21話 夜の橋の上で
──まだ、離れたくない。
夜の帳が街をすっかり包み、ロスティアはしんと静まり返っていた。
鍛冶屋を出たその場で、ニャエルが大きく伸びをする。
その横顔を見つめながら、ティアは胸の奥にひとつ、言葉にならない想いを浮かべていた。
「……もう、すっかり夜だニャ」
「……うん」
短く交わした声のあと、ティアはそっと身を寄せ、ニャエルの二の腕に手を添えた。
肩が小さく震え、黒い尻尾がぴんと立ち上がる。毛並みがわずかに逆立っている。
石畳に映るふたりの影が寄り添い、家々の窓からこぼれる灯りが、足元に揺れていた。
少しの沈黙のあと、ニャエルが問いかける。
「……ティアは、どこの宿に泊まるの?」
「あ……」
意外な問いに、ティアは思わず固まってしまう。
(か、考えてなかった……)
頬を指先で掻きながら、ニャエルが続ける。
「よかったら、ボクの部屋に泊まる?」
その言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
心臓の音が耳の奥まで響いて、顔が熱を帯びていく。
(ニャエルの顔、見られない……)
「ティア、大丈夫?顔が……真っ赤だよ」
屈みこみ、ティアの顔を覗きこむ。
ニャエルの顔が近くて、息が当たりそうだった。視線を逸らすその途中、ふと唇が目に入り、どきりとする。
(あ……)
わずかに顔が近づきそうになる──
──バンッ
鍛冶屋の扉が勢いよく開いた。
「お、まだいたのか。イチャつくなら他所でやりな。もう店じまいだよ」
ラミアだった。
手には鉢植えを抱え、ひとつひとつ確かめるように店内へと運び戻していく。
最後の扉がバタンと閉まり、鍵の音が静かに鳴る。
「はは、びっくりしたね。……ティア?」
振り返ると、ティアはその場にしゃがみこみ、両手で顔を覆っていた。
(私……なにしてたんだろ……)
夜風が頬を撫で、熱くなった顔を少しだけ冷ましていく。
◇
川沿いの石橋に並んで立ち、ふたりは夜の流れを静かに見下ろしていた。
川面には家々の灯りがちらちらと揺れ、小舟が遠くで水を掻く音がする。
せせらぎと夜風が重なって、火照った肌を冷やしていった。
「……落ち着いた?」
「うん、ありがとう」
ニャエルは背中を欄干に預けて夜空を仰ぎ、ティアは水の流れの向こうを見つめていた。
しばらくの沈黙のあと、ニャエルが声を落として尋ねる。
「ティアは、夢……とかあるの?」
「……夢……。うん、自分のことを、もっと知りたいって思う」
ティアの髪が夜風に揺れ、ニャエルはその横顔を見つめた。
「婆に言われたんだ。私の力は、間違った使い方をすると危ないって。だから……ちゃんと知りたい」
「賢い人だね」
「うん。でも……そのせいで、村の人には少し怖がられてた。婆だけは、最後まで私を見てくれてたと思う」
ニャエルも同じように視線を川の先へ向ける。
「そっか……なんとなく分かる気がする。ボクも屋敷では“変わった子”って言われてたよ」
「え?ニャエルは、すごく優しい人なのに……」
その言葉に、ニャエルは少しだけ照れたように笑った。
「実は、王国の貴族の家に生まれてね。勉強もサボってばかりで、怒られてばっかり。……でも、小さい頃からずっと憧れてた」
「なにに?」
ふたりの視線が、橋の上で重なった。
「英雄に、だよ」
ティアはふわっと微笑む。
「……すてき。私も、そんな夢があればいいのに」
「まだ漠然としすぎてるけどねぇ!」
ニャエルは嬉しそうにくるりと回る。
「それがいいの。夢って、最初はぼんやりしてる方が……“これだ”って出会えるから」
その言葉に、ニャエルは立ち止まり、まっすぐティアを見る。
「……うん。そうだね」
ふたりのあいだに、柔らかな静けさが流れる。
「それに、ニャエルはもう私の英雄さまだよ。ギルドで依頼を受けられないって分かったとき、どうしようかと思った。……でも、ニャエルが来てくれた。手を引いてくれて、ありがとう」
ティアの声は、そっと灯りのように夜に溶けていった。
ニャエルは少し驚いたように目を丸くして、それからにっこりと笑う。
そして、ティアの手を取り、少し大げさに頭を下げる。
「それでは、お嬢様。晩餐の席へご案内いたします」
ティアは、頬を赤らめながら微笑んだ。
「……はい、お願いします」
重ねた手の温かさが、夜の冷たさをやわらげていく。
川面に揺れるふたりの影は、まるで灯りに包まれた夢のようだった。
寄り添う影が、水の上でそっと揺れていた。静けさにやさしく溶けるように。




