56話 断章:繋ぐもの
夜が終わることのない場所。
陽の光というものが何であったか、誰ひとり思い出せない世界。
人間はこの地を「魔界」と呼ぶ。だが、そこに棲まう者たちは、静かにこう名づけていた。
――冥界。
その大地は灰と黒で塗り潰され、空と地面の境界さえ曖昧だ。重たく垂れこめる闇の雲が、どこまでも広がり、地平の先にも希望の色はない。
時折、魂とも影ともつかぬものが地を這い、石の割れ目から滲み出す微かな燐光も、ほどなく闇に呑まれていく。
風もない。音もなく、ただ永遠の静止が支配している。
その世界の奥深く、岩と骨で築かれた玉座の間。
王座の上には、冥王ヴァルグレインが座していた。巨大な骸骨の身体に、黒い焔のマントをまとい、目の奥には凍てついた怨嗟の光。
王座の間は、果てが霞むほどの広さを誇っていた。だがそこに息吹はなく、ただヴァルグレインの存在だけが場を圧倒していた。
やがて、足音。
石床を滑るように歩いてきたのは、黒衣の悪魔──メゼルだった。 彼の背には大きな蝙蝠の翼。髪は深い漆黒で、瞳には冷たい赤い光が宿る。歩みは静かで、それでいて空気の振動すら従わせるような知性と気配を纏っていた。
玉座の前に、膝をつかず、静かに佇む。
「吾輩を呼びつけるなど久しぶりだな、冥王よ」
声は乾いて、低く、少しも揺れない。
ヴァルグレインはメゼルを見下ろし、骨の顎をゆっくりと開いた。
「覚えているか? ……あの日、ジオという獣人に、忌まわしき白の光を振るった人間に、我が手勢が蹂躙されたあの屈辱を」
ヴァルグレインの声には、怒りと、それ以上に、長い時を経てなお磨かれた悔恨があった。
「忘れる訳があるまい……ジオは我が妹、ティオを……」
ヴァルグレインは口元を歪めた。
「……そうだ、貴様の妹もまた……ジオの手によって滅された」
静寂。
玉座の間に、ほとんど音にならない空気の振動が広がる。
「……それで、吾輩に何をさせたい?」
ヴァルグレインは、片腕を玉座の肘掛けに預けた。
「地上で残した“種”がある。千年前、グールを解き放ったのを覚えているか? あれが自生し、今もなお残っている。愚かな人間どもが精霊を守ることを忘れ、依代の大樹に墓を築き穢した。──そしていま”繋ぐもの”が生まれたのだ」
「リッチか……また始末のつかぬものを」
「放っておけば地上は腐り果て、冥界となる。が、精霊たちが白き光を再び生み出した。あの光こそが忌まわしい。……メゼルよ、お前を一番槍とし、”時”が満ちるまで準備せよ」
メゼルは短く沈黙する。
「それは冥王として命か?友人としての頼みか?」
だが、その声にはどこか冷ややかな響きが混じる。
「メゼル。ジオの末裔も、白き光も──見つければ踏み潰せ」
「……吾輩に復讐の機会を与えると言うのか、ヴァル」
その声音は低く、かすかな震えを孕んでいた。激情ではない。むしろ感情はすでに焼き尽くされ、熾火のように胸の奥でくすぶっている。
だがその熱は、いずれ世界を灼くと決めた者のものだった。
「召喚の塔に手勢を集め、骸骨どもを詰め込んでおくとしよう」
言葉の裏にある決意は、黒き炎のように沈黙の中に揺れていた。
「好きにするがいい」
メゼルは、ヴァルグレインから目を逸らさなかった。
「それともうひとつ……”箱”を用意してもらおう」
◇
冥界の中心に屹立する、黒き塔──召喚の塔。
塔の壁は不気味な脈動を繰り返し、無数の窓が闇の中に口を開けている。
階段には鎧や骨の兵が、まるで時間に封じられたかのように沈黙し、主の命をただ待っている。
最上階には、広大な儀式の間が広がる。
黒大理石の床に幾重もの魔法陣が刻まれ、空間は軋むように歪み続けていた。
天井から垂れる黒糸は、まるで世界の裂け目から零れ落ちた闇の触手のようだった。
その中心で、メゼルは両翼をたたみ、静かに時を待っていた。
冥界の風は冷たいが、彼の顔には感情の影が見えない。
そこへ、軽やかな足音。
グズィ──小悪魔。
痩せた体、真紅の舌、にやにやと歪んだ笑み。
金貨の飾りをじゃらつかせ、目だけは爛々と欲望の光を宿す。
「聞いたぜ、メゼル。地上に行くんだってナァ?」
メゼルは一瞥もくれず、ただ空間の先を見つめた。
「……何をしにここへ来た、グズィ」
「お前を殺し、オレが地上に上がって人間を貪り食うのサァ!」
グズィは笑いながら、メゼルに襲いかかる。
その瞬間、黒い焔が空間を薙いだ。
グズィは叫ぶ暇もなく、全身を闇の炎に包まれる。
そのまま灰となり、崩れ落ちていく。
その光景を、塔の柱陰からひとつの眼だけが見ていた。
小さく笑ったまま、声もなく、消えてゆく影。
「……穢れは要らぬ。吾輩に勝てるとでも思ったのか……愚かな」
メゼルはわずかに視線を落とし、再び闇の奥へと向き直る。
儀式の間には、焦げた肉の匂いと、灰が落ちる音──そして、誰のものでもない静寂だけが残った。
◇
──地上。
召喚の塔の魔法陣が、地を割く轟音とともに闇を吐き出す。
常闇の裂け目から現れたのは、黒衣の悪魔。
その背には大きな翼、瞳は赤色、歩くたびに地面の草が黒く枯れていく。
「……千年ぶりの、地上か。相変わらず生臭い」
メゼルはゆるやかに空を仰いだ。雲に閉ざされた光が、夜と朝の境で鈍く滲んでいる。
湿った空気が肺を重たく満たし、遠くで鳥の声が一度だけ、眠気を引き裂くように鳴いた。風が頬をかすめ、冥界にはなかった、生きものの体温が空気の粒に混じっていた。
その風のなか、微かに異なる気配があった。
枯れ枝のような足音。立ち枯れの草を踏みしめる音がひとつ、またひとつと近づく。
メゼルが目を細めるより早く、影がそっと傍らに立つ。
「貴様が“繋ぐもの”リッチか」
緑色のボロをまとった骸骨が、肩をすくめるようにしてこちらを見ていた。歯を鳴らし、カタカタと骨音を奏でる。
「言葉を交わす事もままならないのか……」
メゼルは骸骨の頭を鷲掴みにする。
「……精霊の呪いか。依代を探さねばなるまい……しかし、ここは目立つな」
遺跡の大樹から遠くを一瞥し、すぐに反対側の崖へと飛翔した。
翼を広げ、闇夜を滑る。
その体が通った後には、冷たい風が地面を這う。
崖の下にぽっかりと開いた洞穴。
メゼルはそこを住処に選ぶ。 中は湿っていて冷たいが、地上の光よりはずっと柔らかい。
「貴様はここにいろ」
辿々しく後を付いてきた骸骨のリッチに命令する。
闇に溶けて、地上の気配を静かに探る。
その時、周囲の空気がかすかに揺れた。
耳を澄ませば、遠くからささやき声が聞こえる。
──精霊たちが、どこかで無防備に騒いでいる。 ひとつの村に集中しているな
「……白き光の居所か」
僅かな興味と、底知れぬ冷笑が混じる。
「平和に慣れたか、愚鈍な精霊どもめ……」
目の奥に、ほんのひときら、赤い光が瞬いた。
翼をすぼめ、洞穴から舞い上がる。
夜風に乗り、メゼルは地上の森を渡り歩き、村を目指す。
◇
森のはずれ、うらぶれた村の外れ。
焚き火の光がちらつき、野盗たちが剣を振りかざしていた。 その足元には、血まみれの家族──父母は既に事切れている。 ひとり残された幼い少女が、絶望の瞳で野盗を睨んでいた。
焚き火の火が、刃の鈍い光を照らしていた。
野盗たちはにやにやと唇を歪め──獲物を弄ぶ獣のように、幼い少女を囲んでいた。
「いい顔してやがるな……もっと泣けよ」
「ガキすぎる、やっちまえよ」
木陰からその光景を見下ろすメゼル。
「人間同士で殺し合う……何も変わらんな」
少女は、涙を一滴も見せないまま、野盗の一人に踏みつけられそうになっていた。 その表情、金色の髪、怯まず睨み返す青い瞳。
一瞬だけ、メゼルの胸の奥に古い記憶が蘇る。
──あれは、まるで。
かつて見た眼差し。
王たる冥王の逆鱗に触れてなお、眉ひとつ動かさず睨み返した、妹・ティオの目だ。
少女に幼い頃のティオを重ねた。
野盗が剣を振り上げ、少女を貫こうとする。
「──」
風もない夜に、影が奔った。
野盗の背後から、黒い翼が舞い下りる。 一瞬、野盗の男は何が起きたのか分からず、次の瞬間には縦に割られていた。
叫びも上げられぬまま、残る野盗たちも次々に影に呑まれ、地に崩れ落ちていく。
血の臭い、肉の焼ける匂い。
そのなかに、ただ一人残された少女。
メゼルはゆっくりと近付いた。
「……助けは要らぬか?」
少女は、何も答えず、ただ睨み返す。
その眼差しには、悲しみよりも憎しみが強かった。
「パパとママのお墓をつくりたい……」
小さな体が震えていた。だがその手はしっかりと、母親の血で濡れた布を握りしめていた。
「人間はみな、”こう”だ。我欲にまみれ弱者を虐げる」
少女は、しばし黙った。
「人間に報いを。弱き者を喰らう、その歪みを討たねばならぬ」
少女は、ほんの一瞬だけ首を縦に振った。
「お前もまた、理不尽に命を削られたひとつ。ならば──吾輩と共に、燃やし尽くせ」
メゼルは静かに手を伸ばし、黒い炎のような魔力を指先に灯す。
「お前はもう、人間ではない。……すぐではないが、”繋ぐもの”として吾輩に従え」
少女は、ただ黙ってその手を受け取った。
◇
数ヶ月の時が流れた。
月のない夜。森の底に穿たれた、誰にも見つからぬ洞穴の奥──
少女の小さな身体が、地を這うように悶え、苦しげに震えていた。
胸元から喉元へと、緑の霧がゆっくりと滲み上がり、そのたびに骨が軋むような音が響く。
やがて、まぶたがふいに開き、そこに覗いた瞳は、静かな炎のような緑に染まっていた。
「……これが、“つなぐもの”のちから?」
かすれた声が闇の中に溶けていく。
少女はそっと身体を起こす。
肩にかかる髪が、闇のなかで淡く緑光を宿しながら、静かに滑り落ちた。
メゼルは静かに頷く。
「約束通り。お前は”繋ぐもの”リッチとなった。これからも吾輩の傍で仕えよ」
少女──リッチは、小さく息を吐き、闇に馴染む。
メゼルは優しくリッチの頭に手を置く。
「……時間はかかったが、上手くいったようだな。精霊の呪いは消えた」
リッチはメゼルを見上げて微笑んだ。
外では、精霊の囁きが静かに遠ざかり、 冥界からの闇が、ゆっくりと地上を侵食し始めていた。
……そして世界は、再び裂け目の向こうへと静かに傾き始める。
◇
「遺跡の大樹……浄化されているのか?」
月明かりだけが、森を照らす唯一の光源だった。
木々の影は地を這うように伸び、風のない夜にさえざわめく気配があった。
数多の鎧が軋む鈍い音と、時折交わる金属の余韻が、静寂を微かに削っていた。それらは静かな夜の輪郭を曖昧にし、まるで生の音ではないように思えた。
兜と鎧に身を包んだ髑髏たち──冥府の兵団は、鈍く赤い眼を光らせながら、音もなく山道を進軍していく。
命の重みを欠いた足音が、しずかに地面を踏みしめていた。
メゼルと少女リッチは、その行列の後方に並び、月を背にして歩を進めていた。
ふと、彼女の目が遠くに揺れる黄の光を捉える。
「……きれいになっちゃった?」
声は小さかったが、その響きにはほんの微かな感情が混じっていた。
「あれは余興に過ぎぬ。すべては吾輩の計画通りだ。ゆくぞ」
少女は静かに頷き、無言でその背を追いかける。
しばらく歩いたのち、ふいにぽつりと漏らすように言葉が落ちた。
「でも、マイロード。大精霊をけがすのは”さいじゅうよう”っていってた」
足を止めかけたメゼルが、短く吐き捨てるように言った。
「黙れ。リッチの分際で……」
だが、その言葉は途中でしりすぼみになった。
振り返ると、まっすぐにこちらを見つめる緑の瞳。感情の有無ではなく、ただ揺るぎなく向けられる視線に、言葉が途切れる。
──やはり、“人の残滓”を抱かせたのは、過ちだったか?
メゼルは目を伏せ、わずかに首を横に振る。
思考の底に、遠い記憶の澱が沈んでいた。
火を灯していた幼い頃──まだ、血と契約に染まる前の、自分の姿。
その余韻を断ち切るように、リッチの手を取り、再び夜道へと歩き出す。
「前を見て歩け、転ぶぞ」
夜風が、ささやくように森を撫でていた。




