57話 闇の跳梁
──夕刻、畑の境界。
石垣の上に腰を下ろし、エルドは土の匂いと風の流れに目を閉じていた。
西の空が茜に染まり、残照が畑を朱に照らしている。
どこかで薪を割る音、くぐもった笑い声、そして──誰かが歌う、細く震えるような声。
ここは、エリチェ村の隣──モンテ村。
夕風にそよぐ麦のなか、ひときわ目立つ麦色の髪の青年と、その傍に、栗色の髪と茶色い瞳の少女がいた。サラ。
その視線には、どこかはにかみを帯びた真っ直ぐさがあり、エルドは少し困ったように目をそらした。
サラは石垣に軽く飛び乗り、膝を抱えるように腰を下ろす。
「あなた、隣のエリチェ村でしょ? どうして、うちの村まで来て畑なんて手伝うの?」
淡い期待。だがその奥に、言葉では届かない“何か”を探る気配があった。
エルドは黙って土に手を伸ばす。
すくい上げた土の粒が夕陽に透け、音もなく乾いた地面へと落ちていった。
「……畑を守りたくてね」
その言葉に、サラは小さく唇を尖らせると、首を傾げる。
「……変なの」
ふたりのあいだに、風が吹き抜ける。
揺れる髪、揺れる麦。青草の匂いが静かに鼻腔をくすぐった。
やがて、少し離れた畦道から村人の男の大声が響く。
「宴会を開くぞー! ふたりともはやくこいよー!」
サラは顔をぱっと明るくして、立ち上がる。
「宴会だって!」
その背を見送りながら、エルドは再び夕空を仰ぐ。
雲がゆっくりと流れていく。
その向こうに、旅立ったあの村。ティアとの記憶。
──ティア。君は今、なにをしてるのかな。
「エルド! 早く!」
「ああ、今行く!」
立ち上がろうとしたそのとき、ふいに風の流れが変わった。
背に触れる空気が冷たい。季節外れの寒気。
エルドが振り向いた、その刹那──
畦道の先、石垣の外。
闇の底から這い出るように、無数の鎧姿の骸骨たちが畑を踏み荒らしていた。
鈍く光る剣、槍、乾いた金属音。常夜のごとき静寂。
サラが叫ぶ。
「エルド! 逃げて!!」
だが動くより早く、骸骨たちは一直線に駆け出す。
夕焼け空に、異様な影が奔った。
そしてその瞬間──世界は、闇に呑まれた。
◇
夜が訪れたモンテ村。
家々の灯りは一つ残らず消え、瓦礫の影には血と鉄が入り混じった、馴染みのない匂いが立ち込めていた。
村の中心には、ひときわ異様な影──
黒衣の悪魔メゼルと、彼に寄り添う少女リッチ。
メゼルの周りには、骸骨たちが整列し、月明かりのない夜に不気味な輪を作っていた。
「白き光を放つ者はいたか?」
その言葉に、骸骨たちが一斉に歯を鳴らし、カタカタと乾いた音が夜を震わせた。
少女リッチは、骸骨たちの音をじっと聞き分け、メゼルに向き直る。
「……いないって。マイロード、まちがえた?」
「黙れ。吾輩が見誤る訳がなかろう……」
メゼルは空を仰ぐ。遠く、山影の谷間に、わずかに人家の灯りが揺れている。
「……待て、あの谷間の光は村か」
少女リッチが無邪気に指差す。
「あっちの村だったかも?まちがったね、マイロード」
メゼルの裾をぎゅっと握る手。
「黙れ。これは誤差の範囲だ、次はあの村にゆくぞ」
骸骨たちが一斉に振り向き、夜の草を踏み鳴らしながら進路を変える。闇のなか、甲冑と骨の軋む音が夜風と溶け合う。
◇
夜のエリチェ村。
家々の窓には、まだ柔らかい灯りが残っている。
村の外れ、小川のそばで、猟師ラルスと老女リゼが肩を並べていた。
「モンテ村の灯りが消えている……?」
リゼ婆の声が、夜の静けさに滲んだ。
しんとした空気の向こう、あの村までの谷筋は、普段ならかすかな光を返すはずだった。
リゼ婆は膝をつき、土に両手を当てる。 目を閉じ、ゆっくりと深い息を吐く。地中を流れる力、遠くの大地の振動、冷たさと生温かさ、そのすべてを指先で探る。
「あそこの村長は宴会好きだから……」
ラルスが声をかけようとした瞬間、リゼ婆は声を張り上げた。
「村のものをみんな起こすのじゃ!今すぐ!」
その言葉が夜気を突き抜け、家々の中からあわただしい気配が立ち始める。
ラルスは突然の事に驚き、固まってしまう。
森の奥から、風を裂く音。
槍を構えた骸骨が、地を滑るような異様な跳躍で──人ならざる軌道で、リゼ婆を目がけて突進してきた。
リゼ婆は迷いなく地面に手をつき、地面から突き出す土の槍が骸骨の胸を貫き、砕けた骨が草に散った。
「ラルス!村のものを起こしたら、ロスティアの街へ行け!魔界が開かれたと知らせるのじゃ!」
ラルスが顔色を変え、急いで村の方へ駆け出す。
リゼ婆は、月のない空を仰ぐ。
「……なんと禍々しい」
──何かが地を蝕んでいる。
魔の淀みが夜気に染み出し、村の土すらざわめいているようだった。
村の端、草の揺れる音もないはずの空間に、異様な気配が満ちた。
まるで空気が引き絞られたように、風が止まる。
その刹那、黒衣の男──悪魔メゼルが、音もなく現れる。
その気配に、夜の気温がわずかに落ちたようだった。地を這う影が重なり、あたりの空気が淀む。
「がいこつさん、やられちゃった」
その隣にいたのは、緑がかった髪の幼い少女。表情には笑みが浮かんでいたが、その声音には揺らぎがなかった。
まるで絵本を読むように、無邪気でいて無感情。人の形をした“何か”が、ひとの言葉を真似て喋っている。
少女の瞳が、夜の中で薄く緑に輝いた。光を宿した双眸が、闇の底から浮かび上がる。
「でも、まだいっぱいいるよ」
その言葉と同時に、森の影から骨の軋む音がひとつ、またひとつと重なり始めた。
枯れ枝を踏みしめるような音。土を割って這い出すような音。月のない夜に、白く乾いたものたちが、ぞろぞろと姿を現す。
骸骨たちは音もなく武器を構え、ゆっくりと、だが確実に歩を進める。
死者の軍勢が、静かに、闇を連れてやってくる。
「老婆よ。白き光を出す人間を差し出せば、村人の命は助けよう」
リゼ婆は、その言葉に一歩も引かず睨み返す。
「……なんじゃその娘は……禍々しい魔力を纏っておるのを見ると、”繋ぐもの”か?幼子に変化させるとは……なんと悪趣味な……」
リゼ婆はゆっくりと跪き、両手を地面に広げる。
土の気配、村人の息吹、遠くでラルスの大声が混じり始める。
「……なんとでも言うがいい。白き光の者を出せ」
リゼ婆は顔を上げ、叫ぶ。
「断る!」
次の瞬間、地面が唸り、無数の土の槍が少女リッチを狙って飛び出した。
メゼルは、少女リッチの腰を抱き、黒い翼を広げて空へと跳躍。
地上では、土の槍が刺さったまま、骸骨たちがバラバラと崩れ落ちていく。
「マイロード。おばあさんに逃げられちゃった?」
闇の上で、少女リッチが小声で囁く。
「……黙れ。骸骨どもよ、村を根絶やしにしろ」
夜のエリチェ村に、遠い雷鳴のような怒号が響く。
灯りの残る家々。
戸口に集まる人々。
子を抱いてうろたえる女たち、震える手で鍬を握る男。
泣き声が夜に混じり、戸が打ち鳴らされ、命の光が最後の瞬きを見せていた。
闇が、それらをひとつずつ呑んでいく。




