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53話 幼き頃より、光のほとりで、ただいま



「ここ……?」


小休憩を挟み、滝を出発して間もなく。先頭をゆくシルが、枝の上で羽音を止めた。 その小さな手がこちらに向かって振られる。


前方には、苔むした大きな岩壁。風に晒されて丸く削れた岩肌の途中、一人がやっと通れるほどの小さな穴がぽっかりと口を開けている。

想像していた“霊地”とは違った。

あまりに静かで、風すら音を立てない。時間だけが、岩壁に染みこんでいるようだった。

ティアは思わず声を漏らした。


穴に顔を寄せて、そっと耳を澄ます。


ひんやりとした空気が頬をなで、洞穴の奥からは一定のリズムで吹き出す風と、低く反響する音。遠くから、淡く甘い花の香りが運ばれてきた。


傍に立ったニャエルが、小さく声をかける。


「風さんはなんて?」


「……ひとりでおいでって」


目を合わせると、猫耳が少しだけ垂れて、寂しさの色が表情ににじむ。 その仕草が、たまらなく愛おしく思えた。


「ティアさま、魔石をひとつお持ちください」


そう声をかけたアマネが、胸元のポーチから魔石を差し出す。


「あ、忘れてた。風の魔石を作って貰わなきゃね」


ティアが苦笑しながら受け取ると、魔石の表面が微かに光を反射した。


「じゃあ、行ってきます」


「うん……気を付けてね」


ティアは一度だけ振り返り、洞穴の中へと足を踏み入れる。


ニャエルはその場に立ち尽くしたまま、洞穴の入口をじっと見つめている。


アマネはそんなニャエルに気付き、そっと声をかける。


「ティアさまは、この中の誰よりも強いですよ。それにここは大精霊のお膝元です、心配には及ばないかと」


「うん……そうだね。出会ってから今まで、ほとんど離れたことがなかったから、なんだか寂しくて」


そう言いながら、ニャエルは魔石を取り出し、指先でなぞる。その仕草は心ここにあらずといった風だった。


アマネはそっとその手を包み、魔石ごと優しく握る。


「……自信を持ってください。何かあれば、ニャエルさまを頼らない訳ないじゃないですか」


「うん、ありがとう。アマネ」


その声には、かすかな安堵が混じっていた。


リリアナはふたりの様子をちらりと見やり、何か言いかけて口を閉じると、木の根元に腰を下ろして弓の弦をいじり始めた。


「ニャエルさま、今のうちに浄化の魔石を作ってしまいましょう」


「うん、分かった」


ようやくこちらを向いたニャエルの顔は、まだ少しだけ曇っている。それでも、手元の魔石を強く握り直した。





洞穴の中は、外よりも幾分冷えている。 上から時折、水滴がぽたぽたと落ちる音が響き、湿った土と苔の匂いが鼻先にまとわりつく。

けれど、不快感はなかった。洞奥から絶え間なく吹き抜ける風が、甘い花の香りを運んできては身体をすり抜けていく。その風はどこか懐かしく、優しい温度を含んでいた。


足音だけが響く暗がりを、慎重に進んでいく。壁に手を添えれば、細かな苔の感触が伝わる。 ひとりきりの静けさに包まれ、ティアはふと立ち止まる。


先程のニャエルの顔が、胸の奥に蘇った。

思わず、唇がほころぶ。


「あんな顔されたら、離れられないよ」


洞窟の天井から水滴がひとつ、肩に落ちてきた。 驚いて顔を上げると、遠くの奥で淡い光が揺れているのが見えた。


出会ったばかりの頃は、自分があんな顔をしていたのを思い出した。


「……安心させてあげなきゃね」


そう呟くと、もう一度歩き始める。


やがて、暗がりがふっと薄れ、目の前がぱっと明るくなる。 出口から差し込む光が、広がる空間を満たしていた。


「わぁぁ……すごい」


そこは岩をくり抜いたような円形の大空洞。

四方を高い岩壁に囲まれ、足元には澄みきった水が静かに流れている。

中央には湖に浮かぶ小島のように土が盛り上がり、そこに見上げるほどの大樹がそびえていた。

その幹は古の精霊のような重みと、どこか親しげな温もりを併せ持っている。

木々の葉の隙間から差す光が、まるで舞台灯りのように空間を照らしていた。


『──ようやく。

 ティア、風を忘れていなかったのですね。もっと、傍へ』


声は、空間全体に優しく満ちる。 土が盛り上がり、大樹の根元まで細い道が現れる。


「すごい、風さんの声がはっきり聞こえる」


ティアは慎重に足を進め、大樹へと歩み寄る。


近くの水面が波紋を描き、魚がひとつ跳ねた。 水の中には、いくつもの小さな魚影がきらめいている。


『ティア。里を救い、シルを助けてくれましたね。感謝していますよ』


「私は何もしていないんだけどね」


ティアは少し照れたように笑い、大樹の根元に立つ。


「あ、そうだ。忘れないうちに……」


ティアは魔石を両手で掲げ、木漏れ日にかざす。


「この魔石に、風さんの魔力を込めてほしいの」


『お安い御用です』


ふわりと風が逆巻き、魔石がティアの手から舞い上がる。 葉の隙間から射す光を浴び、魔石は高く、緑がかった輝きを放つ。 瞬間、眩い光が空間を包み、風がティアの髪をやさしく撫でていく。


やがて、魔石は静かに手元へと降りてきた。 その表面はほのかに緑色の光を宿している。


「もうできたの? はやい……ありがとう!」


ティアは両手で大切そうに魔石を受け取り、腰の小物入れへと収める。


『……遺跡の大樹、あの子は、とても良い子でした』


「妖精だったの?」


ティアは大樹の根元に座り込む。


『いいえ。遺跡の大樹は精霊です。今も存在しているようですが、以前のことは覚えていないでしょう』


「元に戻せないの?」


しばし、風が枝葉を揺らし、空間に思案の気配が広がる。


『親が、ふたたび幼子に戻れぬように。

 それは──時が抱きしめて離さないものですから』


「そっか。でもどこかでまだ生きているんだね。それなら、そのうち会うかも」


ティアは空を仰ぐ。


「その子の名前を教えて?」


『ルフリア』


ティアは小さく頷き、心に刻むようにそっと声に出した。


「ルフリア……」


『さあ、ティア。立って、白き刃を抜いてください。あなたに加護を授けます』


言われた通りに、ティアは静かに立ち上がり、剣を抜く。

剣先が光を反射し、風が一瞬、衣擦れのような音を奏でる。


「加護って、もうくれてるんじゃ?」


『いいえ。本当の加護とは、守護のこと。あなたを守る力です……今から授けましょう』


大樹の根元に広がる落ち葉が、ふいにざわめき始める。

色とりどりの木の葉が、足元からふわりと舞い上がる。

その流れは渦をなし、やがてティアの頭上まで昇っていく。


ティアは、さっき魔石が浮いたことを思い出して、身構える。


「待って、高い所苦手なんだ。このままできる?」


『……こういうのは、実感が大切なのですが。良いでしょう』


「良かった……」


柔らかな風が、ティアの髪と頬を優しくなでる。

渦をなして昇った葉は、やがて音もなく弾けた。


その破片から溢れた光は、祝福のように降り注ぐ。


「終わったの?確かに実感湧かないかも」


無邪気な声に、風はどこか愉快そうに揺れる。


『もっと派手に空高く飛ばして与えることもできますよ』


「ふふ、それはいいや。ありがとう」


出口へ向かおうとしたとき、再び風の声が空間を満たす。


『他の大精霊とも会ってあげてください。同じように加護をもらえるでしょう。しかし、それでも闇の力は防ぐことはできません。それを忘れないように……』


「うん、分かった!」


ティアはふと立ち止まり、振り返った。


「ねえ、あなたの名前は?」


しばし、静寂が続いた。


そして──葉のそよぎとともに、柔らかく声が降る。


『“風さん”が、わたしの名でよいのです。あなたがそう呼んでくれたその日から……わたしは、それを何よりも愛しい名と思うようになりました』


ティアは、目を見開く。


『まだあなたが小さくて、言葉もつたなかった頃。草原の風に向かって“かぜさん”と、微かにささやいてくれました。それは、わたしが世界に存在した長き時の中で、久しく忘れていた気持ちを思い出す事ができました』


「……私、覚えてない」


ティアはそっと胸元に手を置く。


『それで構いません。あなたが忘れていても、わたしが覚えていれば、それで十分なのです』


風が穏やかに揺れた。


『ティア。わたしは、あなたの“風さん”で在り続けましょう。名とは、そういうものですから』


ティアは小さく微笑み、愛おしげに見つめた。


「うん、風さん。ありがとう……ずっと、そう呼ばせてね」





外では、騎鳥のシロがアマネに赤い果実をもらい、シャクシャクと音を立てて食べていた。

リリアナは木の幹に背を預けてうとうとと舟をこぎ、弓を膝に抱えている。


ニャエルは洞穴の傍、岩壁に背を預けてじっと立っていた。 黒い猫耳が、微かに震えながら静かに揺れている。 その手元には、浄化の魔石を握りしめたまま。


不安とも期待ともつかないまなざしで、洞穴の闇を見つめていた。


やがて、洞穴の奥から、柔らかな足音が響いてくる。


ティアが姿を現すと、駆け寄りそうになって、でも止まったニャエル。踏み出せないままの一歩が、二人の間に“想い”という名の橋を渡す。


ティアは小物入れから魔石を取り出し、笑顔を向ける。


ニャエルも応えるように、浄化の魔石を掲げる。

その石には淡い黄の光が灯っている。


そして、ためらいのような間があった


──もう、ひとりじゃないって思ってた。けど少し離れただけで──


ティアはそっと弾むように一歩踏み出した。

そのまま、まるで風に背を押されたかのように、ニャエルの胸に飛び込んだ。


驚いたニャエルの耳元で、ティアが小声で囁く。


「ただいま」


「うん。おかえり」


二人の間を、さぁっと新しい風が吹き抜けていった。



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