二日目 バスタオル泥棒
出て、すぐ横の棚に目をやった。俺のバスタオルがあったはずだ。
そして、俺はそこにあった自分の“その”バスタオルを手に取った。
ーーしかし、俺はすぐにその違和感に気が付いた。
「……ちがう。これ、俺のじゃない!」
そのバスタオルは、明らかに色が違っていた。いま俺の手にあるバスタオルは、なぜか“橙色”だった。俺の持ってきたバスタオルは、たしか“茶色”だったはず。棚にあるのは橙色のバスタオルのみで、俺の茶色のバスタオルがどこにも見当たらないのだ。
「泥棒だ!」
俺は無意識にそう叫んでいた。周りの人間たちが、一斉に俺の方へと振り返った。俺は舐め回す様にして、彼らの顔をひとつひとつ確認していった。しかし一見しただけでは、誰が泥棒だかは見分けが付かなかった。
犯人を捜し出すのは至難を極めた。下手人を捕えようにも、てんで推理が敵わない。頭を振り乱す様にして周りを見回したが、どいつもこいつも、それらしきものは一向に見当たらないのだ。一人ひとり、俺が各人の目の前までスタスタと訪れていっては、ジロジロと舐め回す様にそれはもう毛穴の奥まで覗き込むくらいの勢いで顔を確認して回ったが、ついに泥棒ヅラをした人間を発見するまでには至らなかった。
しかたがない――俺は犯人捜しを諦める事にした。よくよく考えると、誰かが泥棒をしたのだとは限らない。もしかしたら、誰かが間違えて俺のバスタオルを使っちまったのかもしれない。
そう一人で勝手に納得すると、俺は気持ちを切り替えた。そして、身体を乾かす方法を探るべく、俺は思案を巡らせた。
その時だった――
「……」
俺の視界に、なにげなく、例の橙色のバスタオルが映り込んだ。
そして次の瞬間、俺の目は棚の上に置きっぱなしになったそのバスタオルに釘付けになった。俺の視点は、ただそのバスタオル一点にのみ、定められた。まるで悪魔が操る不思議な魔力によって、俺は金縛りにあったかのように動けなくなってしまった。俺はこの時、悪魔の甘い囁きが自身の心に侵食してきたような気がした。
いっそのこと、もうこれを使っちまおうか? ――と思った。誰かが俺のバスタオルを使った事は確実なのだ。もしかしたら、このバスタオルは、俺のバスタオルを使った本来の持ち主の物なのかもしれない。そのバスタオルを使ってやることは、別に悪い事では無いじゃないか?
俺は何度も自分にそう言い聞かせ、そしてそのバスタオルに手を伸ばした。
しかしその瞬間、偶然俺はある物に目を奪われた……
それは、何の変哲も無い鏡だった。目の前の壁に、特別な意味も無く、ただ掛けられていた鏡だった。しかし、その鏡にはまぎれもなく、俺自身が映っていた。
そして俺は、その鏡の向こうに潜む俺自身を見て、思わず息を呑んだ。なぜなら、鏡に映る自分自身のその顔こそが、まぎれもなく、『泥棒ヅラ』だったからだ。
その瞬間、俺は悪夢から目を覚ました。ハッと正気を取り戻すと、そのバスタオルからすぐに手を引っ込めた。
危ない。危うく泥棒取りが泥棒になるところだった。俺は思わずゾッとした。俺はあと少しで、悪事に手を染め上げる所だったのである。
俺はバスタオルで身体を拭く事は諦めて、自然乾燥を試みることにした。俺は濡れた身体を乾かすため、その場でワルツを踊って見せた。風圧が起きるほどの勢いで身体を回転させると、辺り一面に水滴が飛び散った。まわりで体を拭いていたオッサンたちの体が、再びびっしょりと濡れそぼった。
脱衣所中を、ところせましと駆け回る――体を回転させながらである。まるでベーゴマの様にクルクル回り、そこら中の壁に激しく衝突しては跳ねかえる。そのせいで、体中にアザや擦り傷が出来上がった。体が乾くころには、全身が血まみれで、再びびっしょりとなっていた。
服を着終わり、再び半そで半パンのみの身軽な格好になった俺は、脱衣所を出る。そして、そのまま店を出る為、番台の前を通りかかった……
「ちょっと、お兄ちゃん」
しかしその時、番台のオヤジに呼び止められた。俺は肩をギクッと震わし、足を止める。何の用件かは、すぐにわかった。
「バスタオルは?」
「……」
俺は振り返ることなく、ただ黙っていた。
「ちょっと、困るよ。あれは貸バスタオルなんだから、ちゃんと返してもらわないと……」
どうやらオヤジは、俺がバスタオルを盗もうとしているのだと思ったらしい。
「……ありません」
俺は蚊の鳴く様な声を震わせ、なんとかそれだけを答えた。
「いや、たしかに貸したよ。俺はちゃんと覚えてんだよ。ウソを吐くなんてふてぇ野郎だろうだ。嘘つきは泥棒の始まりってな!どおりで兄ちゃん、泥棒ヅラをしているわけだぃ。ほら、ポケットの中を出してみな!隠すとしたらそこしかねぇでぃ!」
俺は別に否定する事も無く、ただ黙って半ズボンのポケットに手を突っ込み、中身を取り出した。左ポケットからは、携帯とアメリカンスピリッツのタバコ、そしてライターが出てきた。俺はゆっくりとそれらの品を掴み上げた左手を、オヤジから見えやすいように肩の上までかざし上げ、そしてパッと手を離した。――手の中の品々が、吊り糸が切れたかのように地面に落下した。
「……右もでぃ」
オヤジは油断ない声音で、抜け目なく再度俺に指示を出した。
俺も抵抗するつもりはない。左手と同じように、右手もポケットに突っ込むと、ずっしりと重量感のある“ブツ”を取り出した。パンパンに膨れ上がった財布だ。
そしてまた同じように肩の上の高さまで挙げ、パッと手を離した。地面に叩きつけられた財布はけたたましい音を響かせながら、中身の大量の小銭とカード類を辺り一面にぶちまけた。もちろん、財布の中にもバスタオルは入っていなかった。
「おかしいな……」
当てが外れたオヤジは心底不思議そうに声を漏らす。
「さてはテメェ、正直だな?」
俺は両手をホールドアップしながら、コックリと首だけで頷いて見せる。
「なるほど、正直の泥棒ってわけかい」
今までのオヤジとのやり取りを振り返ってみると、さっきの『ポケットにバスタオルを入れる』のくだりから思っていたことだが、このオヤジの言う事というはなかなかにして意味が分からない。『正直の泥棒』まで来ると、もういよいよ意味が分からなかった。
「違う。俺はただの正直だ。決して正直の泥棒でも正直の嘘つきでもない」
俺はやっと口を開いた。
「じゃあバスタオルはいったいどこへやったというんだい?」
俺は迷った。本来であれば、ただの憶測でモノを言うべきでは無い。しかし……
「俺のバスタオルは……盗まれた」
俺は正直に、事実を言う事にした。
「なるほど、ウソを吐いている様には感じねェ」
意外にもオヤジは、すんなりと信じてくれた。そしてしばらく考え込むように間を置くと、また俺にひとつ尋ねた。
「そういえばアンタに貸したのは橙色のバスタオルだったよな? ……だったら、橙色のバスタオルを使っている泥棒ヅラの男が犯人に違いねえだろうな」
橙色のバスタオルを使っている泥棒ヅラの男……そんなもん、ただの俺じゃないか。俺が今しがた泥棒ヅラで橙色のバスタオルを使おうとしていたところだ。
俺はいよいよこの店主がバカだと悟り始めた。だいたい、俺が盗まれたのは“茶色”のバスタオルだ。橙色って……
「……え?」
思わずオヤジの顔を凝視した。俺は自分の耳を疑った。
「今なんて?」
「だから、アンタに貸したのは橙色のバスタオルだろ?」
また、俺は自分の耳を疑った。
「……橙色? ……俺に貸してくれたのは茶色だろう?」
「ちげぇよ。橙色だ。俺ははっきり覚えてんだ。アンタに貸したバスタオルは橙色だ」
断言する店主。俺は固まったように動作を停止し、古い、擦り切れた記憶を手繰り寄せていった……
俺は風呂に入る前、棚にバスタオルを置いた。
どこに置いた?
たしか……誰かのバスタオルの隣に、だ。
そのバスタオルは何色?
たしか……たしか……
「……あ」
言葉にもつかないような呻きが、口からポッと飛び出した……
「兄ちゃん、アンタまさか……」
そう言われてみれば、そんな気がする……
俺がバスタオルを置いたとなりには……茶色のバスタオル。
そして、そのとき俺の手にもっていたバスタオルは……
「あ、おい!兄ちゃん!」
俺はなんの断りもせずに急に駆け出し、脱衣所へと走っていった。そして俺のただならぬ様子に騒然としている他の入浴客を無視して、俺は浴場の出入り口へと向かった。ガラス戸の向こう側の様子がパッと目に入った。居候が泳いでいるあの湯船はいまだに大波を立てて荒ぶっていた。
「あった!バスタオル!」
棚にはやはり、あの橙色のバスタオルが綺麗に折りたたまれていた。そうだ……言われてみれば、そうだ……
このバスタオルこそが、俺のバスタオルだったんだ!
俺は迷わずそのバスタオルを乱暴に鷲掴み、また来た道を駆け戻る。
「あったよ!俺のバスタオルだ!」
「いや、お前のではない!さあ、早く返しやがれ!」
手を差し伸べる店主を前に、俺は今一度自分のバスタオルを見直してみた。
まだフカフカのバスタオル。タダで返すのは、なんとなくもったいなかった。
俺はまだ乾ききっていない湿った髪の毛に、畳んだままのバスタオルを押し付ける。そしてゴシゴシとがむしゃらにこすり付けてみた。バスタオルの表面の一部分が、すこしだけ湿ったような気がした。
「オヤジ、すまねぇな。俺は嘘つきだったよ。泥棒では無かったが、嘘つきだったよ」
言いながらオヤジにそのバスタオルを押し付ける。オヤジはニコニコ笑いながら、快く受け取ってくれた。
「いや、アンタは泥棒だよ。兄ちゃんはとんでもない物を盗んでいった。それは、俺の心だよ」
「……そうかい」
「冗談だよ!一度言ってみたかったんだよ、これ!」
「ああ、はは」
俺は踵を返して店を出て行った。せっかく風呂に入ったというのに、俺の体はさっそく冷え切っていた。




