52話 見つめられない温度
「こっちだよ!もうすぐ!」
夜明けを過ぎた森、まだ青い空気のなか、妖精シルが澄んだ声を響かせながら枝から枝へと舞い跳ねる。柔らかい木漏れ日が降り注ぎ、朝露に濡れた葉先がかすかに光る。
シルを先導に、ティア、ニャエル、アマネ、リリアナの四人が、獣道にもならぬ細い小径を分け入りながら進んでいた。鳥の声が高く、森の奥へと導くように流れていく。
シルは、しばしば振り返っては四人を励ますように元気に飛びまわる。けれど、徐々にアマネの足取りだけが重くなっていく。
「ニャエルさまはともかく……はぁ……どうしてティアさまはそんなに、元気なんですか……」
ティアは倒木の上に飛び乗り、振り向く。その表情は森に溶け込むように無邪気で、どこか誇らしげだった。
「山育ちだからかな?小さい頃から山を駆け回ってたよ」
朝日を浴びたティアの笑顔が、森の木洩れ日と溶け合うようだった。
アマネはとうとう、天を仰いで声を上げる。
額に玉の汗が浮かび、白い耳がぺたんと寝てしまう。
「シロに乗ってくればよかったぁぁ〜……」
すると、後ろの方から「プァッ」と澄んだ鳴き声がした。
森の奥からドッドッドッと重たい足音が近づいてくる。
小鳥の声がふっと途絶え、枝葉のざわめきの向こうから、銀灰色の騎鳥――シロが、悠々と姿を現す。
「え、嘘でしょ……シロ!」
もう一度確かめるようにシロは「プァッ」と鳴き、首を傾げる。その賢そうな瞳がアマネを見つめていた。
「そんなバカにゃ……都合よすぎでは……」
ニャエルは呆れながらも目を細め、ティアは微笑む。
「アマネを心配して、ずっと着いてきてたんだね。」
抱きしめようとするアマネ、背に乗せようと座る騎鳥シロ。
奇跡的にタイミングが噛み合い、アマネは鞍に腹ばいのまま、滑るように乗ってしまった。
「乗った」と思ったのか、シロは満足げに鳴いてから、そのまま立ち上がり、どしん、どしんとこちらに歩き始める。
しかし、鞍の縁が胃を圧迫しているらしく、アマネの顔色はじわじわと青ざめ、口を手で抑えている。
「……ち、近くに小川があるから、いこうか」
妖精であるシルが気を使うほど、アマネの体勢は不格好で、どこか微笑ましかった。
◇
「お、お見苦しい所を……」
頬をほんのり赤らめ、川辺で足を伸ばして座るアマネ。
涼しい風が川面を撫で、白い指先が水面に影を落とす。すぐ側に人一人分の高さの小さな滝があり、絶え間なく水しぶきを上げていた。
ニャエルの猫耳がぴくぴく動く。
「あれ、ティアは?」
「……あれ、さっきまで居たのに」
リリアナが辺りを見回す。
すると上の方から、微かに声が響く。
「こっちに小さい湖があるよ!ちょっと泳ぐね!」
見上げれば、滝の上にティアの姿。朝日を浴びて細い肩がきらりと光って見えた。
おもむろに、ティアは服を全て脱ぎはじめる。
「わぁ……大胆」
リリアナはぽつりと呟き、ふと横を見る。
ニャエルは顔を真っ赤にして下を向いていた。
リリアナは何かを察したように口を開く。
「ニャエルさん、この辺りでもたまぁに魔物も出るから、ティアさんを守ってあげて」
「え゛!?」
目を丸くするニャエル。アマネも小さく頷いてそれに乗っかる。
「ニャエルさま、ティアさまをお願いします」
頼るように見つめるニャエルは、つい騎鳥シロの方を振り返る。
シロはその場で丸くなり、その上でシルが気持ちよさそうに寝ていた。
◇
一足飛びに滝の上へ駆け上がるニャエル。
森の緑に囲まれた、透き通った小さな湖。その奥には岩陰があり、さらに奥には滝が落ちている。
水面は朝の光をまるく抱きこみながら、透明な冷たさを湛えている。
木漏れ日が点々と揺れ、揺れるたびに空気まで澄んでゆくようだった。
思わず息を呑むような光景のなか、あたりを見回しても、ティアの姿は見えない。
一抹の不安が胸をかすめた時、ふいに近くの水面がふわりと揺れる。水草がそよぎ、やがてティアが顔を出した。
「ぷはっ……ニャエルも一緒に入ろうよ、気持ちいいよ」
その言葉とともに、ティアは一糸まとわぬまま湖面を漂っていた。肌に光の粒がはしり、髪が水滴と朝日に濡れて輝いている。
ニャエルはびくりと耳を動かし、一気に顔を赤く染めた。
視線を逸らすと、尾の先がわずかに揺れているのが分かる。
「ぼ、ボクはいいよ……ひとりじゃ危ないからここに居るね」
精一杯の理性で背を向けて屈み、ぽつりともらす。
「ティアはもう少し恥じらいを……」
「ふふ、そうだね。気を付けるよ」
足音が近づく気配。ティアが水から上がり、ニャエルの傍へ歩み寄る。水滴が草を濡らし、小さな足跡が朝露の上に残る。
ニャエルはティアの足元だけをじっと見つめる。
「女の子だけなら大丈夫かなって思ったんだけどね」
ティアが屈んできたので、ニャエルはますます視線を逸らした。
「どうして、ニャエルは目を逸らすの?」
「……分かんない……見ているとボクがボクでいられなくなる気がする」
ティアは首を傾げる。
「普段、あんなにくっ付いて寝たりするのに?」
「……触れたり、嗅いだりすると落ち着く。でも、目で見ると……なんだか……」
横目でちらりとティアを見る。
水に濡れて光る小さな肩、その瑞々しさに胸が焼けるのを感じ、また視線を逸らす。
「うん……なんだか変なんだ。」
「美味しそう?」
ティアの無邪気な問いかけに、ニャエルは吹き出してしまう。
「ち、違うよ……でも少し似てるかもしれない」
「食べてみる?」
その瞬間、心臓が跳ね、視界が揺らぐ。
喉奥が熱を帯び、鼓動のひとつひとつが跳ね返るように響いた。
ティアの髪から伝う水滴が首筋に落ち、朝の光にきらめく。
「泳ぐ」
その言葉とともに立ち上がったニャエルは、一瞬だけ手を止めた。服の裾を握ったまま、ちらりとティアを見る。
ティアは目を細めてじっとこちらを見ていた。
──それでも、目を逸らさずにいられない。
湧き上がる欲望や高鳴る鼓動を振り切るように、服を脱ぎ、ニャエルは水面へ飛び込む。
冷たい水が全身を包み、熱を持った身体がすっと静まり返る。
◇
アマネとリリアナは茂みの中から、そっと二人の様子を見守っていた。
ニャエルが湖に飛び込んだのを見て、アマネがぽつりと呟く。
「若いですねぇ……」
「アマネさんは経験あるんですか?」
すぐ傍でリリアナが、興味津々のまなざしでアマネを見上げる。
「そりゃあ、いっぱい”読み”ましたからね。」
「経験ないんですね。」
小さく息を吐いて前を見るリリアナ。アマネも肩を落として答える。
「いい人がいませんからね……」
リリアナは小さく笑い、からかうように言葉を継ぐ。
「ニャエルさんとかどうなんですか?」
顔を赤くして言い返すアマネ。
「リ、リリアナさんはどうなんですか……!」
「他人の恋愛は興味あるんですけど、自分のは興味が湧かないのよね」
アマネは肩を落とし、低く溜息をつく。
「……そういうものですよね」
「ねっ」
森の風がふたりの間を静かにすり抜けた。葉擦れの音と一緒に、どこか淡い匂いも運ばれてくるようだった。
しばしの静寂。
視線の先では、ニャエルがティアから逃げているように水を蹴っていた。
「そろそろ助けに入りましょうか」
「そうしよっか」
ふたりは茂みから立ち上がり、白い大きな布を手に持って、そっと湖へと向かった。




