二日目 温泉の決闘
「ちょっと、触らせてくれるかい?」
湯船の“仕切り”越しに俺は手を差し伸べた。すると居候はわざわざこちらまで泳いできて、黙って胸を差し出してきた。
「ああ……ああ……」
やはり、変な紋様だ。
「はんッ……!」
ふと、居候が変な声を上げた。どうやら乳首を触ってしまったみたいである。
「気持ちいいかい?」
今度は意図的に乳首を指で弾いてみた。人差し指の爪でパチパチと、ずんぐりした彼の乳首を引っ掻いてやった。
「いい加減にせい!」
「うわ!何をするんだね⁉」
突如、熱い方の湯船から身を乗り出して掴みかかってきた居候。俺は体を捻って彼から距離を取った。
「お前にもおんなじことやったるわ!おら!ケツ出せ!お前のお尻をやっつけたる!」
「やめないか!俺はホモじゃない!」
「お前からホモってきたんやろ!」
組んず解れつしながら、俺は何とか立ち上がった。
「ヤル気かね?」
俺は拳を構える。
「ヤッたろうやんけ」
彼も立ち上がり、身構えた。そうして俺達は湯船と湯船を区切る“仕切り”を隔てて、互いに対峙した。
「言っとくが、きみ。俺は学生時代、総合格闘技をやっていたんだ。強いぞ。なんてったって現役時代は“無敗”の戦績を誇っていたからね」
これは、事実である。
「知っとるわ。『1戦1勝無敗』やろ? 試合だけ勝ってそのあとすぐ辞めたんやろ?」
これも、事実である。
「きみは体格差を頼りにしているようだが、技術では俺の方が上さ。居候くん、悪い事は言わないからやめておいた方が良い」
俺はそう忠告しながらも、ガードを高く上げ、慎重に間合いを取っていた。湯船は浅い。軽くステップを踏むたび、真っ黒の湯がジャブジャブと飛沫を上げた。
するとしばらくして、いったいどういうつもりか、居候がにわかにその顔に不気味な笑みを浮かべだした。
「お前、なんか勘違いしてないか?」
「……」
意味不明な言葉に、俺は警戒しながらも眉をひそめた。
「お前は大学時代、総合格闘技やってたかもしらんけど……俺は高校まで、何をしてたと思ってんねん」
彼の学生時代? もちろん、知っている……
「水泳部だろ? 知っているよ。国体にも出たらしいな」
俺はいまいち、彼が何を根拠にして、これほど自信満々な態度を取っているのかが分からなかった。たしかに水泳をやっていれば一般人に比べれば多少身体は頑丈だろう。しかし、水泳はあくまで水泳だ。格闘技ではない。俺は彼の言葉の意味を吟味してみるも、いまだその本意を分からずにいた。だがそれが分からない事が却って不気味でもあった。
水泳の何が偉いんだ? 精々泳ぐのが上手いくらいだろう。そんな人間が格闘家に勝とうだなんて……
……ん? 泳ぐ?
「ハッ⁉」
その時、俺の火照った身体が、底冷えするような悪寒で凍りついた。俺は今になってやっと、彼のその得体の知れない余裕さの意味がはっきりと分かったのである。
「フィールド効果か!」
恐ろしい事に、どうやら俺の予想は的中したらしい。彼の不敵な笑みは、いっそう影を深くした。
「そういうことや。もしこれが路上のケンカやったら俺は負けるかも知らんけどな――」
そして彼はグッと前に全屈する。それは――まるで水泳でのスタートの飛び込みのときのように……
「水中やったら負けへんぞ!」
“仕切り”の向こう側に陣取っていた居候が、まるでロケットの様にひとっ跳び。
俺の陣取る湯船へと指先から真正面に突っ込んできた。
「なに⁉」
あわや俺の身体を貫かんとしたダーツの様な身体を、寸でのところで俺は回避。ざぶん――と大きな水柱を上げて、居候のデカいカラダはせまいぬるま湯の中へと消えて行った。
「くそ!どこだ!どこにいる⁉」
もともと、子供用にと造られたぬるま湯は、大人にとってはかなり狭かった。ましてや居候の巨体である。湯船の直径は、居候の身長よりも短かった。
しかし湯船を満たす温泉は真黒であるため、水中を泳ぐ居候の姿はほとんど見て取ることができない。膝小僧くらいまでの深さしかないこの湯船のなかで、居候はおそらく地面にべったりと張り付くことでなんとか身体全部を収納しているのだろう。
しかし、足元をよく目を凝らして見てみると、俺の足まわりではうっすらと、彼の巨体がヌメヌメと蠢いているのが見えた。
「うっ……なんだこいつ!キモい!気持ち悪い!」
まるで得体の知れない未確認生物が俺の足元を取り巻いているようであった。非常に気味が悪かった。
「くそッ!どうすればいいんだ⁉」
水中に潜む彼を攻撃しようものなら、水中戦に挑む必要がある。しかしそんなことになれば俺に勝ち目はないだろう。なんといっても、見てのとおり水泳部は水属性であり、水中では敵なしだ。当然、属性効果によってパンチ力もキック力も増すことだろう。
水中を泳ぎ続ける居候に、俺は手も足も出なかった。
そして俺がただ手をこまねいていると……
「……ブハッ!」
「……⁉」
豪快な飛沫を上げながら、居候の顔が飛び出してきた。
「すわ!来た!」
俺はとっさに身構えた……
しかし居候の体はまるでトビウオの様に一度大きく跳ね上がると、また湯の中へと沈み込んでしまう。そしてまた俺の周りを旋回した。どうやら息継ぎをしただけだったらしい。
「何とかして息継ぎの瞬間に攻撃を仕掛けねば……」
恐らく、俺に勝機があるとすれば彼が水面から飛び出すその瞬間しかないだろう。しかし彼が息継ぎの為に顔を出すのはほんのわずか一瞬、俺は何としてもその一瞬を捉えなければならぬのである。
「……」
俺は全神経を集中させた。どこからくるか……
……いや、考えるのではない。
気配だ。気配を感じるのだ。
そして俺は、頭と心をシンと冷たく研ぎ澄まし、一点を見つめ、いつでも一撃を放てるよう、静かに拳を構えていた。
すると……
「……んばぁッ!」
こともあろうに、俺の真正面から彼の顔が飛び出してきた――
「――!」
俺の顔めがけ、居候の顔が飛び込んでくる……
その瞬間――
極度の緊張からか、その一瞬がまるでゆっくりとしたスローモーションのように感じられた……
ゆっくりと――でっかく――俺の目は居候の顔面を凝視した。
息苦しさから解放された彼の表情は、まるで魚の断末魔のようだった。しわくちゃの口は両端を醜く垂らし、大きく見開いた目は焦点が定まっていなかった。
その表情は、かつて俺がテレビで見た、気色の悪いブサイクな深海魚の表情とどこか重なって見えた。
「ヒイッ⁉」
あまりのグロテスクな顔面に、俺は思わず後ずさってしまった。顔面にパンチを撃つことも忘れ、ただ口から恐怖の声が漏れ出てしまった。
しかしその時にはもうすでに、居候の身体は再び湯船の中へと舞い戻っていた。俺はまたしてもチャンスを逃したのである。
「クッ……このままでは……」
俺は思わず歯噛みしてしまう。やはり、このままではジリ貧だ。戦いの主導権を握るためには、彼にとって有利でしかない水場での戦いを避け、せめて地上で決着を付けなければならないだろう。
「かくなるうえは……」
そこで俺はいったん、この湯船から出ることにした。
いつ襲い掛かってくるかもしれない居候に警戒しながら、俺は慎重に湯船から上がった。
そうしてほうほうのていで、俺はついに地上へと逃れることができた。
やっと水中から解放された。俺は湯船の前で再び拳を構える。
そして叫んだ。
「居候め!掛かってこい!ここで決着をつけてやる!」
温泉は激しく波打ち、のたうちながら、ところどころで大きな気泡がぶくぶくと溢れ出ていた。
「……」
しかし、居候が水面から出てくる気配は一向になかった。当然の事だ。なにせ彼にとっては、水中は自分の庭も同然、したがってわざわざ自分から出て行って相手の土俵で戦う利点などほとんどないのである。よしんば陸上へ打ちあがったとしても、彼は地面の上をピチピチと跳ねることくらいしかできない。戦うなんて論外だ。
とはいっても、こちらとしても状況は同じだった。水中で戦っては分が悪い以上、なんとしても居候を湯船の中から引きずり出し、地上決戦を行なわねばならぬことには違いなかった。
「そんなところに隠れてないで、男らしく勝負しろ!お前なんて怖くないぞォ!」
俺は何度も居候めがけて吠えたてた。
しかし、彼は俺の度重なる挑発にも決して乗ることはなく、依然として狭い湯船の中をところせましと泳ぎ回っていた。
「……」
俺は何気なく、後ろを振り返った。
ふと、入り口のすぐ右のところに、サウナ室があるのが目に入った。
そして俺はしばらくの間、ただ遠巻きにしてそれを眺めつづける。
するとふいに、ほとんど何の予備動作も無く、俺はおもむろに足を踏み出した。やや躊躇いながら伸ばした小さな一歩は、サウナ室へと向いていた。
そして恐る恐る、まるで忍び寄るかのようにして俺は慎重に歩を進める。
やがて、サウナ室の前へとたどり着いた。
「……」
入ってみようか? たぶん、何も言われやしないだろう。
どうせバレない――なんてタカを括ってはいたが、いざ入ろうとなるとやっぱり多少の勇気はいる。ここは地元じゃないんだ。
しかし、俺はもう半ば投げやり的な気持ちになって、とうとうサウナ室のドアへと手を掛けた。そして、あえてそれ以上深くは考え込まず、俺は思い切ってそのドアを引いた……
「あれ?」
しかし、ドアは開かなかった。
俺は呆気に取られながらも、何度も何度もそのドアをガチャガチャとしてみた。しかし、押しても引いても、ドアが開く事は無かった。
俺はためしにドア窓から中を覗いてみた。サウナ室にはたしかに人がいた。締め切っている訳でもないみたいだ。
俺はサウナ室の前で、ただ挙動不審にあたふたとしていた。すると俺の視界の外から、ふいに別のオッサンが声を掛けてきた。
「アンちゃん、このサウナはカードが無いと入れないよ」
「あ、すみません……」
オッサンはサウナに入ろうとしている様子だった。俺はその状況を見てやっと、入り口に突っ立っている自分が他の客の邪魔になっていることに気が付いた。とっさに謝り、俺は身を引いた。
するとオッサンは、そのまま俺の前へと割り込んだ。よく見るとオッサンの手には、何やら見たことの無いプラスチック製のカードが用意されてあった。
そしてオッサンは、何やらドアの引手部分に存在するカードの差し込み口らしき穴に、そのカードを差し込んだ。するとたちまちドアは開き、おっさんはサウナの中へと入っていった……
なにがなんでも、お金を支払わない事にはサウナに入れない仕組みになっていたらしい。
「……」
俺は先ほど入っていったオッサンを恨めしげに見つめていた。たとえ中に入るのにカードが必要だったとしても、まあ入ろうと思えば入ることは出来るだろう。
しかし、諦める事にした。わざわざキセル入室をしてまで、入る気にもなれなかったのだ。
……体を洗おう。
番台でタオルなどを買った際、ボディーソープとシャンプーも一緒についてきた。四角い袋に入った使い切りのものだ。体を洗うものは何も持ってきてなかったため、これには大変助けられた。
頭を洗い、身体をタオルで擦った。下半身を洗う際、ふと俺の性器が目に入った。真っ黒な気色のその“部分”。俺の包茎は、いったいいつになったら剥けるのだろうか? そういえばもう久しく使っていない。
体を洗い終わったあと、また少し湯船でぬくもる事にした。ヌルい方の湯船は相変わらず居候によって支配されているので、俺は仕方なく熱い方の湯船に入る事にした。
「パパ~、このお風呂、お魚さんが泳いでるよ~」
先ほどの親子連れだ。パパの方は、湯船を指さす子供を抱きかかえながら、『わぁ~、おっきなお魚さんだね~』などと言いながら一緒に湯船の中を覗きこんでいた。
しばらく身体を温め、頃合いを見てから俺は浴場から上がる事にした。浴場口の引き戸を開けた時、俺はふと気になってもう一度後ろを振り返った。居候の潜む湯船は今もなお嵐の海の様に荒れ狂っていた。




