55話 あの光の下で
陽が登りきらぬ早朝。エルフの里は、濃い霧に包まれていた。
木々や草花が白いヴェールの中でぼんやりと輪郭を滲ませ、空気には朝露の冷たさと、土と草のしっとりとした匂いが混ざっている。
どこからともなく鳥のさえずりが遠くで響き、里はいつもより静かだった。
石段の下、騎鳥たちの足元には、昨日の雨の名残りの水たまりがまだ残っている。
ティア、ニャエル、アマネの三人は、早くも旅支度を終えていた。 荷物を鞍に載せ、鞄の紐を締める。 霧の中に揺れる騎鳥の白い羽毛と、ふわふわと膨らんだ尻尾が朝日を受けて霞んでいた。
階段を降りてきたリリアナが、柔らかな声で三人に声をかけた。
「もう行くの? ゆっくりしていけばいいのに」
その言葉に、しばし誰も返事をしなかった。霧の中で吐く息が白く、世界全体が夢の中のようだった。
「この里のように、どこかで穢れていく地があるかも知れませんから」
アマネが、騎鳥シロの背に跨りながら、静かに答えた。 その声は霧に吸い込まれ、すぐに消えてしまいそうだった。
「ボクは……お肉が呼んでいる気がするにゃ」
ニャエルはクロの背にすっと乗る。クロが小さく鼻を鳴らして、長い首をリリアナの方へ向けた。 その仕草に、リリアナは思わず小さく笑った。
「ティアさんは?」
「えっと……他の大精霊に会いたいなって。……じっとしていられないというのが本音かも」
ティアは霧の向こうにぼんやりと浮かぶ空を仰いだ。太陽はまだ白く、雲と霧の区別もつかない。
ラグナが近付いてきて、「乗れ」と言わんばかりに目を細めてしゃがみ込む。 ティアは苦笑しながら、その鞍に手をかけ、そっと撫でた。 騎鳥の羽の奥からほんのり温かな体温が手に伝わる。
「この子達も、実は借りてるんですよね。仲間たちの所に返してあげなきゃ」
ラグナの首筋を指でたどりながら、ティアは少しだけ寂しそうな横顔を見せた。
アマネの方では、尻尾がふわりと大きく立ち上がっていた。 その眼差しはどこか真剣で、霧の奥に消える道の先を見つめている。
「そっか……また気が向いたらいつでも来てね、歓迎するよ」 リリアナがそう告げると、アマネは丁寧に礼をした。
「ありがとうございます。必ず寄らせていただきます」
ニャエルはすでにクロの背で踵を返し、草の上をゆっくりと歩き始める。クロの爪が湿った地面を踏みしめる音だけが、しばし静けさを破る。
ティアとアマネも騎鳥にまたがり、歩を進める。霧の中、鞍の上からリリアナに手を振るティア。リリアナも、少しだけ名残惜しげに手を振り返した。
ふとリリアナが振り返る。
「あなたは付いていかなくて良かったの? シル」
名を呼ばれて窓辺に姿を見せる小さな妖精──シルが、朝の光に透ける羽根を震わせながら窓から跳び出す。
「ぼくは大精霊に大役を任せれちゃったから……」
「大役?」
シルは静かに頷き、リリアナの方をまっすぐに見る。
「君のお手伝いをして、遺跡の森を再生させろってさ」
その言葉に、リリアナの目が丸くなる。
「大精霊さまは、すべてお見通しって訳ね。あたしがこれからやろうとしてる事も……よろしくね、シル」
リリアナはゆっくりと階段を登りはじめ、シルもふわふわとそれに寄り添う。
「朝ごはん食べるけど、シルは何を食べるの?」
そんな会話が、霧の中に柔らかく溶けていく。
──リリアナの倉庫。チーズとお酒の匂いが満ちた薄暗い空間の隅に、窓辺だけ明るい光が差している。 その窓辺には、新しく鉢植えが置かれていた。新緑の葉を広げた小さな木。その根元には木札が下がり、文字が掘られている。
『ニャエルの木』
ほんの一瞬だけ、葉が揺れた気配に、微かな黄の光が宿ったように見えた。
その木が、いつか妖精シルが精霊になるとき、ふたりを見守ることになるのだが──それはまた別のお話。
◇
「わぁぁ……見違えましたね」
ロスティアへ戻る途中、三人は再び遺跡の大樹を訪れた。
朝日が傾きかけ、空気はまだ冷たい。だが、かつて黒く朽ちていた大樹の幹からは、いくつもの新芽が顔を出していた。
土はしっとりと褐色を取り戻し、崩れた石の隙間には苔が広がり、背の低い草が小さな葉を重ねている。 ところどころには、淡い黄色や白の花が揺れていた。朝露が草先に溜まり、光が反射して小さな虹をつくる。
その光景に、アマネは思わず息をのむ。
ティアが素朴な疑問を口にした。
「浄化すると、ここまで変わるものなの?」
「いえいえ、これはニャエルさまのお力ですよ」
アマネの言葉に、ニャエルは驚いたように振り向く。
「え゛、そうにゃの?」
「穢れによって押さえつけられていた生命の息吹を、ニャエルが呼び覚ましたのです。これはとても尊いことなのですよ、自覚してくださいね」
アマネはそっと微笑み、ティアも楽しそうに頷く。
「すごいよ……ニャエル……”花咲かにゃんこ”だったんだね」
「……なんかその呼ばれ方嫌だにゃ……」
照れたように尻尾をふりふりさせながら、ニャエルはわざとらしく顔を背けた。 だが、口元には小さな笑みがこぼれている。
「さぁ、行きましょう。途中、駐屯地跡にも寄って浄化しなければ」
アマネの声に、ティアが小さく頷いた。
「そうだね。出来るだけ……遺品を持って帰ってあげよう」
朝露の光る道を、三人と三頭の騎鳥は静かに歩み出す。道端で羽を震わせる小鳥や、騎鳥たちの吐く白い息、霧の名残りがまだ草の間に漂っていた。
◇
ロスティアの街への帰路。
ようやく東の森の端が見え始める頃には、陽が落ちかけ、三人は野営の支度を始める。
草地の上に火を起こし、薪を組んで焚き火を囲んだ。 空気はしんと静まり、遠くで鳥の帰る声や、小さな虫の羽音だけが聞こえる。
ニャエルは早速、干し肉を齧り始めた。
「早く干してないお肉が食べたいにゃ〜」
クロが横で目を細め、羨ましそうに鼻を鳴らす。
「宿までの辛抱だよぉ、ニャエル〜」
ティアは火のそばにしゃがみ込み、薪に埋もれていた剣を勢いよく引き抜く。 金属が石と擦れ、ギィンと高い音が響いた。 焚き火の火花がひときわ大きく立ち上がる。
「おぉ……ティアも手馴れたね。さ、干し肉を焼こうかな♪」
ニャエルは器用に小枝を集めて串を作り、干し肉を刺していく。その横でクロが鼻を伸ばして匂いを嗅いだ。
アマネが、薪を抱えて戻ってくる。ガラン、と重い音を立てて薪を置く。
「ありがとう、アマネ」
「お安い御用です。あ、ニャエルさん、焼くならバターかナシゴの果汁を付けると美味しいですよ」
ニャエルはもう得意気に、バターを塗りチーズまで載せた肉串を焚き火の近くに並べる。
「ふふん、もうバターを塗ってチーズも乗せてあるにゃ」
「……ちゃんとお野菜も食べなきゃダメだよ」
ティアは包みから葉野菜を取り出し、そっとニャエルの手元に添える。
「……分かってるにゃ」
火に炙られた肉からはバターと肉汁が溢れ、焚き火に落ちてじゅっと音を立てた。香ばしい匂いと、わずかに甘いチーズの香りが茜空の中に溶けていく。
騎鳥たちも鼻を鳴らし、草地の上をくちばしでついばんでいた。
アマネは少し離れて、焚き火の向こうに沈む夕陽を見つめている。
その尻尾が微かに揺れていた。
空はすっかりとお腹を空かせたように茜色に染まり、焼けた肉の香りとともに、静かな夜が三人と三頭のまわりにそっと降りてきいた。




