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麻布十番の居候  作者: そーた
39/52

三日目 何度でも逢いたいから


「すーた」



 さっきと同じように、居候に呼ばれて目を覚ました。まるで予定されていた動きのように、俺は黙って上半身を起こした。体はもうそんなにしんどくはなかった。


「もうそろそろ時間やから」


 居候の声はやけに無機質に聞こえた。携帯の時計を見ると、時刻は17時半。俺は渋々立ち上がり、そしてあらかじめ言いつけられていた通り、素直にマットを片付けた。黙々と片付けた。そして散らかった私物を全てリュックの中に詰め込み、荷物をまとめた。準備は思っていたよりも短時間で終了した。


 そういえば私物を片付けている最中、居候が『これお土産に持って帰れ』と言って、机の上に散らかっていた小袋詰めのお菓子を十数個、まるでゴミ箱の様に俺のリュックに投げ入れていった。その内のひとつを手に取ってみると、中は小さなオカキのようで、賞味期限は数日後に迫っていた。俺は確信した。たぶん俺がこのお菓子を食べる日は、永遠に来ない。



「居候くん」



 部屋を出ていく間際、俺は立ち止まり、彼の名を呟いた。なぜ呼んだかは自分でも分からない。だから何かしら、理由が欲しかった。


「帰りに、あの銭湯に入りたい」


「行ったらええやん」


「道が分からない」


「……」


 少しだけ押し黙ったような気配を、背中越しに感じた。

 しかし次の瞬間には、ピロン――と、俺の携帯が鳴った。ポケットから携帯を取り出してみると、居候からメッセージが届いていた。昨日行った銭湯の、ホームページのリンク先だった。相変わらず仕事の早い事だ、と思った。俺の口からはつい、ため息交じりの笑いが漏れ出た。



「ありがとう」


 礼を言って、俺は部屋のドアを開ける。


「そうじゃないのに……」


 去り際、俺は呟いた。あくまで独り言のつもりだったが、俺の声は居候の耳にも届いたようだった。


「なんて言ったん?」


 しかし、幸いにもーーと言っていいのだろうか、何を言ったかまではよく聞き取れなかったらしい。


「いや、なんでもない」


 幸いにもーーと言って果たしてよかったのだろうか……

 分からないまま、俺は玄関のドアを閉めた。



――――



 エレベーターの臭いは相変わらず独特だった。この匂いとももうこれでおさらばか。そう思うと、途端にこの悪臭も恋しくなってきた。



 俺は昨日の銭湯があるであろう方角を、ただ闇雲に歩いた。俺はやはり、居候から送られた銭湯の住所をグーグルマップで調べる事は無かった。たぶん、方向感覚を頼りに歩いていれば、そのうち着くだろう。


 入り組んだ道をデタラメに歩いていると、ふと視界の隅に、一つの自動販売機がチラリと見えた。とくだん何も気にせず、ただ目に入っただけの自動販売機。しかし俺は、その中のひとつの飲料に、思わず目を奪われてしまった。


 どこかで見たことがある細長の缶飲料。『マックスコーヒー』――通称、『マッ缶』がそこにあったのだ。


 本当にこの世に実在したのが信じられなかった。あるアニメの主人公が、この“マッ缶”を好んで飲んでいたのを見たことがある。関東にしか無いとの話だったが、まさか本当に関東に実在したなんて――考えてみれば当然のことではあるが――やはり少し信じられなかった。


 買いたかった。しかし、今はどうしても飲み物を飲む気にはなれない。某アニメの某主人公によると、なにやらメチャクチャ甘ったるいらしいではないか。


 俺は思い直した。別に今この場で飲み急ぐ必要も無い。どうせ今から銭湯に行くのだ。帰りにでも買ってゆっくり飲むとしよう。俺は先に急ぐことにした。



 歩き続ける事、二十分。気が付けば、俺は同じ道を何度も往復していた。まるで樹海で迷子になったようだ。目的地にたどり着くどころか、俺は前に進むことも出来ず、同じ道をただ右往左往するばかりとなっていた。


 ――さては、策略だな。何者かによって巧妙に仕組まれた罠に、気が付けば俺はまんまと陥れられていたみたいだ。

 頭上に、案内看板が立っている。『竹の湯はこちらに何百メートル』と、わざわざ矢印付きで案内がされている。それにしたがって歩いていくと、また頭上に看板がもう一枚――『竹の湯はこちらに何百メートル』と。その矢印は、いま俺が歩いてきたばかりの道を堂々と指し示していた。再びそれにしたがって、今来た道を歩いていくと、やはりそこには先ほどの看板。俺はもうかれこれ、ここを何十往復したか分からない。荷物が重い。


 ふと携帯を見ると、居候からメッセージが届いていた。


 居候:ついた? 17:43



 俺はそのメッセージに返信した。



 俺:道迷った 17:52



 彼からの返事はすぐに来た。



 居候:ついた? 17:53


 居候:人多くないの? 17:53



 まるで会話が通じていない。



 俺:そういえば住所送ってくれたからそれ見ながら行くわ 既読17:53


 居候:まだついてないんかい 17:53



 居候から送られたリンク先を開き、住所を調べあげると、どんでもない事実が判明した。



 俺:え、俺全然ちゃうとこおるやん 既読17:54


 居候:知らん 最初から地図見んやつが悪い 17:54



 その後、マップの指示に素直に従って歩いていくと、呆気ないほど簡単に目的地にたどり着く事が出来た。今までの数十分はいったいなんだったのか。俺はゲンナリとした気分になりながらも、昨日行ったばかりの銭湯へと入って行った。



 玄関先では昨日と同じ様に下駄箱のカギを取り、そして番台で金を支払った。正直、最後くらいはサウナに入ってもよかったのだろうが、俺はこんな時でもバカな吝嗇精神が働いて、結局サウナ代を出し渋った。


 脱衣所に入り、まずは居候にメッセージを返す。


 俺:ついた 18:01


 俺:そんなに人多くない 18:01


 俺:昨日と一緒 18:01



 それだけをさっさと送信してしまうと、俺は下駄箱の鍵番号と同じ番号の衣服入れに、下駄箱のカギを差し込んだ。しかし……


 何度ガチャガチャと引いても押しても、開かない。鍵の差し込みが悪いのだろうか? 俺があたふたしていると、横合いからいきなり声が掛かった。



「これはね、ここをこうすんだよ」



 隣のオッサンが、親切に俺のロッカーのカギを開けてくれたのだ。正直、“どこをどうした”のかはさっぱり分からなかった。しかし、俺はそのとき、東京の人間に対する考え方を少しだけ改めた。

 昨日は目黒駅のエスカレータで東京人の冷たい部分が見えてしまった。しかし俺は、今のこの出来事を通して、東京も捨てたもんじゃないなと、そう思う事が出来た。


 素っ裸になり、衣服を全てロッカーに投げ入れると、ふと俺の携帯画面が目に入った。居候からメッセージが届いていた。



 居候:ほお 18:02


 居候:サウナしたら? 18:02



 先ほどのメッセージに対する返信だ。俺も返事を返した。



 俺:サウナしやんかった 18:13


 俺:まだ入ってる 18:13



 そして携帯をロッカーに置くと、俺は浴場へと向かっていった。



――――



 ひとたび俺が銭湯へ入ると、少なくとも1時間以上はもう戻らない。というよりも、俺の入浴時間は1時間10分キッカリだ。“風呂好き”という人種の人間というのは、各々浴場に入ってからのコースというのがおおかた決まりきっている。

 俺の場合、まずは掛け湯。そして薬湯に浸かる。飽きが来るまで身体を温めると、今度はサウナに入る。その際、もしも塩サウナがある浴場なら、塩サウナに入るのが決まりだ。スチームサウナならスチームサウナに入る。とにかくサウナの亜種があれば、最初はそれに入るのだ。そのあと水風呂に入り、そして次から本命のサウナに入る。そしてサウナに三度入ると、そこで一度、体を洗う。それから最後はまた、サウナ、水風呂に入るという流れだ。皮膚の毛穴が閉まりきった状態で浴場から上がりたいので、もう一度体を洗う事は無い。その代り冷たいシャワーで出来る限り汗を流し切り、そして風呂から上がるのだ。そうすると、だいたい入浴時間は1時間10分に限られてくるわけだ。


 しかし、今回は違った。なにしろサウナというメインディッシュが無いわけである。だから入浴内容もかなり簡潔なものになった。入浴時間はたったの20分ちょっとだった。


 上がり際、水風呂がチラッと目に入った。水風呂は真っ黒だった。ここにも温泉水が引かれているのだろう。サウナに入らなかった事を、すこしだけ後悔した。



 今度はバスタオルを盗まれる事も無く、無事に銭湯から出ると、俺はまず自販機で清涼飲料水を買った。


 そして、銭湯を出た先の、隣のコインランドリーの脇の段差に腰かけ、タバコを吸いながらCCレモンを飲んだ。定番すぎていつからか全く飲まなくなったこの炭酸ジュースを、なぜかこの時ばかりはどんな味だったかを久し振りに思い出したくなった。


 ふと思い出したように携帯を見ると、居候からはやはりメッセージが届いていた。



 居候:上がった? 18:24



 直前に送った俺のメッセージの発信時間を見ると、18時13分。この男は俺が10分そこらで風呂を済ませると思っていたのか。



 俺:上がった 既読18:43



 俺は簡潔にそれだけを送った。そして携帯場面を開きっぱなしのまま、またタバコを一口吸った。そしてジュースを飲んだ。


 例のデカデカとしたリュックサックは、すぐ目の前に置いていた。置いていたと言うよりかは、俺自身がそのリュックサックにもたれかかっていた。ふと視線を外に移すと、一人の若者がコインランドリーへと入って行くのが見えた。こんな寂れたコインランドリーが誰かの役に立っている事が不思議に思えた。



 携帯画面を見ると、居候からの返事はもうすでに届いていた。


 そして、俺は彼からのそのメッセージを見た時――


 思わず、目を丸くさせてしまった。彼からの何気ないその一言は、俺の心の中の時間を、数秒だけ停止させてしまった。


 ――まるでサプライズで贈られた、ささやかなプレゼントの様に。



 居候:おつー 18:44


 居候:腹減ったな 18:44



 一見、なんの変哲も無い、ただのボヤキにしか見えないだろう。


 しかし俺の心が、すこしだけ踊った――ような気がした。



 ――もしかすると?



 ほんのかすかな期待が、降ってわいた。


 俺はすぐに返事をした。もしかしたらという期待を込めて、彼の気が変わらないように……



 俺:腹減った 18:45



 正直、そんなに腹は減っていなかった。



 居候:腹減ったな 18:46



 まるで探りあいのような、そんなやり取り。



 俺:腹減った 18:46



 そしてじれったくなった俺は、とうとう自分から切り出した。



 俺:ええよ。 18:47



 そして俺の期待は、見事に実現した。



 居候:奢ってくれるんか 18:47



 いくらでも奢ってやるさ。ーーと心の中で、俺は喜んで快諾した。



 俺:食いに行きたいねんやろ? 既読18:47


 居候:ありがとう 18:47



 そうと決まれば善は急げ。俺はすでに飲み終わったジュース缶をゴミ箱に捨て、すぐに彼に居場所を聞き出した。



 俺:どこ? 既読18:47


 居候:この辺で食ってから 電車乗るのがえーやろ! 18:47


 俺:おん 既読18:48


 居候:今どこ? 18:48


 俺:近く 既読18:48


 俺:竹の湯の 既読18:48


 居候:家の近くまてきてんの?(原文ママ) 18:48


 居候:なんや 18:48


 俺:向かえるよ 既読18:48



 そう言いつつも、俺の足はもうすでに彼のマンションへ向いて歩み始めていた。



 居候:なに系食いたいん? 18:49


 俺:なんでも 既読18:49


 俺:ラーメンでも焼肉でも 既読18:49


 居候:草ね(原文ママ) 18:50


 居候:焼肉は高い 18:50


 俺:草? 既読18:50



 この時、彼が送ってきた『草ね』というメッセージの意味が本当に分からなかった。たぶん、打ち間違えなのだろうが、どのようにしてそう打ち間違えたのかが、それがどうしても分からなかった。


 『死ね』と言いたかったのか? 俺の言う焼肉とは、初日の朝、居候のマンション周辺を散歩した際に見かけた『叙々苑』の事を言っていたのだが、その提案に対しての『死ね』だったのだろうか? そんな事を考えているうちに、また返事が来た。



 居候:なんでもえーねやろ? 草食べる 18:50



 ふざけたメッセージだ。しかし俺はなぜかこの時、何の前触れも無く、先ほどの『草』の意味をやっと理解することができた。



 俺:ああ。そうねってこと 既読18:50



 『そうね』を漢字変換してしまっただけだったようだ。俺はすっきりした気持ちになった。



 俺:あ、くさたべんのん? 既読18:50


 俺:えーよ 既読18:50


 居候:王将くいてーなあ 18:50


 居候:中華 18:50



 この男、そっちからボケてきたクセに、俺がボケを返したらスルーか。それにしても王将はないだろう。王将なんて俺の地元に腐るほど存在する。



 俺:いや、王将はどこでもえるやん(原文ママ) 既読18:51


 居候:関東少ないから言うてんねん 18:51


 居候:こっちきて全然食べてない 18:51



 それは意外だ、と思った。知らんわ、とも思った。



 俺:俺が嫌や 既読18:51


 居候:じゃあなにがいい?て聞いてるやん 18:52


 居候:ラーメンでえーの? 18:52


 俺:他は何があるん? 既読18:52



 そもそも俺はそんなに腹が空いてないのだ。何でもいいのだ。ただ最後にもう一度、居候に逢いたいだけなのだ。



 居候:近くで済ませようと思ったら あと パスタかなー 他は居酒屋になってまうから 18:52


 俺:居酒屋でもええよ 既読18:53


 居候:いや 帰れんやん 18:53


 居候:しかももういらん 18:53


 居候:お酒 18:53


 俺:わか 既読18:53


 俺:パスタでええんちゃう? 既読18:53


 居候:いまどこ? 18:54


 居候:ガスト? 18:54


 居候:ガスト? 18:54


 居候:パスタ? 18:54



 携帯に目を落としながらこんなやり取りをしているうちに、気がつけば俺の目の前には居候のマンションが立ち塞がっていた。迷わず目的地にたどり着けた事がすこし意外だった。



 俺:着いた 既読18:55



 念のためにそうメッセージを送ると、俺はマンションに入り、玄関口でまた、インターホンを押した。今回はなんて言おうか…… 


 普通に『開けて』と言っても開けてくれないのは周知の事実だ。何か面白い事をしなければならない。しかし、もうネタ切れだ。何か面白い事、面白い事……



「すーた」


「やっ⁉」



 突如背後から掛かった声に、俺は思わず仰天した。振り返ると、そこには居候の姿があった。


「遅いわ」


「居候……いったい、どうして?」


 ただただ呆気に取られていると、居候は照れくさそうにしてフッと笑った。


「お前が来んの……外でずっと待っててん」


 俺と居候は、抱き合った。まるで初日に再開したときのように。




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