42話 風は導き、祈りは地に
赤い目の狼魔が三体、森の夜を引きずるような朝の闇を、糸を裂くように駆けていた。
夜露の名残が色濃く漂う朝。湿った土と枯葉の匂いが、風もなく沈みこむ森の奥に滞る。その静寂を引き裂くのは、魔物の咆哮と、足音。
狼たちは、何かに追われるように、あるいは飢えた野生の本能に突き動かされているように、ひたすら前だけを見据えていた。だが、その眼差しの奥に映るのは、もはや怯えや迷いではなかった。どこか、狂気じみた光さえ宿っている。
次の瞬間、前方の茂みを切り裂くように、墨色の騎鳥――クロが、巨体を低く構え、突如として飛び出す。
地を震わせるほどの重い一撃。
甲高い骨の砕ける音が、森に響く。
一匹が、クロの脚に踏みつぶされて息絶えた。そのすぐ横を、もう一匹が慌てて回避しようと跳ね上がるが、クロの太い脚が間髪入れずに横薙ぎの一閃を放った。獣の身体が宙に浮き、幹へとたたきつけられ、しばし木肌を滑って崩れ落ちる。
その一瞬、森には不自然な静けさが満ちる。
残った最後の一匹――それだけが、どこか異様な執念を燃やして、まっすぐこちらへと向かってくる。
「一匹、そっちに行った!」
鬱蒼とした枝葉の向こうから、ニャエルの声が響く。ティアはすでに剣を抜いていた。その白刃は曙の光も飲み込むような、異質な輝きを放つ。微かに空間が揺らぎ、目に見えぬ重みが辺りの空気を撓ませている。
森の奥から魔物が一目散に疾走する。
ティアは緋茶色の騎鳥、ラグナに小さく囁いた。
「ラグナ、任せて」
獣の跳躍。
一拍の間、空気が張り詰める。
ティアの剣が、ほとんど見えぬ速度で切り上がった。
空気が軋み、音よりも先に、魔物の半身が霧のように崩れ落ちた。魔石がひときわ鋭く爆ぜ、白く細かな粒子となって森に舞い降りていく。
その光は、曇った朝にわずかな祝福を降らせるかのようだった。
「ティアにやらせると、魔石残らないから赤字だにゃ〜」
戻ってきたニャエルが、少し唇を尖らせて軽口を叩く。黒い耳が不満げに揺れる。
やがて、銀灰の騎鳥――シロに乗ったアマネが静かに歩み寄る。
「辺りには、他の魔物は居なさそうですね」
森を見回しながら、冷静に現状を告げるアマネ。その声もどこか、土と水の湿り気を帯びている。
「……狼は臆病なハズなのに、ボク達にケンカ売るのはおかしいにゃ」
ニャエルはそう言うと、騎鳥クロから身軽に飛び降りて、倒れた魔物の傍へと歩み寄る。耳が、森の奥の気配を警戒してぴくぴくと動いた。
「死体は埋めないといけませんね……どうやって掘りましょうか」
アマネが呟く。シロがそれに応えるように、太い嘴で地面をつつき、喉を鳴らして、前肢で土を掻き始める。あっという間に人一人分はありそうな穴が現れた。
「わぁぁ……シロ、賢い!」
ティアが驚嘆し、ラグナも負けじと足で地面を掘り始める。湿った土が跳ね、森にかすかな匂いが立ちのぼる。
「ちょっとラグナ、穴はひとつで十分だよっ」
魔石を回収し、三体の魔物を手際よく穴に運ぶ。
「魔に堕ち、我を失いしものたちよ……かつての記憶と共に、静かに眠れ。」
アマネは目を閉じ、静かな祈りを口にする。手のひらから水滴を一粒、盛り上げた土に垂らした。
水が地面に触れた瞬間、淡く黄の光がほろりと土から立ちのぼり、霧に溶けて消えた。残された土は、どこか柔らかな温度を帯びているようにさえ思える。
「これが浄化?」
ティアが息を呑む。
「はい。穢れを取り除き、ただの動物として土に還えらせるのです」
アマネは穏やかに微笑む。その横で、ニャエルは回収した魔石を古びた布で拭い、強い光が残らないかを確かめている。
アマネはニャエルに目配せをして、静かに語る。
「魔の深度が深くなるほど、かつて動物だった記憶も失い、ただ獲物をとらえ、貪るだけの存在となります。臆病であったことも、忘れてしまうのでしょう」
ニャエルの猫耳が、森の微かな気配に反応してぴくぴくと動いた。
「……人も魔に堕ちたりするの?」
ティアがぽつりと呟いた。柔らかな問いかけだが、空気がわずかに張り詰める。
アマネは驚いたように目を大きく開く。
「い、いえ……人は体内に魔石ができる事はありません……。私が知る限りは……人は魔物化しない……ハズです」
ティアは、小さく頷きながら言う。
「そうなんだね。ゾンビって人の魔物化したものだと思ってた、見た事ないけど」
どこか空想めいた声だった。
三人は、森の奥へと歩を進めていく。
◇
森を歩くうち、空気がいよいよ澱みはじめている。湿り気が濃く、葉裏から水滴が時折ぽたりと落ちる。
「アマネ、ゾンビとグールって何が違うの?」
唐突に、ティアが問いかけた。アマネがシロの揺られながら思案していると、さらに続ける。
「ゾンビ、グール……レイス?って深度が深くなれば順番に出てくるんだよね?」
アマネは少し肩をすくめる。
「……そのよく言われている順番は、実は曖昧なんですよね」
ティアは首を傾げる。
「グールがゾンビを作り出している、と熱く語っていた知り合いもいました。あと、よく勘違いされますが……グールはアンデッドではなく悪魔の類いです」
「悪魔……」
その響きを受けて、ティアはふと立ち止まり、森の影に目を向ける。
「はい。不浄の地を作り上げレイス、果ては”繋ぐもの”リッチを生み出すのが目的と言われています。」
アマネが静かに説明する。森を抜ける風が、三人の髪と葉をそっと揺らす。
「今朝、門番が言ってたけど、帝国の正規兵が魔物にやられるとは思えないよ。それが半年前。その時点でグールが居たのなら……奥はかなりヤバい事になってるかもね」
先頭を歩くニャエルが、低く呟く。アマネがそれに頷いて応じた。
「さすがにリッチがいるとは思えませんが……レイスがいる可能性はありますね……」
「うん。先に言っておくけど、ゾンビはふたりに任せるよ。ボクはグールを叩くから」
それを聞いて、アマネは小さく微笑む。
「頼もしい限りです。」
「……それで、道は合ってるの?ほとんどクロに任せっきりだけど……」
ニャエルがそう言うと、騎鳥クロが「プァッ」と短く鳴いた。クロの尾羽がぴんと立ち、森の奥を示す。
「お前も喋れたらいいのに」
ニャエルの言葉に、クロは少し不満げに「クルル」と喉を鳴らした。
静かな空白。
ティアはふと、空を仰ぎ見る。
「風さん、こっちで合ってる?」
森の天蓋越しに光は届かず、ただ湿った空気だけが流れる。
そのとき、三人の背後から微かな風が吹いた。
やがて正面の森を切り分けるように、ざわりと木々が揺れる。道もないはずの茂みが、細く分かれてゆく。
「合ってるみたい」
ティアはぽつりと呟いた。
その現象に、アマネは目を丸くする。
「……こんなことが、依代もなしに……」
アマネの声には、畏れと、わずかな疑念が混ざっていた。
風が、三人の背をそっと押していった。
森の奥、その先にある“異常”の源を求めて――
三人と三羽は、さらに歩みを進めていく。




