32話 白き刃に触れる者
ロスティアの街外れ、草の匂いの残る昼下がり――
ジオ教会は、華美とは無縁な質素な建物だった。だが、その扉を開けば空気が変わる。
石の床と古びた木の椅子、装飾のない内壁には、淡く差し込む陽光が静かに漂っていた。
祈りの余韻と、精霊に捧げる沈黙が、この空間に息づいている。
「アマネ様、今日はありがとうございました」
礼拝が終わり、信者たちは一人、また一人と帰っていく。
シンディ司祭が最後の一人を見送り、静かに扉を閉じた。
「いえ、お礼を言うべきはわたくしですわ。シンディ司祭」
アマネは白い衣の裾を整えながら、微笑みを返す。
陽だまりの中で、白い尻尾がゆるやかに揺れた。狐耳が風を捉えるように小さく動く。
「最近は少しずつですが、信者の方も増えてきました。これも精霊のお導きでしょう……」
その言葉に、アマネはほんのわずか、胸の奥に熱を覚える。
(……よくやっているわね。ほんとうに)
「あなたはひとりでよく尽くしています。困り事はありませんか? あるいは、何か気がかりなことでも」
自分の声がどこか型どおりに響くのを感じ、内心で苦笑した。
それでも、ここに赴いた自分の務めとして、他に言うべき言葉はなかった。
「……実は、大聖堂への報告を迷っていた件がひとつありまして」
「聞きましょう」
アマネは背筋を正す。
シンディは一瞬だけ躊躇し、それでも顔を上げて言った。
「最近、ロスティアの東の森で、グールのようなものが目撃されているのです」
「“喰らうもの”、ですか……その森に墓所でも?」
「いえ……詳しくは分かりません。ただ、あのあたりでは狼型の魔物も頻繁に出るとか……」
(……休暇のつもりだったのに。ついてないわね)
ため息を飲み込み、わずかな気怠さを切り捨てる。
どんな状況でも、精霊の前では役目を果たすだけだ。
「わたくしが街で冒険者に話を通してみましょう。もし力を貸してくれる者がいれば、討伐の助けになるはず。司祭は大聖堂への報告を」
シンディは深々と頭を下げた。
「私の不始末で、アマネ様にお手間を……申し訳ありません」
「気になさらないで。これがわたくしの務めであり、ここに在る理由です。……精霊の導きと信じましょう」
そのとき――
アマネの耳が、静かな昼の空気を切る足音を捉えた。
ゆるやかな坂道を、ふたりの影が登ってくる。
「あら、珍しいですね。参拝者かしら」
ひとりは黒い耳と尾を持つ、筋肉質の猫獣人の娘。
もうひとりは小柄で、背に白い剣を負っていた。
ふたりは歩調を合わせ、言葉もなく並んでいる。
(……冒険者?)
霧が差すような空気のゆらぎ。
剣を負う少女――その存在から、かすかな異質さが立ちのぼっていた。
(いえ……あの娘、只者ではない)
「シンディ司祭。わたくしに話を合わせてください」
「え? あ……はい!」
アマネの背を、昼の風がそっと押した。
◇
「こんにちは。ジオ教会に何かご用でしょうか?」
アマネは穏やかな声と笑みでふたりに呼びかけた。
後ろで、シンディが緊張を隠せず小さく会釈をする。
猫獣人の少女はわずかに警戒をにじませ、
その隣にいた少女が、静かに一歩前へ出る。
「えっと……こちらで、剣の“お清め”をお願いしたくて……」
(正教会ではなく、なぜこの地方教会へ……?)
「はい、もちろん。承りますよ♪」
シンディが小走りに前へ出ていく。
「お待ちください、“シンディ様”」
アマネの低く静かな声に、場の空気がわずかに張る。
シンディはハッと目を見開き、急に立ち止まった。
「ここは導師見習いのわたくしが、務めさせていただきます」
「……そ、そうね。アマネ、いい機会だわ。励みなさい」
言いながらも、シンディの表情はどこか強張っていた。
(このふたり……気を抜いてはいけない)
「では、剣を抜き身でお預かりいたします」
アマネが手を差し出す。が、その直前――
猫獣人が一歩、間に入った。
「待って、ティア。その剣、大事なんだ。……練習台にされるのは我慢できない」
「ご安心くださいませ。孤高の猫族の方。儀式は、穢れを祓うためのものです。決して手荒な真似はいたしません」
アマネは微笑みながらティアに目配せを送る。
「そうなの? シンディさん」
ティアがシンディを見る。彼女の視線が揺れる。
「……お清めの儀式は高度な術式ですが……アマネは千年にひとりの逸材です。ご安心ください!」
シンディの機転にアマネは目を輝かせる。
「勿体ないお言葉。ありがたく拝受いたします、シンディ様」
「……なるほど、アマネさんになら、任せていいか」
猫獣人はようやく一歩下がった。
ティアが剣を抜く。
その瞬間、空気が震えた。
精霊の気配がふわりと立ちのぼり、アマネは思わず息を呑んだ。
(……これは、“白き刃”……)
風に揺れる白。
眩いのではなく、淡く、凛として静かな白。
霊的な層が幾重にも重なって、確かな意志のようにそこに在る。
「……お、重たいですよ? この剣……」
ティアはその剣を両手で支え、アマネの手にそっと触れさせる。
触れた刹那、指先から感覚が走る。
見えない風。沈むような火。鏡のような水。広大な大地。
そのすべてが、剣の奥で眠っている。
「……お、お待ちください。どうか、このまま……もう少し」
「……はい、どうぞ」
ティアは構えを崩さず、剣を握ったまま静かに見守る。
アマネはそっと刃を撫でる。だがその刃には――
もはや、祓うべき穢れが微塵も残っていなかった。
(……すでに……清められている……それも……四精霊のすべての……)
「申し訳ありません。この剣は、すでに……十分な清めを受けています」
「そうなんですか?」
ティアは小さく首を傾げた。
アマネは手を離し、剣が鞘に戻る音を聞いた。
「はい、間違いありません」
(実際にこの目で確かめなければ……)
「……風さん、教えてくれればいいのに」
その呟きに、アマネは言葉を返せずにいた。
ティアが剣を収め、猫獣人が懐から銀貨を取り出し、シンディへ差し出す。
「少ないですが。ありがとう」
「い、いえ……お気持ちだけで……!」
「え、そうなんですか……? ジオ教会は寄進を求めないのですか?」
アマネが口を添える。
「我々は、信仰と導きにのみ仕えております。寄進は、必要としていません」
ふたりを見つめながら、アマネは姿勢を正す。
「……ところで、おふたりは冒険者とお見受けします。もしよろしければ、中で少し、お話を聞いていただけませんか?」
ティアがニャエルを見る。
「どうする? ニャエル」
猫耳がわずかに揺れ、ニャエルは微笑んだ。
「うん、いいと思う」
「ぜひ、聞かせてください」
ティアの屈託のない笑顔が、アマネの胸に焼き付いた。
そのやわらかな熱を抱きながら、アマネとシンディは同時に一礼する。
「ありがとうございます。では、こちらへ──」
昼下がりの静けさの中、教会の扉が再び開かれる。
その奥へと、ふたりの影が吸い込まれていった。
屋根の上を撫でる風だけが、ゆるやかにそれを見送っていた――。




