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16話 触れて、馴染ませる



薄暗い森の中、ニャエルの黒く長い尻尾が左右にゆっくりと揺れている。


森へ入るとすぐ、彼女は空気の匂いを嗅ぐように鼻をひくつかせ、やがて四つん這いになって木の根元や土の表面に顔を近づけ始めた。


ティアは少し離れて、その後ろを静かに歩く。


けれど、露出の多い服──へそが見える上着にショートパンツ。そして、絶え間なく揺れる尻尾に、思わず目のやり場に困ってしまう。


(……どこを見ればいいんだろう)


湿った土の匂いと、樹皮に染み込んだ苔の香り。

そのなかで、ニャエルの小さな足音だけが静かに響いていた。


「ダメだニャ……狼の匂い、ぜんぜんしないニャ……」


語尾が猫のように変わっていることに気づき、ティアは小首を傾げる。


(……ニャ?)


ニャエルは立ち上がり、一本の大きな木を見上げていた。


「いい木だニャ……お昼寝するには、うってつけかも……」


その姿を想像して、思わずティアはくすりと笑ってしまう。


「ふふっ……ニャエル、ほんとにネコみたい」


ニャエルはぱちくりと目を見開き、少しだけ照れたようにこちらを見る。


「ご、ごめん。素が出ちゃった……」


そのとき、ざわっと森を風が通り抜けた。

ふたりの髪がそっと揺れ、葉擦れの音が重なる。


「あ……ニャエル、こっちだって」


ティアは木々の合間を見つめながら言って、風に導かれるように歩き出した。


「えっ、風の声でも聞こえたの?」


「うん。風がそう言ってる気がする」


「……面白くなってきたニャ……あ、まただ」


自分の語尾に気づいて、ニャエルは慌てて手で口を押さえる。

その仕草も、どこか可愛らしくて、ティアは小さく笑う。


しばらく歩くと、茂みの向こうに岩山が現れ、ふたつの岩のあいだにぽっかりと穴が空いていた。


──洞窟。


「いかにも……巣って感じだね」


ティアがささやくと、すぐ隣でニャエルが応じる。


「うん。嗅ぐまでもないよ。狼の匂いがぷんぷんする」


そのときだった。洞窟の奥から、一匹の大きな狼が姿を現した。


黒みがかった灰色の体躯。

鋭く赤い目が、こちらをじっと見据えている。


ニャエルはちらりとティアを見て、低く言った。


「ティアはあの木のそばにいて。そこにいれば、後ろから襲われることはないよ」


ティアは声に出さず頷き、鞘から剣を抜いた。

指先がかすかに震える。


その隙に、ニャエルが身を躍らせ、茂みを飛び越える。

鋭い指笛が森に響くと、狼が唸り声を上げ、洞窟の奥へと声が吸い込まれていった。


(……仲間を呼ばせた? わざと……)


ほどなく、洞窟から次々と狼が現れ、森の空気がぴり、と張りつめる。


「ハハッ……十匹はいそうだニャ!」


最初の二匹が襲いかかる。


ニャエルはガントレットを振るい、叩きつけるように弾き返す。

鈍い衝撃音が響き、狼の身体が地に沈む。動かない。


他の狼たちは警戒し、唸り声を上げながら距離を取る。


「やっぱり……狼は臆病だニャ!」


そこからは、ニャエルの独壇場だった。


跳ねる黒い尻尾。唸るガントレット。

飛びかかる狼を弾き、拳が岩壁に叩きつけるような音を立てるたび、空気が振動し、森が揺れた。


やがて、戦いの合間にふっと静寂が戻る。


遠くで、鳥が羽ばたく音がした。


「終わったよー!」


明るい声が森に響き、ニャエルがティアに向かって手を振った。


ティアは茂みから立ち上がり、手を振り返そうとして──足がふらついた。


緊張がほどけ、身体がぐらりと傾ぐ。

慌てて木に手をついた拍子に、肩に木くずがぱらぱらと降ってきた。


「ティア! 上!」


ニャエルの叫び。


「え……?」


風が、逆巻くように下から吹き上げる。


見上げた先。

木の枝に潜んでいた狼が、飛びかかってくるところだった。


大きく開いた口、むき出しの牙が、まばゆく光る。


(……触れて、馴染ませる)


ティアは咄嗟に剣を横に振るった。


白く淡く輝いた刃が、羽のように軽くなる。

そのまま木の幹ごと、狼を断ち切った。


刃先が魔石に触れる。


一瞬、白い閃光が爆ぜて──魔石は弾けるように砕けた。


「え……?」


ニャエルはその光景を見たまま、動けずにいた。


「いたっ……」


無理な体勢だったせいで、ティアは尻もちをつく。

木漏れ日がこぼれ、肩に木の葉が落ちてきた。


「ティア! 大丈夫!?」


駆け寄ってくるニャエルに、ティアは力なく笑いながら剣を差し出す。


「あはは……剣、曲がっちゃった……」


その剣は白く変色し、不自然にぐにゃりと円を描くように曲がっていた。


ニャエルは呆れたように、それでも安堵をにじませて笑う。


「もう……どうしたらこんな風になるの」


「わかんない……昔から、こうなの……」


ニャエルは一度ティアを見下ろし、すぐに耳をぴんと立てて立ち上がる。


「待ってて、魔石集めてくる」


その背を、ティアはしばらく見つめていた。


森の静寂に包まれながら、さっきまでの恐怖と緊張が、少しずつ遠ざかっていく。


(……あの風がなかったら)


「ありがとう、風さん」


ティアが呟いたとき、やさしい風が髪を撫でて通り過ぎた。

木々の葉が揺れ、どこか遠くで、また鳥の声が響いた。



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