60話 寄り添う鼓動、癒えぬ穢れ
暗闇の中、私は剣を手に座っていた。
どこまでも沈むような夜の気配。
足元の土は、命の気配を失ったように冷たく、指先にはもう感覚さえ残っていない。
握るはずの剣の重みも、まるで別の世界のもののようだった。
足音が迫る。 黒い服の悪魔が、闇を裂くように現れる。 その手のひらに、黒い炎がうねり燃え上がる。
「白き光の者よ、安らかに眠るといい」
ニャエルが私の前に立つ。
大きな背中。
伸ばした私の手は、空を切るだけで、声も出ない。
──声がでない、どうして。
ニャエルを包む黒い炎、灼けるような熱、空気がひりつき、焼け焦げた匂いが満ちていく。
瞳の奥が白く霞んでいく。
「ニャエル……!」
その名を呼んだ瞬間、遠くで、小鳥の声がひとつ。
まぶたの裏に、朝の光がにじみ出した。
木漏れ日の中、まぶたの裏に淡い光が滲む。
目の前には騎鳥クロの大きな頭。その先には白い幌馬車。
ゆっくりと、柔らかな揺れが背中に伝わってきた。
「はは、寝ぼけてるにゃ」
すぐ上から、明るい声。
金色の双眸が、やさしく私を覗き込む。
陽の光に透けて、髪の縁がきらきらと輝く。
「ふふ、起きてすぐニャエルさまを呼ぶなんて……」
隣にはシロの背に乗ったアマネ。
唇を手で覆い、目元に微笑みを浮かべてこちらを見ている。
私は、ひとつ息を吐き、背中をニャエルに預ける。
まるで“生きている証”のように、鼓動が背中に打ち続けていた。夢の名残が、身体に貼り付いたまま離れない。
「夢……見てたみたい」
「ここは現実にゃ」
ニャエルは鼻先でそっと私の頭に触れる。
細くしなやかな髪が、優しく耳元をくすぐった。
「……うん」
前をいく幌馬車。その幕が開き、リゼ婆が手を振っている。
「ティア〜、ようやく起きよったか。相変わらずの寝坊助め」
生きている──その実感が、涙腺の奥を一瞬だけ揺らした。
「リゼ婆! 生きてたの!?」
「はっはっは、勝手に殺さないでおくれ」
リゼ婆は大きく口を開けて笑う。しわの間に太陽が溜まって見えた。
「……なんか若返ってる?」
そのまま身を乗り出そうとした私を、ニャエルが優しく制した。
「ダメだよ。病人は、おとなしくボクにくっついてなきゃ」
肩に手を添えられ、身体を戻される。
「左手を見るにゃ」
包帯を巻かれた左手。隙間からは、黒く変色した肌が覗いている。
「……これ、もしかして……穢れてるの……?」
「あの悪魔にやられて穢れをもらったんだよ。大聖堂で治療するから、それまでは離れないで」
私は、またニャエルに背を預けて、顔を伏せる。
「……ごめん。わたし、また……勝手に」
後ろを歩いていたラグナが、喉を鳴らしながら隣に寄ってきた。
「ラグナもごめんね」
頭を撫でると、ラグナは額をぐいと擦りつけてくる。体温と息遣いが心地よい。
「……あのあと、どうなったの?」
「ん〜……あの後は、悪魔が逃げて、ティアを運び出して、隊長さんと話をしてから……ここかにゃ」
意識するより早く、私は彼女の首に両腕を回していた。
息づかいの熱が頬に触れ、心の底に残っていた闇が、ひとしずく溶けていく。
首を傾けて、彼女の金色の瞳をじっと見つめる。
唇が触れそうな距離まで近づいたその時、アマネが両手で口元を隠して息を呑む。
「ケガしてない?」
「うん」
「火傷も?」
「うん」
そっと両手をほどく。
「よかった……」
「まだかかるから、休みにゃ」
ニャエルとクロに身を委ねて、私は再び目を閉じる。まぶたの裏には、先ほどまでの悪夢がまだ霞のように漂っていた。
アマネは肩を落とし、わずかに苦笑する。
◇
日が高くなり、遠くにはロスティアの外壁が赤く浮かぶ。
幌馬車を先頭に、三頭の騎鳥と三人が北の道を進んでいく。
「街には寄らないの?」
「……まずは君とリゼ婆の療養が先にゃ。怪我人の自覚を持ってにゃ」
私は、背中を預けたまま、口を尖らせる。
「……大聖堂にお肉あるかにゃ?」
アマネが得意げに胸に手を当てて答える。
「ご安心ください。街では手に入らない逸品がございます」
「だってにゃ、ニャエルにゃ」
「……ボクの真似をしてるのかにゃ。」
ニャエルと目が合い、ふたりして小さく笑った。
「にゃ、にゃ、にゃ」
私がふざけて口にすると、ニャエルの瞳孔がふわっと大きくなり、顔が赤く染まる。
次の瞬間、獲物を捕えるように抱きしめられる。
首筋にそっと歯が当てられた。
「ちょ、ニャエル……くすぐったいってば……! ごめんごめんっ!」
鞍の上で、じゃれ合う。クロが振り返り「プァッ!」と抗議する。
「これで恋人じゃないと、なぜ言えるのでしょうか……」
アマネは口元に微笑を浮かべ、ゆっくりと息を吐いた。
◇
──同刻。
仄暗い洞窟、無数の木箱が積み上げられた空間。
湿った空気と、かすかな火薬の匂い。
緑がかった髪の幼い少女が、木箱に座り、足をぶらぶら揺らしていた。
遠くから、硬い靴音。
少女は顔を上げて、闇の奥を見つめる。
「マイロード!」
駆け寄る少女。
黒衣の悪魔メゼルは、拒絶するように近くの木箱を拳で砕いた。
木屑がぱらぱらと地面に散る。
「──もう一歩……届いていれば、すべて終わったのだ……!」
歯噛みし、悔しさを滲ませるメゼル。
リッチは裾をそっと握る。
「……大丈夫。わたしがいるよ」
「……すまぬ。取り乱した……」
メゼルはその場に座り込み、木箱に背中を預けた。
仄暗い灯りの下、瞳が赤く瞬く。
「リッチ、貴様の言う通りだ。冥界と繋ぐことさえ出来ればやりようはあろう……」
リッチは、そっと頷く。
「マイロード、わたしはもっと強くなりたい」
「……魔力はどれほど残っている?洞窟に戻る前に“土産”を置いていっただろう」
叱責するような声音。
「……残ってない」
リッチは顔を伏せ、唇を噛んだ。親に叱られた子供のような姿。
「勝手なことを……。しかし……おかげで白き光に陰りが出来た、よくやった」
ぱっと顔を上げ、リッチは屈託なく笑う。
「まずは貴様の魔力回復が、最優先だ」
「はい、マイロード!」
元気よく返事をして、リッチはメゼルの膝の上に座る。
「……貴様、何をしている」
「ここがもっとも“こうりつてき”?」
しばし、静寂。
メゼルは、ふっと口元を緩めて、リッチの頭をそっと撫でた。
くすぐったそうに笑いながら、少女は悪魔にそっと背を預けた。
「好きにするがいい」
闇の奥から、静かに吹いた冷たい風は、まだ名を持たぬ希望のようだった。




