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61話 その光はまだ、名を持たず



「アマネさま!」


ロスティアの街が遠ざかる。まだ湿り気の残る道を、三頭と三人が朝露を踏んで進んでいた。


道沿いの野道、濡れた草の匂い。夏の空気に、静かな風が通り抜けていく。


小さな白い教会が、林の向こうに見えてきた。教会前の広場では、信者や兵士らしき人々が土を掘り進めている。 シンディ司祭がこちらに気づき、両手を大きく振って合図した。


アマネが騎鳥シロを操り、幌馬車の隣に並ぶ。


「ここで一度止めてください」


車輪の軋みが止まる。後ろの幕が開き、リゼ婆が姿を見せた。 かつて曲がっていた背筋は、今は見違えるほど真っ直ぐに伸びている。


「リゼ婆……ほんとに若返ってる……」


ティアが小さく呟くと、リゼ婆はその言葉を聞きつけて、にやりと笑った。


「アマネとニャエルのおかげさ!傷を治すどころか若返っちまったよ!」


アマネが、シロを下りて心配そうに歩み寄る。


「リゼさま、傷が塞がったとはいえ血は戻っていません。どうか無理はなさらないでください……」


リゼ婆は、笑顔のまま手をひらひら振る。


「……そいつが婆のせめてもの手向けさね。あんたたちの治したこの体で、してやれることをしてやりたいのさ」


アマネが苦笑いを浮かべる。


「はい……少しずつお願いします」


リゼ婆はこちらへ来て、そっと見上げる。


「ティア、いい友達ができたね。大事にするんだよ」


その言葉に、胸の奥がふっと熱を帯びる。

頬に触れた風さえ、ひどく気恥ずかしかった。


「い、いつまでも子供扱いしないでよ……」


リゼ婆はそのままニャエルを見つめる。


「ニャエル、ティアのことをよろしくね」


ニャエルは微笑んで、素直に頷く。


「はい、お任せください」


そのままティアを片腕で抱き寄せる。


「ちょ……私が寝てる間に、何を話してたの……?」


ティアが顔を上げてニャエルを見上げる。


「すぐにひとりで走り出す君に、みんなで首輪をつけようって話してたにゃ」


「な、何それ。私を犬か何かみたいに……」


ティアは頬を膨らませたが、ニャエルの尻尾が体にからむように揺れているのを感じて、口をつぐんだ。


アマネがシロの背から近づいてくる。


「では、ニャエルさまはティアさまをお願いします。ついたら治療も、教えた通りに、始めてください」


「わ……分かった。クロ、ラグナも!いくよ」


いつの間にか話は進み、ティアはきょとんとしながらも、騎鳥クロの背に戻る。

クロの大きな翼がふわりと広がり、野道を踏みしめる音が静かに響いた。


遠ざかっていく皆に、ティアは身を乗り出して手を振る。背中にニャエルの腕の温もりを感じると、つい口を尖らせる。


「……ちゃんと説明してね」


「……もちろんにゃ」


背後からリゼ婆の大きな声と、男たちの歓声が混じって聞こえてきた。

空の高みには、まだ白い雲が細く伸びている。

クロの足音だけが、野道に静かに重なり、時の流れを運んでいった。



  ◇



空が茜色に染まり始める頃、ひんやりとした風が頬を撫でた。


暖かな季節のはずなのに、足元には冬の名残がしぶとく残っている。

まるで時間だけが、この地に取り残されたようだった。


クロの背に揺られ、ティアはしずかに目を閉じる。ニャエルの腕に守られ、肩越しに聞こえる鼓動。


「……もしかして、作ってるお墓ってエリチェ村の?」


「うん……リゼ婆さんは……隣村の顔や名前も知っているから、墓石に名を刻む時に……ね」


ティアは、遠く沈む太陽を見つめながら、小さく息を吐く。


「隣のモンテ村も襲われてたの?」


「……うん。ふたつの村で生き残ったのはリゼ婆さんと猟師だけだから、廃村になるってさ」


寂しさが、心に冷たい影を落とした。


「……どうして、悪魔は人を傷つけるんだろう」


思わず、声に出していた。


「遠い昔は、同じ世界で悪魔と人は暮らしてたらしいよ。でも、戦争が起きて、人は悪魔たちを魔界に閉じ込めたって言い伝えが残ってるね」


「……仲良く暮らせないのかな?」


ニャエルの肩に頭を預けて、横顔を見る。猫耳が、何かに反応するように小さく動いた。


「難しいだろうね。人同士でも争いは絶えないし……」


その言葉に、ティアはただ静かに頷く。


川にかかった木の橋を渡る。水音が、切なげに響いた。

頬を撫でる風に、どこか湿った冷たさが混じっている。


鳥の声も遠くなり、森の影が道を覆い始めていた。


「そろそろ野営しようか」



  ◇



街道から逸れて、森の中へ。


木の根元にクロとラグナを座らせると、ティアはそっと話す。


「焚き火、起こしたいね」


ニャエルは苦笑する。


「君はボクから離れちゃダメなのに……」


「……わ、私を背負ってくれたらできるはず……!」


ニャエルは肩をすくめ、しぶしぶティアを背負いながら薪を集め始める。


「大きな石もいるんだっけ?」


片手に大きな石、もう一方に薪、背にはティア。

自分の重さを思い、ティアは小さな声を漏らす。


「う、うん……ごめんね……」


「軽い、軽い」


ニャエルが頼もしげに笑う。その背中に、そっと頬を押し当て鼓動を感じた。


こんなふうに誰かに寄りかかるのは、慣れていない。

でも、ニャエルの背中はやさしくて、あたたかくて……ほんの少し、あこがれてしまいそうだった。


「温かい……」


──触れて、馴染ませる。

心の中で静かに願う。


ふわり、と空気が緩み、雪片のような白い光がティアの背から舞い上がった。

それは無音のまま、風に溶けていく。

だが、触れた指先が静かにあたたまっていくのを、ニャエルは確かに感じていた。


「わ……なんか体が軽くなってきた。ティア、何かしてる?白い光出てるよ」


「うん、ニャエルが楽になるかなぁって……。人にも効果あるかも?」


ニャエルは吹き出すように笑った。


「初めてやったの?ボクで実験しないでにゃ」


「ち、ちが……初めてだけど……嫌だった?」


ニャエルは背中越しにティアの顔を覗き込み、おどけた調子で言う。


「嫌じゃないにゃ。でも、ボクの髪白くなってない?」


「黒いままだよ、染めてあげようか?」


ティアはからかうように話すと、

ニャエルはふいと前を向き、わざとすました声を出す。



「……君になら、染められてもいいかもね」



ふたりの体温が重なり、白い光が鼓動に呼応するようにふわりと揺れた。


染める、という言葉が残像のように心に浮かぶ。


焚き火はまだ灯っていない。



それでも、ふたりのあいだに──

静かな火が、ともり始めていた。







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