34話 おかわり、もういっぱい
「無属性……ですか。」
アマネは小さく息を吐き、水の入ったカップを手に取った。
窓から差し込む昼の光が、カップの澄んだ水にゆらゆらと揺らぎを映している。ひとくち、喉を潤し、そっとカップをテーブルへ戻した。
隣でこちらを見ていたシンディ司祭が、思わず身を乗り出すようにして問いかける。
「し、知っていますか? アマネ」
わずかに緊張を帯びた声。アマネの白い狐耳がぴくりと動いた。
視線をティアとニャエルに向け、アマネは言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「ティアさまは、風の声の他に……火や水、土の精霊の声を聞いたことがありますか?」
ティアは小さくうなずいた。
「はい。村を出るまでは、よく……。土さんはとても寡黙ですが……」
ふと懐かしさが浮かんだのか、彼女の頬にやわらかな微笑が滲む。
その言葉のあと、アマネは考え始め、部屋に短い沈黙が流れる。
カップの中で水面が細く揺れ、小さな光の粒が浮かんでは消える。
アマネの目は、沈黙の中、自分のカップの底に落ちる光を追っていた。
視線をテーブルに移す。
ニャエルとシンディのカップはほとんど空で、ティアの前だけが手つかずのまま、静かに光を湛えていた。
指先をそっとテーブルに添えたまま、アマネは小さく息を整え、口を開いた。
「……これは、私の考えにすぎませんが……」
もう一度カップを手に取り、残りを飲み干す。冷たさが口中を滑り、静かな間が生まれる。
「人々が火や水の魔法を扱えるのは、精霊の導きがあってこそのものです。精霊が人の手をとり、暗闇の中を道案内してくれる……そんなふうに、わたくしは考えています」
カップが静かにテーブルに戻される。シンディが気を利かせて水瓶を持ち上げ、静かに水をつぎ足す。ささやかな水音が空気を満たした。
「ありがとう。──ティアさまは恐らく、四精霊の加護……というより“寵愛”を受けています。それも、競い合うように。精霊の力が拮抗し、どの属性も発現しない……その様に思います」
アマネの声は静かだったが、芯のある響きを持っていた。ティアは黙って頷くと、長い睫毛を伏せ、水面に淡く揺れる自身の瞳の色を見つめた。そしてふと、顔を上げる。
「そっか、だから軽くなるんだね」
「軽くなる……?」
アマネは小さく首をかしげる。
ニャエルがカップを手に取り、水瓶を傾ける。残りの冷たい水を注ぎ足しながら補足を加える。
「ティアは剣や石に魔力を込めると、重さが消えてしまうみたいなんです」
さらにカップを持ち直し、補足を続ける。
「魔力を込めると、背負っている剣のように白くなります」
シンディは目を見開き、ティアの背にある剣に視線を走らせた。
「なんてこと……四精霊に寵愛された“白き刃”……神話のままじゃないですか!」
椅子を引き、勢い良く立ち上がると、そのままティアのそばまで歩み寄り、跪いた。
「ちょ、ちょっとやめてください、シンディさん」
ティアが慌てて立ち上がる。ニャエルも反射的に身を乗り出したが、シンディは祈るように両手を胸の前に組んだまま動かない。
アマネが静かに一歩進み、シンディの腕をとる。その手は穏やかでありながら、揺るがぬ芯を秘めていた。
「やめなさい、シンディ。我々が崇拝すべきは精霊であり、人ではありません」
厳しさよりも、静かな戒めがその声には込められていた。
シンディははっと目を見開き、自らの軽率を悟って立ち上がり、深々と頭を下げる。
「……申し訳ありません、ティアさま。取り乱しました……」
アマネは一度、目を閉じて息を整える。
「精霊の庇護下では、すべての人は平等に愛され、優劣はありません」
「はい……」
シンディは静かにうなずき、視線を落とした。
ティアは椅子に腰を下ろし直し、そっとカップを手に取る。ためらいながら口にした水に、ふいに目を丸くした。
「わぁ……冷たくて、おいしい……」
喉を鳴らしながら飲み干し、ほっとしたように息をつく。
「シンディさん、おかわりください」
微笑みを浮かべたティアに、シンディは安堵の笑みを返して水瓶を手に取った。
「はい! ありがとうございます……」
また一杯、静かな水音がテーブルを満たした。差し込む光がその表面に反射し、きらきらと小さな揺らぎを描く。
アマネはその様子を、立ったまま静かに見つめていた。
「アマネさん、話を戻しましょうか」
ニャエルの静かな声が場の流れを整える。
「はい、そうですね。随分と逸れてしまいました」
アマネは椅子に腰を下ろす。その仕草にはどこか、再び儀礼に戻るような静けさがあった。
ニャエルはまっすぐアマネを見つめ、やや真剣な口調で言った。
「東の森への同行、お受けしますよ」
アマネはぱちんと手を打ち、朗らかに応じる。
「ありがとうございます」
澄んだ声が空気に響く中、ティアは再び水を飲み、勢いよくカップを置いた。
「──っかぁぁ」
子どものような仕草に、ニャエルが目を細める。
「ティアもそれでいい?」
「もちろん♪」
しかし次の瞬間、ニャエルは腕を組み、やや真剣な表情に戻った。
「しかし、ひとつ問題が……」
アマネも姿勢を正し、その言葉に応える。
「なんでしょう、聞かせてください」
「ボクはガントレットを使うのだけど、アンデッドが苦手なんです。特にゾンビが」
「あら、そうなんですか?」
アマネはほんの少し、興味深そうに首を傾げた。
ティアがぱっと思い出したように、明るく声を上げた。
「分かった! ゾンビって臭いんでしょ?」
その言葉に、ニャエルが思わず吹き出す。
「当たり!」
静かだった教会の部屋に、柔らかな笑い声が満ちる。
外では風が草木を揺らし、窓から差し込む光が水面にやさしくきらめいていた。
──ささやかな希望のような、静かで温かな時間が、そこに流れていた。




