35話 にゃ、って言ったら限界なの
「お待たせしました」
陽の光が柔らかに、静かに教会の扉を照らしていた。
きしむ音とともにその扉が開かれ、アマネとシンディが姿を現す。ふたりは外で待つティアとニャエルのもとへと歩み寄っていく。その足取りに、昨日とはわずかに違う緊張が漂っていた。
ティアとニャエルが顔を上げ、振り返る。
ニャエルが軽く顎を引き、そっと口を開いた
「では、行きましょうか」
アマネは真摯な動きで深く頭を下げた。
「はい。ご同行、よろしくお願いします」
「こちらこそ!」
ティアも眩しいほどの笑顔で応え、勢いよく頭を下げる。
ニャエルが先頭に立ち、三人が歩き出す。
教会の扉の脇では、シンディが明るく手を振って見送っていた。
「いってらっしゃいませ」
その声に、ティアも自然と手を振り返す。
教会の脇には色とりどりの花が咲き乱れ、風が優しく花の香りを運んできた。だがその空気の清々しさとは裏腹に、胸の奥にはほんのりと名残惜しさが滲んでいた。
「シンディさんは、ひとりなの?」
ティアがぽつりと問う。声にはどこか寂しげな響きがあった。
「……そうですね。信者の方もちょくちょく来られますが……尊敬します」
ティアの視線が、教会の壁を越えて咲き誇る花々へと向かう。
その瞳に映るのは、かつて小さな村で感じていた“帰る場所”への遠さだった。
沈黙を破るように、ニャエルがアマネへ声をかける。
「アマネさんも、昔はああやって教会を管理したことが?」
アマネは静かに首を振り、遠くを思うように目を細めた。
「……いえ、私はここよりもずっと北の大聖堂で生まれ、外に出たことはほとんどありません。でも、各地を巡礼した経験はありますよ」
ティアがニャエルの腕にぴたりと寄り添った。
「私も巡礼したいな!」
「ふふ、ティアは旅をしたいだけじゃない?」
「バレてる!」
ティアの明るい笑い声に、アマネの胸の奥に懐かしい温もりが広がった。
ふとそのまま歩調を合わせ、ニャエルの横に並ぶ。自然な流れで腕に軽く触れてみると、アマネの柔らかな一部がそっと押し当てられた。
その瞬間、ニャエルの顔がぱっと赤く染まる。
「あ、ニャエル赤くなってる。私がくっついても赤くならないのに」
ティアが好奇心に満ちた瞳で覗き込む。
「ち、違う……歩きにくいの!」
アマネの口元に小さな笑みが浮かび、そっとさらに寄り添った。
「転ばないように、しっかり支えて差し上げますね」
「そうだよ、困ったらちゃんと言ってね」
ティアも真似をして、そっとニャエルの腕に身体を寄せる。だがその控えめな動きが、かえってニャエルの意識を刺激してしまう。
「も、もう困ってるよ……なんでこんな事に……」
ニャエルの耳がぺたんと寝てしまい、対照的に尻尾だけがぴんと立ち上がっていた。
ふたりの悪戯めいた空気に、アマネの尻尾もふわりと楽しげに揺れた。
ふとニャエルが、ぼそりと呟く。
「街ではやめようね……さすがに白い目で見られちゃう……」
「でも、もういっぱい見られてるよ」
ティアの無邪気な一言に、ニャエルが「え?」と顔を上げ、周囲を見渡す。
ちょうど行商の馬車の一団が通り過ぎていくところだった。
誰かが何かを囁き、少し離れた場所から、子どもがじっと三人を見上げている。
ニャエルはたまらず顔を伏せた。
「穴があったら入りたい……」
けれど、両腕はしっかり捕まえられ、逃げる余地もない。
その様子がどこか愛らしく、アマネもティアも思わずくすりと笑ってしまった。
「ニャエル、恥ずかしいの?」
ティアが優しく声をかける。
アマネは真剣な眼差しでニャエルを観察しながら、静かに口を開いた。
「ティアさま。恐らくニャエルさまは、この状態を他人に見られると、自分の考えが見透かされてる、と感じてしまうのだと、私は考えます」
あまりに的確な言葉に、ニャエルはぐうの音も出ず、しゅん、とうなだれた。
歩く速度も徐々に落ちてきて、アマネが少し体を離す。
「そうなの?ニャエル」
「うん……そうだよ……」
ティアは納得したように頷くが、さらに「何を考えてたの?」と追い打ちをかける。
「……そ、そんな事言えるわけないニャ……」
「にゃ?」
語尾の変化にアマネが首を傾げ、ティアはそっとニャエルの腕から手を離した。
「アマネさん、ニャエルがニャって言い出したら、だいたい限界なんだよ」
「分かりました」
アマネも静かに一歩下がるが、それでも未練があるのか、手だけは名残惜しそうに腕に添えたままだった。
ティアはちらりとアマネを見たが、何も言わず、ただ笑顔を浮かべた。
そっと小川のせせらぎに耳を傾ける。
「ちょっと休憩しよっか、ニャエル」
「うん、ありがとう……」
◇
小川の水音と、ほんのり湿った夏の風が三人の間をそっと通り抜けていく。
岩に腰掛けたニャエルが、大きく息を吐いて深呼吸した。
頬にあたる風が、火照った顔をゆっくり冷ましていく。
アマネが穏やかに尋ねる。
「ティアさま、ニャエルさまが限界を超えるとどうなりますか?」
ティアは小さく微笑む。
「爪を立ててくるよ」
アマネも思わず微笑を返す。
「やりすぎましたか?」
「ううん、ニャエルが嫌がったことはないよ。むしろ喜んでる、尻尾でわかるよ」
「聞こえてるニャ」
背を向けていたニャエルが、わずかにこちらを振り返る。
目元はどこか照れているが、尻尾はどこか楽しげに左右に揺れていた。
小川のせせらぎが、三人の間の空気を柔らかく包んでいく。
空には、遠く夏雲が静かに立ち上り、ゆったりと動いていた。




