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29話 灰色の塔と白き耳



真昼の北空は、透けるように灰色だった。

静謐な街並みを見下ろす、大聖堂の塔の一角。

高所に吹き抜ける風はひんやりとして、遠くからは、教会の鐘の音が微かに届いていた。


その清浄な空間で、白を基調とした法衣をまとったひとりの少女──アマネ・ローヴァスは、山のように積まれた書類と静かに向き合っていた。


壁一面に整然と並ぶ本棚。

ステンドグラスを透かして射す、淡く色づいた光。

机の上のインク壺にガラスペンを戻すと、アマネはそっと背筋を伸ばした。


「……んん……」


肩と首がこきりと鳴る。

白毛の狐耳がピクリと揺れ、静寂に一滴の音を落とす。


「毎日、書類仕事ばかり。……平和の証、とはいえ退屈なものね。そろそろ休暇が欲しいところだわ」


胸の前で指を組み、短く祈るような仕草ののち、椅子を引いて静かに立ち上がる。

窓の外に視線を流し、すぐに机へと戻ると、法衣の内側から小さな銀色の鍵を取り出した。


引き出しを開け、その奥──隠すように収められていた、猫のぬいぐるみをそっと取り上げる。


白い頬を、その毛並みにそっと預ける。


「……かわいい“清浄なる依代”よ。我を癒したまえ……」


いつもの癒しの儀式。

ひと息、安堵の吐息がこぼれる。


そのとき、扉の向こうで三度、規則的なノックの音が響いた。


「ローヴァス大司教、至急の報告がございます」


アマネはぬいぐるみを静かに撫で、「少し待ちなさい」とだけ告げる。

その額に軽くキスを落とし、「また後でね」と囁いてから、元の引き出しに戻し、鍵をかけた。


そして踵を返す。

椅子に戻り、落ち着いた所作で腰を下ろす。


「入りなさい」


その声には、すでに清澄な響きが戻っていた。


扉が開く。

黒い修道服に身を包み、赤髪を一つに束ねた女性が入室する。


「失礼いたします」


彼女は扉を閉じると、迷いなく片膝をつき、胸に手を当てて深く頭を垂れた。


「報告を」


「帝国領内、ロスティア方面より、強い魔力波を観測。同時に、“霊ごう”も確認されました」


アマネは、眉をわずかに寄せる。


「ロスティア……ずいぶん近いわね」


女性は顔を上げ、静かに問う。


「“精霊の愛し子”の兆候、かと」


アマネの瞳が細められる。


「その可能性は高いわ。他には?」


「まだ誰にも。最初にお伝えすべきは、ジオの末裔たるアマネ様と心得ております」


その答えに、アマネは静かに立ち上がった。

白く大きな尾もふわりと立ち上がる。


衣服の裾を整え、真紅の瞳で女性を見下ろす。


「あなたに感謝を。以降、この件は秘匿としなさい」


「承知しました。部下にもそう伝えます」


女性は再び深く頭を下げる。


アマネはひと呼吸おいてから、そっと言葉を継いだ。


「……ロスティアには、我々の教会があったはずね。たまには現地の空気に触れてみるのも、悪くないわ」


「アマネ様。供回りと執務は、いかがいたしましょうか」


アマネは机の上、山積みになった書類を一瞥する。


「あなたを副官に任命します。その上で、枢機卿と調整を。供回りは不要。目立たぬように」


「……雑務を私に押し付けて、ひとり旅とは。……アマネ様らしいですね」


その一言には、ほんの僅かに親しみが滲んでいた。

アマネは笑みが零れ、「何か言ったかしら?」と静かに返す。


「いえ。……承知いたしました、ローヴァス大司教閣下」


女性は立ち上がり、粛然と退室していく。


再び静寂が満ちる室内。


アマネはひとつ、細く息をつき、机の引き出しに手を伸ばした。

ぬいぐるみを再び取り出し、そっと胸に抱く。


「……さあ、あなたも行きましょう。一緒に、“精霊の愛し子”を探す旅へ……」


その声は、どこか楽しげだった。


彼女はぬいぐるみをそっと抱え直し、法衣の裾を整えながら、退室。

そして、静かに大聖堂の扉をくぐる。


厳格なる精霊の御名のもと。

今ひとつ、世界の境界が、わずかに揺らいでいく──。




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