44話 闇に裂かれたもの
「ティア、起きて。……ティア」
耳の奥で、遠くから呼ばれるような、静かな声がした。
柔らかな体温の余韻の中、意識がふわりと引き上げられていく。
揺り起こされて目を開けると、夜の森は漆黒の闇に包まれていた。焚き火だけが、夜の重さにかろうじて抗い、橙の光輪を地に灯していた。
ニャエルが傍らにしゃがみ込み、心配そうな顔でこちらを覗き込んでいた。焚き火の向こうには、メイスを携えたアマネの背中がぼんやりと影を落としている。
「……なに?どうしたの?」
ティアは、寝ぼけたまま体を起こす。
「分からない。でも“何か”いる」
ニャエルの金色の瞳が、夜の闇に沈みながらも、どこか強い光を湛えている。森の奥では、動物の声も虫の音も聞こえなかった。かわりに、遠くで何かが素早く動く、微かな気配だけが確かにあった。
ティアは静かに体を起こし、背に預けていた剣の柄を掴んだ。金属が鞘を擦る、ごくわずかな音が、夜気に溶けていった。
「恐らく、グールです」
アマネが静かに言った。ティアに一瞬だけ視線を向けると、再び焚き火の向こう、森の奥を見据え直す。
そのまま胸元に手を当て、低く囁くように言った。
「依代が温かい……近くまで来ていますね」
三頭の騎鳥もそれぞれ、身を寄せ合い、周囲を警戒するように羽を膨らませていた。湿った土の上に、四つの影が沈む。
傍らで、ニャエルは屈み込んで、目を閉じる。猫耳が森の気配を捉えるように、せわしなく動いている。
ティアの視界には、夜の闇の中で、ニャエルが淡く黄の光をまとうように見えた。何かが、彼女の内から外へ、静かに流れている気配。
唐突に、ニャエルの金色の瞳がぱっと開かれた。
「いた。あそこ」
ニャエルが、鋭く指さす。
視線の先、闇の奥に、ふたつの赤い光――ぼんやりと、ただこちらを見据えている。
アマネが、地面にメイスを突き立てる。
「自然の摂理を超えた、不浄なもの共よ。……来なさい」
その言葉と共に、アマネの身体から、焚き火とは異なる色の光が、アマネの体から放たれた。静かな祈りのようでありながら、確かに“不浄”を退ける怒りの熱を孕んでいた。
ふっと、赤い光が消える。
森の奥で、何かが素早く逃げていく音。枯枝が砕け、落葉が弾ける。ティアの耳にも、その気配がはっきりと残響した。
ニャエルは、場の空気を和ませるように笑った。
「にゃはは、グールが逃げるなんて初めて見たよ。アマネさん凄いね」
アマネの体から、ゆっくりと黄の光が消えていく。その表情には、どこか安堵と、微かな疲労が混じっていた。
「いえ、ここが……不浄な地でなかったから、逃げたのでしょう……」
その声はわずかに震えていた。
アマネはしばらく無言のまま、焚き火のほとりに歩み寄ると、ティアの隣に腰を下ろした。メイスを握る手が、まだわずかに震えている。
「最近は机にばかり向かっていたから、なまったみたいです。……情けない」
自嘲気味に呟いたアマネの横顔は、どこか寂しげだった。
ティアはそっと剣を鞘に戻し、静かに隣に座る。
そして、アマネの震える手を両手で包み込んだ。
「ここには私も、ニャエルも……騎鳥たちもいます。そして風さんもいます。大丈夫」
ティアの言葉に、アマネは顔を上げ、わずかに笑った。その笑みを見て、ティアも静かに頷いた。
その様子を、少し離れた場所で、腰に手を当てて見ていたニャエルが、大きく息を吐く。
「ふたりはそのまま寝てていいよ。ボクは上で見張ってるから」
そう言うと、ニャエルは器用に近くの木へとするすると登っていった。夜の森に、猫の影が吸い込まれる。
ティアはそれを見送りながら、ふと昔、村で飼っていた猫を思い出した。
──ニャエルは、ひとりでちゃんと降りられるのかな。
◇
朝――
「……あれ、風さんの声が聞こえない」
野営地を出発した一行は、ゆっくりと不浄の地の中心へと足を踏み入れた。
空には重苦しい雲が垂れ込め、陽の光はまるで届かない。空気は湿り、重く淀んでいる。森の奥は、枯れ木ばかりが目立ち、土は黒く、何も生えない死の色。
ティアはしばらく歩いた後、ぽつりと呟いた。
「不浄の地では、精霊は力を失うと言われています。恐らく依代がない限り、普通の人では魔法を使うことも、ままならないでしょう……」
アマネが、静かに言う。その声にも、どこか翳りがあった。
ティアは、顔を伏せたまま肩を落とす。拠り所にしていた風の声を聞くことができない現実が、心に重くのしかかる。
「ぱぱっと浄化して、緑豊かな場所に戻せばいいにゃ」
先頭を歩くニャエルが、何気なく言い放つ。アマネは呆れたように返す。
「木は、そう簡単に育ちませんよ」
「ふふん。土さえ良くなれば、草は簡単に生えるにゃ。そうなれば良い狩場だよ」
どこか得意げに鼻を鳴らすニャエル。猫からすれば、草原は絶好の狩場なのだろう。
ティアは小さく笑い、「そうだね、綺麗な森に戻してあげよう」と前を向いた。ニャエルがこちらを振り向いて、白い牙を見せて笑う。
直後、ニャエルが何かに気づく。
「あそこに、何かあるにゃ」
ニャエルの指さす先には、朽ち果てた駐屯所が見えた。
◇
「ボクはここで警戒してるにゃ……ここからでも……うん。お願い」
ニャエルは何かを言いかけて、言葉を飲み込む。その仕草に、ほんの少しだけ不安が滲んでいる。
鼻を押さえていたので、強い臭気が漂ってくるのだとすぐに分かった。
ティアとアマネは騎鳥から降り、剣を抜いて駐屯所の中へと足を踏み入れる。
辺りには、錆びついた槍や剣、砕けた鎧、歪んだ兜が散乱している。土はところどころ黒ずみ、腐臭が漂っていた。
めぼしいものは特に見当たらず、ティアは古びた天幕の中へと進む。幕をくぐると、一層強い悪臭が鼻を突いた。
「酷い……」
天幕の内側には、濃い血痕と、何かが争った跡。机や椅子の木材には、獣のような鋭い爪痕が刻まれていた。
その中で、ひとつだけ見覚えのある兜が目についた。
ティアはそっとそれを拾い上げる。手の中に、兜の冷たく硬い感触が残る。
よく見ると、それは東門番のガイルが被っていたものとよく似ていた。
「弟さん……ライルさんの物かも……」
ティアは剣をしまい、兜についた土を丹念に払い落としていく。内側には、かすれて読めなくなりかけた名の刻印があった。
「ラ……イル……。……出よう」
天幕を出ようとしたその時、近くで「グチャ」という、何かを潰す音が響いた。
アマネが音のした方から歩み寄ってくる。
右手のメイスの先端が黒く染まり、何かが滴っていた。
「ティアさん、これ見てください」
アマネは左手に何かを持っていた。
「これは……矢?」
ティアはそれを手に取り、鏃の形をじっと見る。それは、丸みを帯びていて、どこか芸術品のような精緻さを持っていた。
「これはエルフが使う矢のハズです。向こう側でグールの死体に刺さっていたのを見つけました」
「エルフ……森の精がなぜこんな所に?」
「近くに里があるのかもしれません……ティアさまは何か見つけましたか?」
ティアは矢をアマネに返し、手にした兜を見せた。
「……浄化しておきましょうか」
「うん、お願い」
アマネは静かに頷き、メイスとライルの兜に水を垂らした。
祈りの言葉が、森の死んだ空気の中にしんと響く。
水が兜を伝い、土に落ちると、そこから淡い黄色い光がふわりと立ち上った。
「この地を浄化し終えたら、残りも浄化しにきましょう」
「うん。……そうだね」
光はゆるやかに空へと昇り、雲の幕をかすかに照らした。
それは、死者に贈る、ひとときの追憶のように静かだった。




