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63話 静けさと甘い匂いの中で



小鳥のさえずりが森に降り注ぎ、朝露の冷たさと湿った土の匂いが清々しい風に運ばれてきた。葉の上で光が揺れ、夜の名残を溶かし始めている。


ニャエルはふと目を開け、自分が焚き火の傍でまどろみのうちに眠ってしまっていたことに気づいた。頬にはひんやりとした露が残り、朝日を透かした木漏れ日が赤黒く残る炭を淡く照らしている。騎鳥のクロもラグナも、翼をたたんで顔を伏せ、まだ静かな寝息を立てていた。


猫耳をすっと立て、周囲の気配を探ったニャエルは、誰に言うでもなく小さく呟いた。


「……何かあれば、すぐに起きるけどにゃ」


その胸には、ティアがうつ伏せのまま身を寄せて静かな寝息を立てている。昨夜のぬくもり、腕に感じる柔らかな重み、さらりと流れる髪の感触。胸の奥でざわめく衝動と、彼女を守りたいという想いが交差し、ニャエルは軽く眉をひそめた。衝動を振り払うように、そっと鼻先をティアの頭に寄せて深く息を吸う。ほんのり甘く、どこか自分の匂いにも似た香りが鼻腔をくすぐった。


思わず笑みが零れる。穢れを癒すために身体を拭いた行為が、自分の匂いを彼女に移すようで、満足感とくすぐったい幸福感が胸に広がる。


もう一度、宝物を確かめるように鼻先を彼女の髪へと埋め、耳元で静かにささやいた。


「ボクのティア……」


その言葉は朝の静けさに吸い込まれ、細い葉の間を流れる風にかき消えた。猫耳が周囲の音を細やかに拾い上げ、危険がないことを確かめると、ニャエルは大きく息を吸い込む。朝の澄んだ空気と、ティアと自分の匂いが混じり合った香り。その全てを五感で味わいながら、静かに息を吐き出した。


温かな時間の中で、ふたりはしばし、まどろみの底を漂い続ける。


  





いつしか陽が高く昇り、森に柔らかな光が差し込む。


銀灰の毛並みの騎鳥シロが小さく鳴き、ニャエルはゆっくりと目を開けた。白い法衣に身を包んだアマネが焚き火に薪をくべながら姿を現す。両手の動きは手慣れており、火の世話をする合間に周囲へ気配りを欠かさない。


「おはようございます」


アマネの爽やかな声に、ニャエルは欠伸を一つ漏らし、猫背を伸ばすように両手を大きく広げた。肩に掛けていた厚手の布がするりと落ち、胸元ではまだティアが眠そうに身じろぎしている。その柔らかな動きに、アマネは目を細めて微笑み、焚き火脇の丸太に静かに腰を下ろした。


「おはよう、アマネ」


ニャエルは冗談めかして肩をすくめる。


「治療はできましたか?」


アマネが尋ねると、ニャエルはほんの少し口端を上げて答えた。


「……なんとかなったにゃ。爪を立てられることもなかったよ」


その言葉に、アマネは小さく笑って頷いた。


「それは良かったです」


やがてティアがゆっくりと目を開き、跳ね上がった寝癖の髪を揺らしながら眠たげに周囲を見回した。


「……おはよう。アマネ」


ティアが声をかけると、アマネは枝に干し肉を刺し、火の上にかざした。火の赤と肉の香ばしい匂いが立ち昇り、空気を満たす。


「……あれ、リゼ婆は?」


ティアの寝癖を直すように、ニャエルが右手で優しく彼女の頭を撫でる。朝の光に照らされた髪をそっと撫でると、ティアは心地よさそうに目を細め、身を任せた。


「リゼさまはシンディの教会で、しばらくお世話になるそうです」


アマネは静かに答える。


「若者たちの邪魔をしたくないそうですよ」


その言葉に、ティアはほんのりと頬を赤くし、アマネは照れ隠しのように微笑んだ。


アマネは枝の先の干し肉を返しながらちらりとふたりを見やり、小さく頷いた。


「わたくしも、その気持ち、わかる気がします」


ニャエルは片腕を広げ、手招きするようにアマネを誘った。


「アマネもこっちにおいでにゃ」


誘われたアマネはわずかに視線を落とし、まだ炙り続ける干し肉に集中する。頬にはかすかな赤みが差し、白い狐耳がそわそわと揺れる。


その様子に、ニャエルは悪戯っぽい笑みを浮かべ、ティアはぱっちりと目を開いてアマネをじっと見つめた。淡い赤みがティアの頬に宿り、少し口を尖らせる。


やがてティアはゆっくりと立ち上がり、アマネのそばへ歩み寄った。膝に残る温かさが離れると同時に、彼女の中に小さな決意が芽生える。


「ティアさまの分も焼きますか?」


アマネが見上げ問いかけると、ティアはそっとその頭を撫でた。アマネの白い髪が指の間を滑り、彼女は目を丸くして息を呑む。


「ッ──」


ティアは微笑みながら小さく囁く。


「夜道は寂しくなかった?」


その問いに、アマネは一瞬迷ったように視線を彷徨わせた後、少し照れくさそうに答えた。


「……ちょっと寂しかったです」


その答えに、いつの間にか傍に来ていたニャエルも左手でアマネの背中を優しくさすった。突然のぬくもりにアマネの肩が跳ねる。


「よしよし、頑張ったにゃ」


「ひゃ……! ニャ、ニャエルさま……足音もせずに近付くなんて……」


アマネは焚き火から干し肉を離し、しばらくそのままされるがままだった。胸の奥に込み上げる安心感に、思わず頬が緩む。


「……ありがとうございます。なんだかホッとしますね」


その言葉がこぼれた途端、ニャエルの右手が素早く伸びた──


「──いただきッ」


アマネが持っていた干し肉をひょいとつまみ上げると、ニャエルは身軽に太い木の枝へと飛び乗った。枝がしなる音と同時に葉が揺れ、猫耳が朝日を受けて淡く透き通る。


「あぁ……取られちゃいました……」


アマネは苦笑し、ティアは心配そうに木の上を見上げた。


「熱いから気をつけてねー」


ティアはくすくすと笑い、アマネは枝に干し肉を次々と刺していく。


「取られないように、いっぱい焼いちゃいましょう」


木の上からは森の木々の間を抜ける光がよく見え、ほんのり冷たい風が髪と耳をなでていく。ニャエルは焼き立ての干し肉をふうふうと吹きながら口に運び、舌を火傷しそうになって小さく舌を出した。


「あちっ……」


朝露に濡れた葉を通して降り注ぐ木漏れ日と、甘い肉の香り、三人の笑い声。森の朝は静かで、そして温かく流れていった。



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