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62話 ティアとニャエルの夜



夜の帳が森に深く降りていた。


夏のはずなのに、吐く息がほんのり冷たい。冬の始まりのような、湿った土と枯れ葉の匂いが漂っていた。


木の傍では、騎鳥ラグナが身じろぎもせず座っている。たくましい翼を持つ背が月光に照らされ、墨色の羽毛を持つクロはその隣で丸くなって眠っていた。その傍らで、ティアを背に負ったままのニャエルが大きな石を慎重に運んでいる。


「石の上に剣を置いて、その上に薪だにゃ?」


「うん」


ティアは背後の剣帯に手を伸ばし、白い剣をゆっくりと抜き取った。金属の擦れる音が夜気を震わせた。


ふと動きを止めて、ティアは小さく首を傾げる。


「そういえば、私が倒れたとき、剣を抜いてたと思うけど……」


月明かりが剣の刃を白く照らす。


ティアは眉を寄せて続けた。


「どうやって剣を鞘に入れたの? この剣はとても重いはずなのに……」


ニャエルが答える。


「ティアは剣を握ったままだったからにゃ、アマネとふたりで慎重に鞘に戻したよ。大変だったにゃ……」


ニャエルは屈み、ティアが石の上に剣を置くのを見守った。剣が石に触れたとき、鈍い音が闇の静けさを破る。


「意識がなくても、軽くなってるんだね」


「寝ている時に重くなったらあぶないにゃ……」


剣の上に薪を積んでいく。木肌に夜の湿気がまとわりついた。


「じゃあ、引くよ」


ティアが石の上から剣をゆっくり引き抜くと、ギィンと澄んだ高い音が森に響き、瞬間、剣先と石から白い火花が弾けて、闇がほんの一瞬だけ明るんだ。


湿った薪が、そこからゆっくりと燃え上がる。白い煙が焚き火の上でくゆり、ゆるやかに夜空へ昇っていった。乾かすための薪も傍に寄せ、夜露の下で静かに火を待つ。


ニャエルはクロに背を預けて腰を下ろし、ティアもその隣に身を落とした。ふたりの影が、火を挟んで重なる。


「じゃあ、ティアの治療しようか」


「うん、シルの時みたいに一回で治らないの?」


ニャエルはクロの背から荷物を引き寄せ、水袋を取り出した。


「アマネが言うには……かなり濃い穢れみたいだにゃ。……ボクから離れると侵蝕が進んで全身に回る、そうなったらどうなるか……」


ティアの左手に巻かれた包帯をほどく。湿った布地が肌に擦れるたび、森の冷気が沁みてくる。木が根を張るように腕の穢れが手の甲に広がり、肌は夜の闇よりも濃く変色している。


ニャエルは水袋をそっと傾けた。


「ちょっと痛むかも」


「大丈夫……」


水滴が黒ずんだ肌に落ちた瞬間、ジュッという音がたちまち蒸気に変わって消えた。


「──ッ」


わずかな時間が流れると、黒い染みが再び肌に広がっていた。


「やっぱりシルの時と同じだにゃ……“浄化”だけではすぐに戻る」


白い布を湿らせ、そっとティアの手のひらを包む。ニャエルが両手を重ねると、掌の奥から淡い黄の光がふわりと溢れ出した。


「わぁ……“発現”したんだね……おめでとうニャエル」


 ティアの言葉に、ニャエルは驚いたように瞬きをし、口元がほころんだ。嬉しさと照れくささが入り混じったその表情は一瞬だけで、やがて真剣な眼差しへと変わり、ティアの目をまっすぐ見つめる。


「見てて」


ニャエルはティアの頭に鼻先を寄せ、そっと息を吸い込む。森の匂い、ティアの髪の香り。鼓動がすぐ耳元で伝わる。


その瞬間、黄の光が火種に息を吹き込むように強く瞬き、布全体へと広がった。


「……私の頭を嗅ぐと、光が強くなるの……?」


「よ、よく分からないけど……そうなんだにゃ……」


光が静かに収まり、夜風がふたりの間をすり抜ける。


「じゃあ、これで拭いてみるね」


「うん」


冷たい布が手から腕へと丁寧に撫でられていく。穢れの黒が少しずつ薄くなっていく。


「あ……痛くない。気持ちいいかも」


「……うん。毎日、少しずつ拭いていくと良いらしいよ」


ティアはふと目を伏せ、小さく囁いた。


「もしかして、“お花を摘む時”も一緒に……?」


ティアは目線を下に落とし、指先で包帯の端を弄ぶ。


「そ、それは扉を挟めば、平気だと思う……ボクが光を広げるようにすれば……」


ティアは肩の力を抜いて、くすりと笑う。


「じゃあ平気かな……耳は塞いで欲しいかもだけど」


ニャエルが一瞬真面目な顔をした。


「うん、それは任せて」


ニャエルはひとつ大きく息を吐く。


「……もうひとつ、問題があるにゃ……穢れはほとんど全身にあるにゃ……」


ティアは首を傾けて、そっとニャエルを覗き込んだ。


「えっと……ニャエルが大変……?」


「いや……ティアは……ボクが触っても平気……?」


ティアの頬が、焚き火の光よりも赤くなる。


「……確かに大変かも……でもニャエルなら」


「待って、その先は言わないで欲しいにゃ……」


ニャエルは突然言葉に詰まり、恥ずかしそうに視線を外した。深く息を吸い込むと、胸の奥のざわめきを鎮めようとする。夜風がふたりの髪をふわりとなでた。


「じゃあ……お腹から少しずつやっていこうか」


「うん……」


森の夜に、焚き火とティアの小さな笑い声が混じった。


  ◇


いつの間にか焚き火が低くなり、周りを覆う闇が濃くなった。夜が深くなり、空には星が瞬いていた。パチッと薪が弾け、炎がわずかに揺れる。


ティアが膝立ちになり、乱れた服をそっと直していく。肌に触れる夜気と焚き火の温もり。


橙色の光に照らされた滑らかな曲線を、ニャエルはつい見とれていた。


ティアはすとんとニャエルの肩に背を預け、見上げるように覗き込む。


「……全部見られちゃった」


「そういう言い方しないで欲しいにゃ……」


ニャエルは厚手の布を取り出し、そっとティアを包み込む。


「……でも、綺麗だったにゃ」


 ニャエルの言葉に、ティアの肩が小さく震えた。頬が焚き火の炎よりも赤く染まり、視線をそっと伏せる。それでも口元にはかすかな笑みが浮かび、やがて恥ずかしそうにニャエルを見上げる。ニャエルもまた、真っ直ぐな眼差しで彼女を見守りながら、そっと尻尾を揺らしていた。


「──ッ……ありがと、嬉しいかも……」


──ニャエルの魔力を水に込めれば、ひとりで拭くことが出来たかもしれない。


その事実を思いつつも、どちらも言葉にはしなかった。

残ったのは、ふたりで過ごす静かな時間と、いつしか芽生えた淡い絆だけだった。


静かな夜風が吹き抜け、焚き火から立ち上る火の粉が星空へ溶けていった。




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