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麻布十番の居候  作者: そーた
32/52

二日目 森 正也という男


 大通りの方からこの入り組んだ中にひっそりと佇む銭湯へと来るのは難しいが、逆であればそう難しい事では無い。


 俺は地図を見るまでもなく、ただ方向感覚だけを頼りに、ただ闇雲に突き進んでいった。


 案の定、しばらく歩くと既視感のある景色が俺を待ち受けていた。そして、既視感のある景色から、見慣れた景色へと辿り着き、見慣れた景色から、さらに知っている景色へと移り変わっていった。


 そして最後にたどり着いたのは、居候のマンション。しかし俺は彼のマンションには立ち寄らず(もっとも、居候本人がいないので入ることは出来ない)、その目と鼻の先に落ちる階段へと降りて行った。



 これから行く先も、見知った場所だ。俺は、昨日藤岡と再会したあの目黒駅行きの電車に乗るため、改札へと向かった。


 エスカレータに乗りながら、ボーっとしていた。ぐんぐん下へと下りていくエスカレータの先を見下ろしていると、ふと目の前に小太りの若い男が歩いてきた。根暗そうな、メガネを掛けた男だった。


 彼は目線を手元の携帯画面に落とし、前も見ずに歩いていた。そして今俺が乗っている、下へと降りるエスカレータへと、彼は下から近づいてきていた。上行きのエスカレータはとなりにある。俺はすぐに気付いた。彼は間違えていると。



「違う!違う!こっちじゃない!隣だ!」



 シンプルに危なかった。それに、たとえもしも大した危険が無かったとしても、下行きのエスカレータに下から昇ろうとすれば、ガタガタってなってつまづく事は確実だ。そうなれば彼にとっても赤っ恥だろう。だから俺は大声を張り上げて教えてやった。



「……」



 彼はこちらに気が付いたらしい。俺の言った言葉の意味も分かったみたいだ。彼は引き返して隣のエスカレータに乗った。

 しかし、彼は俺を深く睨み付けた。そして不快な表情を浮かべながら、また黙って携帯を弄り出した……



 森からメッセージが来ていた。



 森:いまどこ? 19:43


 森:こっちは着いたよ。JRの改札前にいる 19:48


 メッセージを見た時、俺は内心焦った。森はむかしからーー本当の中身はどうかしらないがーーなんとなく時間にうるさそうな雰囲気を放っていた。しかもいまは、彼は俺の事を嫌っているときた。時間に遅れたとなると、また前以上に嫌われるかもしれない。――そんな気がした。俺は急いで時間を確認し、返信を返した。



 俺:今向かってる 19:52


 俺:58分着! 19:52


 俺:メトロの方から乗ってる! 19:53



 既読はすぐに着いた。



 森:メトロかーい 19:53


 森:メトロの改札向かうわ 19:54


 むしろ好都合だった。これでもし合流が遅れたとしても言い訳が付くだろう。俺が『すまねえ』とメッセージを送ると、『ええんやで^^』と返事が来た。



 もうすぐ着く。もうすぐ、彼と会える。彼は、いったいどんな様子なのだろうか? 想像してみたが、とんと予想が付かなかった。

 最後に会ったのがいつだったろうか? それも良く思い出せなかった。


 もともと彼との繋がりは、同じ部署に配属された事で知り合ったのがきっかけだ。出会ったばかりの頃の記憶の中では、喫煙室でのやり取りがとくに印象的だった。その前にも彼とはいろいろ話をしたことがあるだろうが、少なくとも覚えている中での一番最初のやり取りが、これだったーー


 たしか喫煙室で、二人でタバコを吸っていたのだ。何の話をしていたのかは覚えていない。彼がミニサイズボトルのファンタグレープを飲んでいたのを覚えている。少し喉が渇いた俺は、彼にそのファンタグレープを一口飲ませるよう頼んだ。すると彼は快く飲ませてくれたのだ。

 そして、たしかその時の俺は何気なく、『口、付けたら怒る?』と聞いたのだ。すると森はなぜか慌てた様子で『いやいや、怒らないよ!そりゃあ全部飲まれたら怒るけど、口を付けるくらい全然いいよ!』と言ってくれた。


 優しい、と思った。しかしそれと同時に、『なんで全部飲まれると思ったのだろう?』と、ふとそこが疑問に感じた。その瞬間、俺はなぜかファンタグレープを全部飲み干した時の事を妄想した。そしてツボった。想像したら、なんだか面白かったのである。


 その後はなんだかんだで彼とは仲良くなった。部署内では一番心置きなく話せる人間だったと思う。しかも彼は藤岡と同じ、生粋のアニメ好きだった。俺が今好きなアニメは、ほとんどが彼から教わった物だったと思う。


 しかし彼は、やや神経質な性格も持ち合わせていた。いや、“常識的”といった方が的確かもしれない。“非常識”な俺にとっては、“常識的”くらいがすでにもう“神経質”なのだ。森は、俺よりも一つ年下(俺は大学時代に一度留年しているため)だ。しかし、はたから見るとその関係性はまったくの“逆”に見えただろう。俺がだらしない事をしでかしては、彼が俺を叱りつけるのだ。本気で怒られた事も何度もあった。


 もちろん、彼も彼でバカをやるのは好きだった。だからこんな俺を気に入っていたのかもしれない。だがそれでもやはり、限度というものはあったのだろう。たぶん俺の知らないところで、俺は森に対して“間接的”な迷惑をかけ続けていたのかもしれない。


 だから、彼が俺に対しての態度を硬化させた時は、俺は情けなくも妙に合点がいってしまった。森が俺を嫌うのには、十分すぎる動機があったからだ。



 そういえば思い出した。俺と森が最後に会ったのは、社員研修の時だった。そのときすでに俺と森は離ればなれになっていたのだ。森はすでに東京に転勤になっており、俺も俺で“例の部署”へと異動になっていた。


 ただ、どうしても時期だけが思い出せない。他の記憶とごちゃ混ぜになっているせいか、どうしても『何年ごろ、何月ごろ、季節は何、暑かったか、寒かったか、ほどほどだったか』などの手掛かりが一向に思い出せないのだ。ただはっきりと覚えているのは、そのころの俺は、辛かった。いや、より正確に言うと、辛くなり始める瞬間だった。しかしその時の俺にとっては、あくまでその時が人生のどん底だった。これ以上ないくらいの辛さだと思っていた。――なぜかって? まさか想像もつかなかったのだ。今がどん底だと思っていたのが、もう少し時間が経つと、さらに状況が悪化し、ついには右も左も、前後の間隔も分からぬくらいの沼にずぶずぶと沈んでいってしまうということが。


 たぶん、そのころは彼も同じだったと思う。彼も東京に異動になり、辛い環境に揉まれていたのだと思う。詳しくは聞いていないが、何となく言葉の節々から、そんな匂いを感じたのを覚えている。


 俺達はその社員研修のあと、一緒に飲みにいった……と思う。その時はまだ仲が良かった。そして俺達は互いの愚痴をこぼし合った。どうやら、『どん底の入り口』をどん底だと思い込んでいるのは、森も同じだったらしい。なぜなら、まだ二人とも不平不満を罵り合えていたからだ。



 ――そしてその日を最後に、彼との連絡が途絶えた。



 いや、厳密に言うと、返信自体は返ってきていた。しかしどの内容も、すべて俺からの連絡を拒むようなものばかりだった。


 夜の12時以降に彼にメッセージを送ると、彼は怒った。


 9時から20時までの間、つまり勤務時間中に彼にメッセージを送ると、彼は怒った。


 今ハマっているアニメを聞くと、『最近アニメは見ていない』と返事が来た。そして二言目には、『明日仕事あるから連絡してこないでくれ』だった。


 明らかに、様子がおかしかった。


 どうして急にこんな事になったのだろう? なによりも、『最近アニメを見ていない』という発言には得体の知れない不安を感じた。あれだけアニメが好きだった森が、なぜ?


 今回、森との再会を果たすうえでの目的。それは、たしかに表向きには、森が本当に俺のことを嫌っているのかどうかを確かめる事が目当てだった。どうして俺を嫌っているのか、それを聞きだし、彼に謝らなければならない。


 しかし、本当は、俺自身でも気が付かないフリをしている真なる目的が、実はあった……



 ひょっとすると森は、追い詰められているのではないか――



 かつての俺のように、もう何事にも興味が失せ、そしてただ亀のように固まったまま、愚痴、不満を溢す気力も無く、“出来ればいまこの瞬間に、自然死してくれないか”と、苦しみからの解放をただ待ちわびているだけのような、そんな状況に、追い詰められているのではないだろうか?


 そう考えると、背筋にゾッと恐怖を感じた。


 人間というのは、何の前触れも無くいきなり死ぬのである。俺はつい二か月前に友人を自殺で失ってしまったからこそ、森に対してもついそんな心配をしてしまうのも無理はなかったのである。



 目黒駅の改札を出ると、すぐにその人物は見つかった。



「ぶんちゃん」



 いや、声を掛けてきたのはあちらからだった。彼は俺を見つけると、意外にも軽い足取りでこちらの方へと近づいてきた。そこに居たのは、まぎれも無く、あの森 正也だった。



「森!」



 やっぱり懐かしい人間と再会するとき、俺はどうしても緊張してしまうものである。その時も、当初の予定ではなるだけクールに済ませるつもりだったが、どうしても中途半端に笑みがこぼれ出てしまった。たぶん、相当気持ちの悪い顔になっていたと思う。



「ひ、ひさしぶり……」


「久しぶりだね。ぶんちゃん、めっちゃ痩せた?」


 森は至って平気に見えた。じっさい、どう考えているのだろう?


「痩せたよ。台湾に行ってたからね」


「へえ~、台湾行ったら痩せるんだ?」


 なんとも取り留めも無い話を数言繰り返したのに、俺達はさっそくどこかの店を探しに歩いた。こんなところで立ち話はしたくない。一刻も早く、俺はゆっくり座って落ち着いて彼と話をしたかったのである。


「昨日、藤岡さんと来たばかりなんだ」


「マジで!藤岡に会ったんだ!」


 そんな会話をしながら俺達は、スクランブル交差点を中心に三方向に放射する大通りの内、真ん中の通りを選んで歩いた。


「さっきここに来る前、駅のエスカレータで嫌なやつを見たんだ……」


 俺は間を埋めるようにして、さきほど出くわした男の事を話してみた。


「……そして俺が『違う!そうじゃない!こっちだ!』と言ってやるとね、彼はお礼を言うどころか、俺を睨み付けてきたんだよ……」


「まあ、東京ってそういう所だから。あんまし他人に関わんない方が良いよ」


 彼が手慣れた様子で俺の話に対応する。そういえば彼も根っからの江戸っ子だったか。東京の吉祥寺出身だと聞いたことがある。



「どこでもいい?」


 森が振り返ってそう尋ねてきた。


「ああ」


 心底どこでも良かった。ただ俺は、出来ればタバコが吸えるところがいい、と思った。しかし口には出さなかった。


 そうして二人は、あれじゃないこれじゃないと言いながら、ついに立ち並ぶビル群のひとつを選び出して、中へと入った。エレベーターで何階かに上がると、魚介系の居酒屋があった。店の名前は見ていない。どうでもよかったのだ。




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