43話 不浄の地と、とろけるチーズ
「黒い土だ……」
陽が傾きはじめた森の奥、沈みゆく陽光のかけらが枝葉の隙間から細く射し込む。先頭を歩くニャエルが、騎鳥クロの背で足を止め、ぽつりと呟いた。
三人の行く先には、枯れ木がぽつぽつと点在し、地面は、墨を零したような黒に染まり、乾いたはずの土からじわりと濡れた匂いが立ち上っていた。
「不浄なる地……人や動物が住める場所ではありませんね」
アマネが銀灰の騎鳥シロを静かに降り、黒い土の上に膝をつく。腰の袋から小さな水筒を取り出し、掌にわずかな水をすくい、一滴だけ土の上に垂らした。
その瞬間、土の表面に淡い黄の光がじんわりと広がり、かすかな靄となって漂った。だが、光が消えると同時に、土はじわりと黒へと染まり直し、まるで汚れが水を追い返すように、侵蝕が進んでゆく。
「……やはり根源を立たなければ浄化は難しいですね」
アマネは沈んだ声で呟いた。
「ちょっと早いけど、今日はここで野営する?」
ティアが声をあげるより先に、クロが「プァッ」と短く鳴いた。敏感な騎鳥の尾羽がぴくりと震える。
陽が傾き、森の輪郭が次第に溶けてゆく。
一行は来た道を少し戻り、不浄の地を避ける形で野営することにした。
◇
森の中、暗褐色の地面に小さな布を広げ、三人は腰を据えた。夜が近付き、冷気がわずかずつ濃くなり、木々の葉裏からぽたりと水滴が落ちる。
「ねえ、誰か火起こせる?」
ティアがふと問いかける。
「わたくしは経験ないです……」
アマネは尻尾を膝に巻き付け、申し訳なさそうに呟く。
「ボクもやったことないにゃ。ティアは前にひとりで野営したって言ってなかった?」
ニャエルがからかうように片眉を上げて言う。
ティアは肩を落として項垂れる。
「うん……でも、こんなジメジメした森で起こせるかなぁ……」
森の空気は、湿気をたっぷり含んで重たい。
「人は火を起こすのが好きですよね」
アマネが少し不思議そうに顔を傾け、ふわりと白い尻尾を立てる。
「え、でも火を起こさないと夜見えないし……」
ティアが応じる。
「ボクは夜目が効くから平気にゃ」
ニャエルは両手を後頭部に組み、気楽そうに尻尾を振る。
「わたくしもです」
アマネも目を細めて頷いた。
ティアはふたりが獣人であること、自分だけが人間であることを、ほんの少しだけ意識する。そのわずかな距離感が、森の湿気よりも重たく感じられた。
「……で、でも火がないと、落ち着かないから頑張る」
「にゃはは、頑張ってにゃ。ボクは夜見張るから先に寝るよ」
ニャエルはそう言い残し、騎鳥たちの方へと歩いていく。
「じゃあ、薪を拾うの手伝いますよ」
アマネがやさしい声で寄り添う。
「ありがとう……アマネ」
ティアは小さく微笑んだ。
◇
野営地に戻ると、三頭の騎鳥は互いに体を寄せ合って丸くなり、その羽毛の真ん中で、ニャエルがスヤスヤと眠っている。微かな寝息と、森の音だけが静かに流れていた。
「なかなか、付きませんね……」
アマネが、困った顔をしながらも涼しげな声で言う。
「なるべく乾いたのを集めたけど……やっぱり湿気っちゃってる……」
ティアは膝をつき、火打ち石を何度も擦り合わせていた。息は荒く、肩も上がっている。
薪を集め、火起こし棒に適した枝も用意したが、湿った空気がすべてを鈍く包み込み、火種は一度も生まれなかった。
ティアは、村を出て旅に出たばかりの頃――焚火の前で、火の妖精イフと出会った夜を思い出す。
(こんな時に会いたがるなんて、私って……)
「……ティアさま。私の“依代”にお願いしてみますか?」
アマネはふいに懐から、小さな猫の人形を取り出した。その人形は綿を詰めた布地で出来ており、くるりと丸まった尻尾と、つぶらな目がどこか愛らしい。
「この人形の中には、火の精霊が入っています。精霊に寵愛されたティアさまなら、力を貸してくれるかも知れません」
ティアは、驚きと嬉しさに目を輝かせる。
「なにそれ、かわいい……そして便利……」
アマネは口元を手で押さえ、ふふっと微笑んだ。
「でも、実をいえばそれほど便利ではないのです。火の精霊はとても気まぐれで気も強くて……この依代を持っていても、危険が迫った時しか助けてくれないのですよ……」
アマネは少し困った顔で笑った。
ティアも、肩の力を抜いて笑う。
「それ、少しわかるかも。火さんってちょっと言葉が強いんだよね。でも、お願いしてみようかな」
「ちょっと偉そうに『火よ!』って呼びかけるといいですよ」
アマネが、茶目っ気たっぷりに囁く。
ティアは小さく頷いて立ち上がり、両手を広げ、積まれた薪に向き合った。
森は深く静まり返り、獣の声も、遠くの虫の音すら遠ざかっている。
ティアは、思い切って声を上げた。
「火よ!火を起こして!」
その声は夜気に吸い込まれ、森の湿度とともに、あたりを包み込む静寂の中へ消えていく。
アマネは顔を伏せ、ぷるぷると肩を震わせていた。ティアの素直すぎる呪文に、笑いをこらえていた。
「だ、ダメかぁ……」
ティアは力なくその場に座り込む。
だが、ふとアマネが顔を上げた。
「いえ!ティアさま。”来て”いますよ。依代が温かくなってきました!」
アマネが驚いたように囁いた瞬間、猫の人形がぽうっと微かな光を宿した。
その直後、積み上げられた薪から微かな音――水分が蒸発していくかすかな“パチパチ”という音――が響く。
黒い土に近づいていた重い空気が、火の熱に追い返されたように、森の気配がゆるやかに引いていく。
そして、薪の隙間にひときわ眩い火柱が立ち上がった。乾いた枝が弾け、半分ほど薪が宙に跳ねる。
「やったぁ♪火よ、ありがとう!」
「やりましたね!」
手を取り合い、喜び合うティアとアマネ。
焚き火がパチッと音を立て、ゆらゆらと橙の光が周囲を暖かく包む。
ニャエルはその騒ぎに、眉を寄せながら寝返りを打っていた。
◇
焚き火の熱で、枝に刺したチーズがゆっくりと溶けていく。甘く芳醇な香りが森の空気に混じり、しんとした森にほのかな贅沢をもたらした。
「わぁ……美味しそうですね。」
アマネが目を輝かせる。
ティアはパンを手に取り、炙ったチーズをパンにのせた。
「少し食べる?熱いから気を付けてね」
パンをちぎり、チーズをつけてアマネに差し出す。
アマネはふうっと息をかけて冷まし、小さな口で一口齧る。サクッと軽い音、溶けたチーズが舌の上でほどけてゆく。
幸せそうに目を細めるアマネ。
そのとき、森の向こうでパキッと小枝が折れる音がした。
「あら、食べ物の匂いにつられたかな?」
ティアが冗談めかして言う。
傍には、眠そうな顔で四つん這いになったニャエルがいた。猫耳がぴくぴくと揺れ、尻尾もふわりと立ち上がっている。
「ニャエルも食べる?」
ティアが優しく声をかけると、ニャエルは鼻先をパンに近付けてスンスンと匂いを嗅ぐ。
ティアはパンを息で冷まし、そっと差し出した。
「食べな」
ニャエルは、ぱくっとパンをくわえて騎鳥たちのもとへ戻っていく。
アマネは膝にパンをのせて、さらにチーズを炙りはじめていた。
ティアもパンにかじりつく。
パンの軽い歯触りと、チーズのやわらかくとろける甘みが、火の熱と重なって、体の奥までほぐれていくようだった。
「うん、美味しい」
ティアは小さく呟き、焚き火の向こうを見つめた。
その火は、不浄の地の縁に、小さな安らぎと、かすかな光を揺らめかせていた。




