65話 憧れに似た熱
真昼の北空は、透けるように灰色だった。
音もなく、急ぐこともなく、空の薄灰から剥がれ落ちるように、白い雪が街へ降りてくる。石畳に触れてはすぐに溶け、けれど屋根の縁や大聖堂の尖塔、露店の布屋根には、薄く白を残していた。
雲が厚いわけではない。雨の気配もない。
ただ、光だけが薄く濾されて、街全体を白い布の内側に沈めている。
アマネ・ローヴァスは、大聖堂前の石段からその空を見上げていた。
北の街は、いつも清潔だった。
清潔で、静かで、よく整えられている。
雪はそれをさらに白く見せる。見せるだけだ。
汚れが消えるわけではない。
ただ、見えにくくなる。
だからこそ、そこに混じった小さな乱れはよく目立つ。
たとえば、黒い耳に雪を乗せたまま、露店の焼き菓子に目を輝かせる少女。
たとえば、その隣で財布の紐を握りしめながら、困ったように笑う淡い赤髪の少女。
ニャエルとティアだった。
ふたりは寄り添い、寒さを感じない笑顔を向けあっている。
アマネは、そっと懐にしまってある「清浄なる依代」に手を当てた。
かつての英雄ジオを模して作られた、黒猫のぬいぐるみ。
そして思い出す。
エリチェ村を襲った悪魔が、ニャエルをジオと呼んだことを。
あれが錯誤だったのか、記憶だったのか、アマネにはまだ分からない。
ただ、その名を聞いた時から、懐の奥にある清浄なる依代が、少しだけ熱を持っている気がしていた。
──ジオ様の生まれ変わりかもしれない。
冷たい風に晒されながらも、アマネは胸の熱さを感じていた。
足を止めていたアマネに、ティアが駆け寄ってくる。
「アマネも食べよう!」
胸に聖堂焼きを大事そうに抱えている。
蜂蜜と香辛料を練り込んだ、薄く硬い焼き菓子だ。焼きたてなのか、包みの隙間から湯気が立ち上っている。
ニャエルが少し慌てて、ティアの後をついてきた。
「ティア、ボクからあまり離れちゃダメだって」
「大丈夫、ニャエルは私から離れないでしょ」
そう言って、ティアはふわっとした笑顔を見せる。
ニャエルは目を逸らし、頬を指でかいていた。
アマネは思わず笑いを漏らしてしまう。
「ふふ、聖堂焼きはここで食べると大変ですよ。布でくるんで……近くに修道院があります。そこにお邪魔して食べましょうか」
「うん!」
ティアは聖堂焼きが入った包みを、自分の外套の中へとしまい込む。
「じゃあ、冷めないようにしないとにゃ」
ニャエルは自分の外套を脱ぎ、ティアにかけた。
「わ、あったかい……でもニャエルは寒くない?」
「うん。“発現”してからは寒さに強くなったかも」
ティアは歩きながら首を傾げて、アマネを見る。
「そういうものなの?」
アマネは少し考える素振りを見せ、話し始めた。
「……恐らく、ニャエルさまの魔力適性が高いのでしょう」
「ニャエルすごい!」
得意げに顔を上げるニャエル。
「しかし……」
アマネは続けた。
「垂れ流しといった感じですね。扱いを覚える必要があります」
「垂れ流しにゃんこ!」
ティアの雑な命名に、ニャエルは黒い猫耳を後ろに向けた。
「……なんかヤダそれ」
◇
雪に沈む大聖堂の北側に、修道院はひっそりと建っていた。
灰色の石を積み上げた、飾り気の少ない建物だった。尖った屋根には薄く雪が積もり、細長い窓には内側から淡い灯がにじんでいる。壁を這う蔦は冬枯れ、黒い線だけを白い石壁に残していた。
大聖堂ほど高くも、広くもない。
けれど、近づく者の足音まで小さくさせるような静けさがあった。
門の上には、古びた聖印がひとつ。
降り続く雪が、その輪郭をゆっくり白く隠していた。
「ここがアマネのお家?」
ティアがぽつりとつぶやくと、アマネは優しく微笑んだ。
「そうですね。幼い頃はここで暮らしていました……少し懐かしいですね」
アマネは入口の扉を開けて、ふたりを促す。
「どうぞ。入ってすぐのところに食堂があります」
修道院の内側には、外から見た大聖堂ほどの白さはなかった。
壁も梁も、長い年月を吸った黒い木材で組まれている。磨かれた床板は深い艶を帯び、歩くたびに小さく軋んだ。その音は不思議と耳障りではなく、誰かがここで暮らしていることを、静かに思い出させるものだった。
空気は温かかった。炉に火が入っているのか、廊下の奥から淡い熱が流れてくる。木の香りに、乾いた薬草と焼きたてのパンの匂いが少し混じっていた。祈りの場というより、祈る者たちが息をするための場所だった。
アマネは何かを思い出すように足を止め、黒い梁を見上げた。
大聖堂の風は、いつも高いところを通っていた。けれどここでは、温度が低いところに留まっている。床の近く、椅子の背、誰かが手を置いた手すりのあたり。清浄であることよりも、冷えた体を受け入れることを先に覚えた場所のようだった。
すぐ隣の食堂から、話し声が聞こえてきていた。
しかし、三人が入ると賑やかな声がぴたりとやんだ。
食堂にいた人々が、みなこちらを見ている。
アマネはただ、左手を胸に添えて頭を下げた。
「さ、冷めないうちに食べてしまいましょう」
「うん!」
三人が質素な長椅子に座るのを見計らったように、周囲がざわつき始める。
「あれって……大司教さまだよな……お戻りになったのか?」
「い、院長を呼んできます!」
「私は大聖堂へ報告してきます……!」
駆け出したふたりはアマネに一礼した後、食堂を走り去っていく。
それを見たニャエルは首を傾げた。
「なんか慌ててなかった?」
「……嵐が来る前に食べてしまいましょう」
アマネは少しだけ口角を上げて言う。
まだ何か言いたげなニャエルだったが、その隣でティアは幸せそうな顔で聖堂焼きを口いっぱいに頬張っていた。
「ティア、少しずつ食べないと喉詰まらせるにゃ……」
「あ、飲み物をもらってきますね」
アマネは席を立ち、足早に厨房のほうへ向かう。
厨房の中の長椅子に、男が寝転がっていた。
アマネは、その傍で静かに声をかける。
「ライゼル……風邪を召しますよ。ライゼル」
ライゼルと呼ばれた男は、顔にかけていた布に手をかけ、低い声を出した。
やがて、何かに気がついたように布を取り、アマネを見る。
「……おお、大司教さまじゃないか」
「ご無沙汰しております。ライゼル」
身体を起こして立ち上がるライゼル。白い前髪が流れ、年季の入った顔に垂れる。
「しばらく見ないうちに大きくなられましたな。アマネ様」
「ライゼルはお変わりなさそうですね。飲み物を三つ頂けますか?」
「お待ちを」
ライゼルは湯に入っていた注ぎ壺の取っ手に手をかけ、静かに持ち上げる。
「温めた山羊の乳で構いませんか?」
「はい。構いません」
ライゼルは静かに頷き、長台の下から木製の飲み椀を取り出し、並べた。
注ぎ壺を傾け、静かに注いでいく。
温めた山羊の乳が、白い湯気を立てながら椀の底へ満ちていく。
椀に注がれた乳は、湯気と一緒に淡い甘さを広げた。山羊の乳らしい青い香りもあったが、黒い梁と床板に染みた木の匂いが、それを不思議と懐かしいものに変えていた。
「ありがとう」
そう言ってアマネが飲み椀を持とうとすると、ライゼルから声がかかった。
「おっと。席まで持っていきますよ。大司教さまに持たせるわけにはまいりません」
「ライゼル……いつも通りにしてください」
アマネが困ったように言うと、ライゼルは顔を上げて笑った。
ひとしきり笑い終えると、悪戯がうまくいった子供のような顔を向ける。
「ほら、冷めないうちに持ってってやれ」
「はい」
アマネは両手で飲み椀三つを抱えて、慎重に歩き始める。
ふわふわと左右に揺れる尻尾。
小さかった尻尾を思い出しながら、ライゼルは小さく呟いた。
「変わってないな」
湯気が立ち上る飲み椀を大卓に置き、ふたりの傍に寄せる。
「どうぞ、山羊の乳です」
「アマネ、ありがとう!」
ティアは両手で飲み椀を持ち、喉を鳴らして飲んでいく。
隣で見ていたニャエルは、その様子を見て心配になったのか身構えた。
「ティア……熱くない?」
ティアは幸せそうな顔で飲み椀を置いた。
「くぅぅ……美味しい!」
少しばかり赤くなった顔。鼻の下には、白いヒゲが生えてしまっていた。
すぐにニャエルが布を取り出して、ティアの口を拭いていく。
「ほら、ヒゲが生えちゃったにゃ……」
アマネはそんなふたりを見て、少しずつ飲み始める。
胸が温かいのは、山羊の乳が温かいだけではない気がした。
「ゆっくり飲むんだよ」
ニャエルは息を長く吐き出しながら布をしまう。
ようやく飲み椀を持ち上げて飲もうとしたが──
「……あちッ」
慎重に飲んだにもかかわらず、熱さに声を上げてしまう。
「ゆっくり飲むんだよ〜ニャエル」
「……うん」
静かに頷いたニャエルは、両手に飲み椀を持ち、舌先で慎重に舐め始める。少し眉をひそめ、その目には僅かに涙が浮かんでいた。
アマネは何かを連想してしまったのか、慌てて目線を逸らした。
その時、彼女の大きく白い狐耳が、足早に近づいてくる足音を捉えた。
聞き慣れた、少し生意気な者の足音だ。
やがて、黒い修道服に身を包み、薄紅を帯びた赤髪を一つに束ねた女性が食堂に入ってきた。
「アマネ様、ここで何をされているのですか」
とうとう、面倒を引き連れた嵐がやって来てしまったようだった。
アマネは大きく息を吐いた。




