40話 重なる耳、ぎこちない夜
「ふぅ……いい湯ですね……まさか、これほど広いとは」
アマネは湯殿の隅に静かに身を沈めていた。
白銀の狐耳は湯けむりに濡れ、仄かに揺れながら蒸気の向こうに浮かんでいる。夜の静寂の中、水音だけが微かに反響し、肩まで湯に浸かったアマネの肌に、柔らかな温もりがじんわりと染み込んでいた。
天井の梁には微かに木の香が残り、石畳に流れる湯は、指先から背筋へ、穏やかにほどけるような感覚をもたらす。
「今日は、本当に濃い一日でした……」
小さく零れた独り言が、湯面に波紋を描き、静かに消えていく。
未知の土地。再会したシンディ。そして、ふたりの少女。
それぞれに宿る気配が、今も胸の奥で静かに脈を打っていた。
──ティアのまっすぐな視線。ニャエルの、あの黄金の瞳と笑顔。
ふと唇に指を当て、「この広さなら、三人でも……」と呟きかけ、すぐにかぶりを振る。
湯の縁に腰かけて夜空を仰げば、澄んだ星の瞬きが窓の向こうに広がっていた。
「精霊に愛された、白き刃の持ち主。そして──聖属性の光を宿す者。……しっかりしなければ」
言葉を置いた唇の裏で、浮かぶのはニャエルの指先の長さ、湯に濡れた腹筋の輪郭。
想いを払おうと湯から立ち上がり、息をついて縁に腰かける。
「……のぼせてしまいそうです……」
そう言いながらも、立ち上がることはなかった。
湯けむりの向こう、遠くからくすりと笑う声が聞こえた気がした。
名残惜しさを胸に、アマネはやがて湯殿を後にする。
浴衣の裾を整え、静かな足音を響かせながら。
◇
廊下に出ると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。
扉をそっと開け、「戻りましたー」と声をかける。
だが、返事はない。扉を閉じる音に続いて、木の軋むような微かな音。
──ベッドが断続的に揺れている。押し殺すような、くぐもった声。
「んんっ」
ティアの……甘い吐息。
(……出直そうか)
理性が身を翻しかけるも、好奇心がわずかに勝った。
狩人のように、音も立てず足を運ぶ。あと一歩で、視線が届く位置──
「いたいいたいっ!そこはダメッ」
その声の調子に、アマネはぎょっとして──思わず足を踏み出した。
──ベッドには、うつ伏せのティア。その背に馬乗りになっているニャエル。
「ごめんごめん、マッサージなんて初めてだから……」
「んん〜、もうちょっと上」
アマネは思わず肩を落とした。張り詰めていたものが、ほどけるように抜けていく。
◇
「そうそう、そこそこ♪」
ニャエルが体重をかけ、ティアの背中に指を滑らせる。
ベッドがギシギシと軋みながら、柔らかな間を作っていた。
「戻りましたー」
涼やかな声を投げかけながら、アマネはふたりのそばへ歩み寄る。
「あ、おかえり〜」
「おかえり」
ティアはマッサージされながら片手を上げて迎えた。
「……何をされているのですか?」
「ああ……ニャエルに背中をほぐしてもらってるの。んんっ」
息混じりの声に、アマネはわずかに視線を逸らす。それでもその光景は、なぜか心を緩める温もりを帯びていた。
「……いいですね。」
そっけなく口にしたものの、胸の奥には微かな安らぎが満ちていく。
アマネは魔石棚から水瓶を取り出し、静かにカップへ水を注いだ。
透明な水面が光を弾き、冷たさが火照りを鎮めていく。
「ボクも一杯もらっていい?」
間近に響いた声。
「ひゃっ」
振り返れば、すぐ傍らに立つニャエル。
金の瞳が、まっすぐこちらを覗いていた。
「なんか、びっくりさせちゃったね。ごめん」
「い、いえ……大丈夫です。」
差し出されたカップに、静かに水を注ぐ。
「アマネさん。足音、静かだね」
「……ニャエルさま、ほどでは無いです」
ニャエルが水を飲み干す。
その様子を見つめながら、アマネの中で微かなざわめきが灯っていた。
(ただの負けず嫌い……?それとも……)
◇
「さ、そろそろ寝ましょうか」
「はい!」
アマネの声に、ティアが明るく返事をする。
ニャエルは灯りを落とし、カーテンを静かに閉じる。
月の光が部屋をやわらかく照らしていた。
「今日はニャエルが真ん中ね!」
「うん、いいよ」
ベッドの中央に腰掛けるニャエル。
その姿を見つめて、ティアの目が細められ、頬がふんわりと緩む。
「アマネ、ニャエルの耳、触ってみて」
そっと伸ばした指先が、黒い耳に触れる。
「あ、あったかい……」
確かに、熱を帯びていた。
「でしょ、ニャエルはもう眠くて仕方ないんだよ。というか殆ど寝てる」
囁かれる言葉の通り、ニャエルは座ったまま目を閉じ、微かな寝息を立てていた。
ティアは慣れた手つきで肩を抱き、そのままそっと横になる。
「アマネも寝よ?」
「……はい」
アマネも布団に身を滑らせる。
すぐにティアの腕が伸びてきて、そっと引き寄せられた。
「もっと寄って」
ニャエルを真ん中に、ふたりの温もりがやさしく包む。
ティアは黒い髪を撫で、柔らかくさざめく音を立てる。
丸くなったニャエルが、ゴロゴロと喉を鳴らしていた。
その仕草があまりに愛おしくて、アマネもそっと手を伸ばし、撫でる。
「ニャエルはね、寝ぼけてると──ちょっとおかしなこと言ったりするんだ。……だから、気にしないであげてね」
「……はい、分かりました。」
──部屋に戻ってから、ずっとそうだったのかもしれない。
アマネはそう思いながら、満ちていく静寂に身を委ねていた。
星明かりが、ゆるやかに部屋の中へと満ちていた。




