍を持った兵士たちは左右に分かれ、石橋の中央にまっすぐな通り道を作る。


アマネは振り返り、いつもの声に少しだけ戻って言った。


「ティアさま、ニャエルさま。騎鳥たちは厩舎に預けましょう」


「うん」


ティアが頷くと、ニャエルもラグナの首筋を軽く撫でた。


「ラグナ、少し待っててにゃ」


ラグナは短く鳴き、クロは不満そうにくちばしを鳴らした。


「クロも、他の子と喧嘩しちゃだめだよ」


ティアが声をかけると、クロはそっぽを向いた。けれど、羽を膨らませるだけで暴れようとはしない。


ザレスはその様子を見て、少しだけ目を細めた。


「よく躾けられた騎鳥ですな」


「この子たちは賢いんです」


ティアが胸を張る。


ザレスは一瞬だけ驚いたように瞬きをし、それから柔らかく頷いた。


「それは失礼いたしました」


その言い方が少し可笑しくて、ティアは小さく笑った。


けれど、アマネはまだ前を見ていた。



案内されたのは、関所の一角にある小さな部屋だった。


窓はなく、石壁に囲まれている。机と椅子があり、壁際には書棚と封蝋の道具が置かれていた。外では滝が轟いているはずなのに、この部屋に入ると、その音は厚い石に吸われて遠くなる。


代わりに、蝋燭の匂いと、古い羊皮紙の匂いがした。


「簡素な部屋で申し訳ありません」


ザレスが椅子を勧める。


ティアが座ると、ニャエルはその後ろに立った。腰を下ろしてもよかったのに、そうしなかった。黒い猫耳が、部屋の外の音まで拾うように動いている。


「尋問でも始まりそうだね」


ニャエルが軽く言う。


けれど声は、いつもより少しだけ低かった。


ザレスは苦笑した。


「ご安心を。閣下の同行者を尋問するほど、私は命知らずではありません」


「それはよかった」


ニャエルは笑ったが、ティアの肩に添えた手は離さなかった。


ザレスは机の向こうに座り、羽根筆を取る。


「それで、閣下。ロスティアでは何が?」


アマネは一度だけ目を伏せた。


旅のアマネではなく、大司教としての顔で。


「ロスティア東の森で、不浄の根源を確認しました。グールの発生も確認しています。シンディ司祭からの報告を受け、調査へ向かいました」


「浄化隊を出さずに、閣下ご自身が?」


責める声ではなかった。


それでも、心配と驚きが隠しきれていない。


アマネは穏やかに頷く。


「大事にすれば、街に余計な不安を広げます。それに、すでに動いていた者たちがいました」


その言葉で、ザレスの視線がティアとニャエルへ向いた。


「こちらのお二方が?」


「はい。ティアさまとニャエルさまに助けられました」


助けられた。


アマネがそう言うと、ティアは少し落ち着かなくなった。


そんなに大きなことをしたつもりはなかった。ただ、目の前にあるものに手を伸ばして、ニャエルとアマネと一緒に戦っただけだ。


ニャエルも同じように感じたのか、肩をすくめた。


「ボクたちは、できることをしただけ」


ザレスは何かを言いかけ、しかしすぐには言葉にしなかった。


アマネは机の上に目を落とす。


「空の魔石を二つ、用意していただけますか」


「ここに」


ザレスは引き出しを開け、掌ほどの魔石を二つ取り出した。光を失った透明な石だった。


アマネはそれをティアとニャエルの前へ置いた。


「少しだけで構いません。魔力を込めていただけますか」


「うん」


ティアは魔石を両手で包み込んだ。


ニャエルも隣で同じようにする。


先に光ったのは、ニャエルの魔石だった。


淡い黄色の光が、手の内側から滲むように広がる。焚き火よりも静かで、けれど確かに温かい光だった。


ザレスの目がわずかに見開かれ、淡い光を帯びる。


「これは……治癒の性質……」


次の瞬間、ティアの魔石が白く光った。


部屋の中が、音もなく明るくなる。


蝋燭の火が消えたわけではない。ただ、その小さな火が必要なくなるほど、白い光が石の中から溢れた。


ザレスが椅子を鳴らして立ち上がる。


「白き光……」


その声は震えていた。


「まさか……精霊の愛し子……」


ティアは息を呑んだ。


その言葉の意味は、まだよく分からない。けれど、ザレスの目が自分を見ていないように感じた。


ティアではなく、何か別のものを見ている。


遠い昔の何か。


信じてきた何か。


ザレスは膝をつきかけた。


その瞬間、アマネの声が部屋を切った。


「ザレス関守長」


大きな声ではなかった。


けれど、ザレスの動きはぴたりと止まった。


「わたくしたちが崇拝するのは、精霊であり、人ではありません」


ザレスははっとしたように顔を伏せる。


「……失礼いたしました」


「ティアさまはティアさまです。ニャエルさまも、ニャエルさまです」


アマネは静かに続けた。


「そのことを、忘れないように」


部屋の空気が、少しだけ重くなる。


ティアは手の中の魔石を見下ろした。白い光は、まだ柔らかく揺れている。


ニャエルは何も言わなかった。


ただ、ティアの肩に置いた手に、少しだけ力を込めた。


ザレスは深く頭を下げた。


「肝に銘じます」


アマネはそこでようやく、ほんの少しだけ息を吐いた。


「この件は、枢機卿猊下へ報告してください」


ザレスはすぐに羽根筆を取り、姿勢を正す。


アマネは必要なことだけを告げていく。


ロスティア東の森に、不浄の根源があったこと。


グールが発生していたが、根源の消滅により収束へ向かう見込みであること。


帝国領の村が、悪魔の一団による襲撃を受けたこと。


そして、ティアとニャエルが、不浄の根源の発見と浄化に大きく関わったこと。


ザレスの筆が、羊皮紙の上を走る。


ティアは、自分のことが記録されていくのを不思議な気持ちで見ていた。


やがてザレスは最後の一行を書き終え、封蝋を施した羊皮紙と、二人の魔力を宿した魔石を小さな箱へ収める。


「大聖堂へ。枢機卿猊下に直接届けろ」


呼ばれた部下は箱を受け取ると、深く頭を下げ、足早に部屋を出ていった。


扉が閉まる。


石の部屋に、少しだけ静けさが戻った。



アマネは、改めてザレスへ向き直った。


「それと、もうひとつお願いがあります」


「何なりと」


ザレスは姿勢を正す。


アマネは少しだけ間を置いた。


その一拍に、ティアは気づいた。


さっきまで大司教として話していたアマネが、ほんの少しだけ迷っているように見えたからだ。


「このおふたりを、一般信者として通行させてください」


ザレスはすぐには答えなかった。


その意味を測るように、静かにアマネを見る。


「……一般信者として、ですか」


「はい」


「精霊の愛し子と、治癒の光を持つ御方を」


「一般信者として、です」


アマネの声は変わらなかった。


ザレスはその目を見て、やがて深く頷いた。


「承知いたしました。あくまで一般の信者として、記録いたします」


ニャエルの尻尾がゆっくり揺れる。


「ずいぶん話が早いね」


ザレスは少しだけ笑った。


「閣下がそう望まれるなら、そうするだけです」


「すごい」


ティアがぽつりと言う。


ザレスはティアを見た。


今度の視線は、さきほどよりもずっと静かだった。


「聞く必要がないこともあります。守るために伏せる名もある。関所とは、本来そういう場所でもありますから」


アマネは小さく頷いた。


「ありがとうございます」


「ただし、入信の記録は必要です。改めてお名前を伺ってもよろしいでしょうか?」


ティアは背筋を伸ばした。


「ティアです」


続いて、ニャエルも口を開く。


「ニャエル」


ザレスは羽根筆を動かし、二人の名を丁寧に記した。


その横に、余計な肩書きは何も書かない。


ただ、名前だけ。


それが少し嬉しくて、ティアはそっとアマネを見た。


アマネは机の向こうで、静かにその様子を見守っていた。


さっき橋の上で見えた横顔よりも、少しだけ近い。


「……アマネ」


ティアが小さく呼ぶ。


アマネは顔を上げた。


「はい」


「ありがとう」


何に対してのありがとうなのか、ティア自身にもよく分からなかった。


でも、言っておきたかった。


アマネは一瞬だけ目を丸くする。


それから、大司教ではなく、旅の途中で焚き火を囲んだ時のような顔で微笑んだ。


「どういたしまして」


ニャエルはその横顔を見て、ようやく肩の力を抜いた。


「じゃあ、ボクたちは普通の信者ってことでいいのかな。よく分かってないけど」


「はい、詳しくは閣下にお聞きください」


ザレスが頷く。


「では」


そう言って立ち上がると、部屋の外へ続く扉を開いた。


重い木扉が軋み、外から眩しい光が差し込む。石造りの部屋に白い陽光が流れ込み、閉ざされていた空気を押し流すようだった。


「通行を許可いたします。ようこそ、聖ジオクラシーへ」


部屋の外では、滝が変わらず轟いている。


けれど、石壁の内側にあった冷たさは、少しだけ和らいだ気がした。


ティアは立ち上がり、ニャエルの手を取る。


その後ろで、アマネも静かに席を立った。


大司教閣下。


精霊の愛し子。


治癒の光。


いくつもの名前や意味が、この関所で三人のまわりに置かれていった。


人は名前を知ると、その上に意味を重ねたがる。


けれどティアが振り返って見たアマネは、やっぱりアマネだった。




「閣下って呼んだほうがいい?」


ティアがそう尋ねると、アマネは一瞬だけ目を丸くした。


それから、白い法衣の裾を揺らしながら、少し困ったように笑う。


橋の上で兵たちに迎えられていた大司教ではなく、焚き火のそばでお茶を淹れてくれた旅の仲間の顔だった。



「アマネ、と呼んでください」


その言葉に、ティアもつられて笑った。


どれほど立派な肩書きが増えても。

どれほど多くの人が頭を下げても。


ティアにとっては、やっぱりアマネなのだと思った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ