39話 揺れるしっぽ、重なる想い
「お邪魔します……」
夜の帳がすっかり下り、ロスティアの街にも静けさが漂い始めていた。宿屋の廊下には、ほんのりと温かな明かりが灯っている。窓の外を、涼しい夜風がときおり柔らかく吹き抜けてゆく。その気配の中、アマネはティアの強い要望に押されるように、ニャエルが宿泊している部屋に足を踏み入れた。
ティアは先に部屋の灯をつけ、上掛けのきちんと畳まれたベッドや、淡い花模様のカーテン、小さな丸テーブルの上に置かれた白い水差しをちらりと眺める。そのまま綿の入った革張りの長椅子に歩み寄り、ほっとしたように身を投げ出した。
「ふあぁ〜……疲れたぁ」
身を伸ばすティアの声は、部屋の静けさに溶けていく。窓の外にはもう夜の気配だけが広がり、どこか遠くで鈴虫が鳴いていた。
「騎乗すると、普段使わない所を使うので、疲れますよね」
アマネはそう言いながら、そっと部屋の隅に荷物を置き、静かに上衣を脱いでいく。その動作もどこか遠慮がちだった。
彼女のしなやかな尻尾が、ふわりと長椅子の端を掠めて揺れる。その一瞬が、空気にやさしく波紋を描いたように思えた。
「……ニャエルさまとは、いつも一緒に寝ているのでしょうか?」
ティアは長椅子にうつ伏せのまま、アマネの問いかけを受け止めた。革の感触に顔を埋めたまま、ほんの少し遅れて答える。
「うん。最初に会ってから、ずっとだね」
言葉に嘘はなく、むしろ、あたりまえのことを語るような響きだった。アマネは寝転ぶティアを見つめて、しずかに微笑む。
「な、仲良いですよね……」
ほんの少し、アマネの声が細くなった。ティアは目を閉じて、今にも眠りに落ちてしまいそうな表情を見せていた。
「そうだねえ……」
ティアの声はまるで、遠くの草原を渡る風のように柔らかい。アマネはそっと長椅子の足元に座り、ティアと同じ目線に身を預ける。
部屋には静かな間が落ち、外の虫の声が際立って聞こえる。
しばらくの沈黙ののち、アマネは胸の奥に小さく生じていた“とまどい”に、そっと向き合うように口を開いた。
「……おふたりは、どのような関係なのですか?」
「関係?」
ティアは、まるでその言葉の意味をなぞるように、静かに目を開け、身体をアマネの方へと向けた。
「わたくしから見て、友達よりも……恋人のように見えます」
月明かりがカーテン越しに差し込む。ティアは一瞬だけ言葉に詰まり、鍛冶屋を訪れた日のこと、ロスティアの夜道を歩いた記憶が静かに心の奥に立ち上がってくる。
不安な日も、ニャエルはいつもそばにいてくれた。
そのことを確かめるように、ティアはふっと微笑む。
「……ニャエルが、私を求めてくれるなら、応えたいって思うかな」
静かな言葉のあと、ティアは足を引き寄せ、体を起こして、長椅子に座り直す。
まっすぐな視線がアマネを捉える。
「私は一緒に居られれば、それでいい。関係は気にした事ないかも」
部屋の明かりの下で、ティアの頬がほんのり赤くなっていく。目が合ったまま、どちらからともなく、ふっと口元が緩む。
「アマネはどうなの?ニャエルの事、良いなぁって思う?」
その問いかけは、どこかくすぐったいような無邪気さと、やさしさが入り混じっていた。アマネはたじろぎ、視線を泳がせる。
「わ、わたくしは……そういう経験がないので……」
少し間が空き、アマネは顔を伏せる。月の光が、彼女の横顔に淡く影を落とした。
「でも、頼りがいのある所と、守ってあげたくなる面もあって、いいですよね」
ティアが柔らかくうなずく。その横顔には微かな笑みと、夜の静けさが浮かんでいる。
「ふふ、分かるそれ。いつもは凄く周りに気を使ってるけど、気分が上がってくると子供ぽくなるよね」
アマネは恥ずかしさを隠すように、口元に手を添えて笑った。
窓から入る風がカーテンを静かに揺らす。
「はい。でも、自分を偽ってる感じではなくて、ずっと素のままで……気配りができるのは素敵だと思います」
ティアは目を細め、アマネのその言葉を静かに受け止める。
「もし、アマネさんがニャエルと”そう”なっても私は応援するよ!」
かぁ、と顔が赤くなるアマネ。両手を広げて、ぶんぶんと振る。
「いやいや……きょ、今日会ったばかりですよ……」
ふたりの間に、柔らかな沈黙と、ほんの少しの熱が生まれた。
そのとき、コンコン、と部屋のドアがノックされた。
ドアの向こうから「にゃ〜」と小さな声が聞こえた気がした。
◇
「ふう……さっぱりした」
湯浴みを終えたニャエルが部屋に戻ってきた。首に白い麻布をかけ、黒く艶やかな髪をすべて後ろに流している。髪の先から水滴がぽたりと麻布に落ちる。
ベッドの縁に腰かけると、ニャエルは背筋を伸ばして大きく息を吐いた。
アマネは長椅子に座ったまま、ティアを見て声をかける。
「ティアさま、お先にどうぞ」
「あ、じゃあ行ってこようかな」
ティアはぱぱっと身支度を整えて、湯浴みの道具を持ち、ドアの方へ駆けていく。その横顔に、眠気とイタズラっぽい笑みが同時に浮かんでいる。
「じゃ、ごゆっくり〜♪」
そう言い残し、ティアは軽やかにドアを閉めた。カチャリと錠が下りる音がして、部屋には再び静けさが戻る。
ガシガシとタオルで髪を拭きながら、ニャエルはふとアマネの様子を見やる。
「アマネさん、なんか顔赤くない?」
「へ!?そそうですかね……」
アマネは両手を頬に当て、あわてて目を逸らす。その仕草に、ニャエルは目を細め、少しだけ息をつく。
「ティアに何かされた?あの子、人懐っこいというか、距離感が近いっていうか……」
「い、いえ……。でも確かにティアさまは本音というか、無邪気に核心を突いてきますね……」
アマネはちらりとニャエルを見るが、はだけた胸元に思わず視線が止まる。鍛えられた腹筋とのコントラストが眩しすぎて、耐えられずに顔を覆ってしまう。
その様子にニャエルはふっと微笑み、立ち上がる。
「ふふ、何の話してたの」
そう言いながら、部屋の奥の棚へと向かう。扉付きの小さな棚を開けて、中から水瓶を取り出す。
「アマネさん、お水いる〜?」
「あ……いただきますっ」
ニャエルは水瓶からふたつのカップに水を注ぐ。その音が静かな夜に小さく響く。
注ぎ終えると、次いで棚から赤い果実を取り出す。
ナイフを口にくわえ、右手にふたつのカップ、左手に果実を持ち、こちらに戻ってきた。
テーブルにカップを置くと、ニャエルの長くキレイな指が離れていく。
「どうぞ」
ニャエルの言葉に、指に見とれていたアマネはハッと我に返る。
「あ、ありがとうございます……」
カップを手に取るとひんやりとした感触が手に伝わってくる。
「あ、冷たい……魔石棚もあるのですね。気が付きませんでした」
「うん。便利だよね、ちょっと他の宿に泊まれなくなっちゃう」
そう笑って、ニャエルはナイフで赤い果実の皮を器用に剥いていく。
そして、一口大より小さく切り分け、一切れを自分の口に放り込む。
シャクシャク、と瑞々しい音がアマネの耳にも入ってくる。
「うん、美味しい。……はい」
ニャエルはもうひと切れをアマネに差し出す。
一瞬、アマネは動きを止めるが、そのまま口で受け取る。
唇が、指先にふれてしまった。
ほんの一瞬。だが、その一滴の熱は、胸の奥でゆっくりと花開くように広がっていった。
目を逸らし、鼓動を隠すように、アマネは果実の甘さを静かに噛みしめた。
その耳に、瑞々しい音と、夜風がそっと流れ込んできていた




