33話 まだ、名もない予感
古びた教会の石壁に、陽の光がゆるやかに染み込んでいく。
北の外れにあるこの教会は、ざわめきから遠く、澄んだ空気と静けさに満ちていた。
礼拝堂の内壁は高く、その上方に、大きな穴がひとつ穿たれている。
そこから吹き込む風がさらさらと音を立て、白い壁と木の柱の間をすり抜けていく。
磨りガラスを透かした光と埃の匂い。
信者たちが帰ったあとの静けさは、どこか余韻のある安らぎだった。
「壁に穴が空いてる?」
ティアと呼ばれていた少女が、上を見上げて小さく呟く。
その声が、石造りの空間にふわりと溶け、残響のように耳に残る。
「──古くからの言い伝えで、風の声が聞こえるようにと、あのように穴を開けてあります」
気づけば、私は説明していた。
ティアの隣には、黒猫の耳を持つ獣人──ニャエルが寄り添っていた。
何気なくニャエルの腕に手を添えるその仕草には、どこか年若い恋人たちのような親密さがある。
穴から流れ込む風が、ふたりの髪をそっと揺らしていた。
「中だけど、風の声が聞こえる?」
猫獣人の少女――ニャエルが静かに問う。
風が壁の穴から流れ込み、かすかに礼拝堂の空気を撫でていく。
「うん、聞こえるよ。ささやき声って感じだね」
ティアは目を細めながら、空気のざわめきに耳を澄ませていた。
──何を感じ取っているのか。
ふたりのやり取りには、私の知る“常識”をそっと踏み越える柔らかな異質さがある。
その距離感に踏み込むべきか躊躇い、私はそっと歩幅を遅らせた。
シンディ司祭が説教壇の脇にある小さな扉を開ける。
「どうぞ、こちらへ」
彼女の声は、春の陽のようにあたたかい。
「お邪魔します!」
無邪気な声を弾ませてティアが中へ入っていく。
その背中を見て、私はつい微笑みそうになり、白い尻尾が静かに立ち上がった。
ニャエルが私のそばを通り過ぎるとき、ふと顔を寄せて尻尾に鼻を寄せる。
金の瞳と、赤の瞳が、ほんの一瞬、交錯する。
「んん、失礼」
軽く咳払いし、ニャエルはさりげなく扉をくぐる。
獣人同士は匂いで相手の状態を読む。
「先手を打たれてしまった気がする……」
そうつぶやき、最後に部屋へと足を踏み入れた。
◇
部屋の中は静謐で、飾り気のない清貧が満ちていた。
書棚と簡素な机、控えめな椅子。
窓の外では木漏れ日が揺れ、テーブルの上に柔らかな光の模様を描いている。
「どうぞ、おかけください」
シンディの声に従い、私は椅子に腰かける。
ティアとニャエルは隣同士、向かいに私とシンディが座った。
「それで、お話というのは?」
ニャエルの問いに、私は静かに頷いた。
「ロスティアの東に位置する森、行ったことはありますか?」
「最近、行ったよね」
「うん。三日ほど前に魔物討伐で、その森に」
私は言葉を選びながら続ける。
「何か変わったことはありませんでしたか?」
「……僅かですが、アンデッドの匂いはありました。でも、その種類までは……」
ニャエルの返答に、シンディが小さく肩を落とした。
「やはり……そうですか……」
「森にアンデッドが出るのは珍しいの?」
「はい、珍しい――というより有り得ませんね」
私は少し身を乗り出し、言葉を続ける。
「実は森でグールが目撃されています。おふたりには私に同行してもらい、調査と討伐──必要であれば、浄化の支援もお願いしたいのです」
ニャエルが静かに、話し始めた。
「……グール討伐の経験はあります。でも、三人では危険じゃないですか?」
私はその言葉に頷いて、腰から鈍器――メイスを取り出した。
「その懸念はもっともです。ですが、わたくしは“聖属性”を扱えます」
メイスに淡い金色の光が宿る。
金属の表面が、燭光に反射する水面のようにゆらめいた。
「火の大精霊の名のもと、この身をもって誓います。わたくしは穢れを祓い、おふたりを護りましょう」
ニャエルはしばらく私の目を見つめ、それから静かに腕を組み直した。
「そこまで言われると……」
ティアが瞳を輝かせ、私に問いかける。
「その光が聖属性なの?」
「はい。僅かに黄色が入った光がそうですよ」
「ニャエルも、たまにその光が出てる時あるよね」
空気が微かに張り詰めた。
ニャエルが驚いたようにティアに顔を向ける。
「ティア、それは本当なの?」
「うん、冒険者ギルドで会った時から見えてたよ」
私は穏やかにニャエルへ問いかけた。
「ニャエルさま、魔力は扱えますか?」
ニャエルは手のひらを振る。
「魔力量は人より多い……みたいですが、使えませんよ」
(発現すれば、扱える可能性は高い……しかし――)
「魔力量……?」
ティアが小首を傾げる。
ニャエルは自然な仕草でティアの頭を撫でた。
「魔力量っていうのは、魔力を貯める器……カップみたいなものだよ」
「器が大きいと、いっぱい入る分、重そうだね」
「そうだね」
ニャエルが小さく笑う。
(この娘……知識はないのに、核心を射抜くようなことを……)
唐突に、シンディが席を立った。
「すみません!お水も出さずに……いま汲んで参ります!」
シンディが小走りで部屋を出ていった。
私は無意識に、残された三人の間に流れる静かな気配を感じ取っていた。
「……少し、ティアさまにも分かりやすくお教えしましょうか」
「はい!」
私は彼女の方へ体を向ける。
「魔力は子供が成長し、成人までには“必ず”発現します。その際、四精霊に連なる四属性のひとつを扱えるようになります。多くは生活に少し役立つ程度ですが、稀に私のような聖属性や、ニャエルさまのように大きな器を持つこともあるのです。」
「まだ使えないニャエルは器が大きいから?聖属性かもしれないから?」
「……両方ですね」
「ニャエル、楽しみだね!」
ティアが隣を向いてにこっと笑う。
その言葉に、ニャエルの耳がぴくりと動き、目を細めた。
(発現が遅い――多くの人にとっては不安の種。それを“楽しみ”と言えるとは……)
シンディが水瓶と木のカップを手に戻ってきた。
「お待たせしました!」
彼女は水瓶をテーブルに置き、両手を添え、そっと目を閉じた。
「ちょっと待ってくださいね。いま冷やします……」
手元から淡い青い光がふわりと広がり、瓶の表面に小さな霧が浮かぶ。
「では、わたくしも浄化しましょう」
私はその横に座り、静かに自分の手を重ねた。
ほのかな黄色い光がにじみ、水瓶の中にやさしく染み込んでいく。
「わぁぁ……きれい……」
ティアの小さな声が漏れた。
私はふと目を開け、その表情に自然と心を奪われた。
──まっすぐで、素直な子。
その存在が、この場の空気を変えていくようだった。
やがて緩やかに光が消え、ニャエルが笑みを浮かべる。
「冷やして、浄化された、贅沢な水ですね」
シンディは頷きながらカップに水を注いでいく。
「こうして冷やして水を配ると、とても喜ばれるんです」
微かな笑いが生まれ、部屋の空気がゆるやかに緩んでいく。
ティアが声を落とし、隣のニャエルにそっと囁いた。
「私の事、話しても平気かな?」
ニャエルは一瞬、私と目を合わせ、ゆっくりと頷いた。
「……うん、大丈夫だよ」
ティアは背筋を正し、まっすぐに私を見つめて口を開く。
少しだけ、ためらうように。
「……実は、わたし、“無属性”……らしくて」
水瓶からひとしずくの水がカップへ落ち、静かな波紋を描いた。
その余韻に重なるように、外の風が壁を撫でてゆく音が、微かに響く。




