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50話 朝を抱いて、あなたと



「寝ちゃいましたね」


チーズとお酒の匂いがほのかに混じる木の倉庫。


その片隅、小さなベッドで静かに寝息を立てる妖精シル。朝靄のような斜光が小窓を通り、宙に浮かぶ埃の粒を一つひとつ照らしていた。ひんやりとした空気と、ほんのり湿った木の香り。


外では小鳥の囀りが、まだ眠る森を優しく揺り起こしていく。


アマネはベッドの脇にそっと腰掛け、シルの頭を撫でていた。シルの髪は柔らかく、撫でる指先にふわりと小さな命の温度が残る。


──ぐぅぅ。


誰かのお腹が鳴る。


リリアナが手で口元を押さえ、くすっと微笑んだ。


「朝ごはんにしよっか、用意するよ!」

「あ、お手伝いしますよ」


アマネも微笑み、二人は軽やかに梯子を上っていく。


しばしの静寂。


ティアは眠るシルの傍に静かに座り、背中を木の壁に預ける。ニャエルはその目の前で胡座をかき、床に両手をついた。


「本当に良かった……」


ティアは微かに微笑み、シルの額にかかった銀色の髪をそっと指先ですくう。その寝息が、静かな朝の空気の中でわずかに揺れている。胸の奥が、じんわりと温かくほどけていく気がした。


「この子とはどこで会ったの?」


ニャエルも優しく視線を落とし、シルの丸い指先をじっと見つめた。


「……私が初めてひとりで野営した夜。苦労して焚き火を起こしたら、狼の遠吠えが聞こえて……すごく怖かったの。その時、飛んできてくれたんだよね」


ティアは小さく息を吐き、懐かしい夜の闇を思い出す。


「それは心強いね」


「でも、それがね……シルが急いで強い風に乗ってきたせいで、焚き火が消えちゃって。真っ暗になっちゃって、あの時は本当に怖かったんだよ〜」


ニャエルはそれを聞いて、くすっと声を洩らした。


「それはボクでも怖いかも」


「ふふ……でも、シルがいなかったら、きっとニャエルにも会えてなかったと思う」


ティアはまっすぐニャエルを見つめる。


ニャエルは小さく息を呑むと、ためらいもなくティアの胸元へと身を寄せた。背に回した腕の強さと、猫耳の震えに、彼女の心がそのまま伝わってくる。


「にゃ、ニャエル?」


囁くような問いかけに、金色の瞳がゆっくりと瞬きを返す。

深い息のあと、かすかな甘えを滲ませて。


「ちょっとだけ……ここで寝ていい?」


その響きは、どこか心細さと、安堵が入り混じっているようだった。


「……いいよ」


ティアはそっと頷き、頭を撫でる。

熱のこもった猫耳に、指先が静かに触れる。


「ん……」とニャエルは小さな声をもらす。


その間、言葉は要らなかった。

ただ静かに、心の底から満ちていくものを、ふたりで分け合っていた。


まるで夜露が静かに乾いていくように、二人の間に温かな沈黙が降りる。


やがて、ニャエルは微睡みに誘われるように目を閉じていった。







「お、お肉がないにゃ……」


しばらくして、リリアナに呼ばれ、ティアとニャエルは梯子を登る。


巨木の部屋は、朝日が大きく差し込む開けた窓から、森の風とともに満ちていた。

食卓の上には、木皿と素朴な布。リリアナがスープ鍋の蓋を外すと、甘い根菜とハーブの湯気がふわりと立ち上る。焼きたての野菜からパチパチと微かな音がして、窓辺には小鳥が跳ねている。

緑色の葉、黄金のスープ、みずみずしいサラダ。その一皿一皿が、静かな森の朝にささやかな祝福を添えていた。


ニャエルはしょんぼりと肩を落とし、猫耳までぺたんと寝かせてしまう。


「あはは、本当に肉が好きなんだね」


リリアナは明るく笑い、小鳥の声がさらに響く。

窓辺に青い小鳥が羽ばたき、陽を浴びて羽を膨らませる。


ニャエルは一瞬、目を輝かせて立ち上がりかけたが、ティアが慌てて手で押しとどめる。


「だ、ダメダメ……あんな小さいの、とってもお腹の足しにならないよ」


「お、大きさの問題なんだ……」


リリアナは困ったように笑い、森の外の空気を吸い込む。


その時、ニャエルは前足──もとい両手をそろえ、空気を嗅ぐように鼻をひくつかせた。


「おにくの匂い……!」


アマネが階段を下りてくる。両手に木皿を抱え、顔をほころばせて。


「お待たせしました。ニャエルさま、お肉ありますよ」


ニャエルの目の前に皿が置かれる。香ばしいバターと焼いた肉の香りが、たちまち部屋に満ちる。


「干し肉をナシゴの果汁で漬け、バターでカリカリに焼いて、パンで挟みました」


歓声が上がる。


「わぁぁ……美味しそう」


「ひと皿は、野菜が苦手なニャエルさまが食べてください。もうひと皿は三人で分けましょう」


「やった♪ありがとう、アマネ!」


ニャエルは子供のように両手を上げて喜び、パンにかじりつく。


「んん〜、ほれほいひい」


「ほら、飲み込んでから喋ろうね」


ティアは笑って水の入ったカップを傍に置き、アマネも優しく手を叩く。


「さぁ、わたくしたちも食べましょう」






朝食のあと、四人は大樹の螺旋階段を上がっていく。


見張り台の窓が大きく開け放たれ、森の遥か上まで見渡せる高さ。朝の光がまだ白く、風はほんのりと木の香りを運んでくる。


白い布を敷いた藁の上で、ニャエルがティアの膝を独占しながら、猫のように丸くなって寝息を立てていた。


遠くでは騎鳥の鳴き声と、小鳥の声が交じり合い、森の一日が静かに始まっていく。


「いいね……こういうの」


ティアがぽつりと呟く。


「いいって、上に乗られるのが?」


リリアナがからかうようにティアを見る。


「そ、それもいいけど……。いい風だなぁ……村を思い出しちゃうなぁってね」


「故郷ですか……いいですね。わたくしも一度、ティアさまのご両親にお会いしてみたいです」


ティアはしばらく考え、少し顔を伏せる。


「……実は、私は森で拾われたから、親のことを知らないんだ」


風が一度だけ強く、窓辺の草花を揺らす。


しばらく沈黙が流れる。


ティアは小さく苦笑しながら続けた。


「でも、寂しくはないんだよ。村の人はみんないい人だし、私を拾って育ててくれたリゼ婆は厳しいけど」


その横顔に、アマネは言葉を選ぶ。


「ティアさまにとって、その方は母親のような存在なのですね」


「どうだろう……分かんないかも」


リリアナが肘をついてティアを見る。


「今度あったら”母上”って呼んであげたら喜ぶよ」


「は、母上はかしこまり過ぎじゃないかなぁ……」


アマネが指を立てて、提案する。


「では、”母さん”というのはどうでしょう?」


「うん……そうだね。次に会った時はそう呼んでみようかな」


ティアの膝の上で眠るニャエルの猫耳が、陽の光を浴びて微かに揺れた。まるで「ボクも一緒にいく」と囁くように。


ティアは優しくその頭を撫で、そっと目を閉じる。


風と光が緩やかに部屋を包み、森の新しい朝が、静かに世界を満たしていった。



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